策士











 閉め切った窓を開け放ち、新しい空気を肺一杯に吸い込むと、吐く息と一緒に欠伸が出た。

 …戦でもないのに、何で毎日遅くまで怪我人が出るんだろう…
 皆修練に気合を入れすぎなのよね…。

 は欠伸によって出た涙を自身の手で拭いながら作業衣の袖を捲り、薬品の点検を開始する。
 これは、軍医であるの日課で…足りないものがあった時、朝のうちに薬品庫に行って調達しなければならない。
 それを怠ると父−深怜−にこっ酷く怒られるのだ。
 「…あんの馬鹿親父!たまには自分でやれって! ったくぅ…」
 と大きな独り言を零しつつは作業を進める。
 と、背中に人の気配。

 げっ…父上…?

 恐る恐る振り向くと、其処には父とは似ても似つかない勇ましい青年の姿があった。
 「お早うございます、。 お目覚めは如何ですか?」
 声の主はそう言うと、拱手しながら一礼して顔を上げた。
 その笑顔は寝起きの目には毒になるのではないか?という程に眩しく輝いていて、は軽い眩暈を覚えながらもその顔から目を逸らさないでいる。

 今、一番見ていたい笑顔。
 そして…一番傍にいて欲しい、と思う人。

 は手に取っていた薬品の瓶を棚に戻すと、陸遜に向き直った。
 「…伯…いえ、陸遜。お早う…今日はやけに早いのね」
 「あ…其処、言い直さなくても良かったのに」
 「え?何が?」
 「名前の処ですよ。…まだ誰も居ないんですから、『伯言』って呼んでください」

 「あのねぇ…私が此処に居るということは、もう仕事してるのよ。
    『仕事中はちゃんとしよう』って約束だったでしょ?」

 「そうですけど…まだいいじゃないですか」
 陸遜はそう言うとぷぅ、と頬を膨らませた。

 …可愛い。
 でも、いつも『これ』に騙されるのよね…

 はむくれた陸遜の頬を両手で包み込みながら
 「はいはい。文句は後で聞いてあげるから…」
 と言い、再び作業を始めようと陸遜に背を向けた。
 刹那、の体は一瞬にして陸遜の両腕に拘束される。
 「こら、何すんの…駄目だってば」
 男性にしては細い体格の割に逞しい腕の中でもがく
 その顎に陸遜のしなやかな指が添えられ、顔だけ後ろに向かせられる。
 「…愛しています。
 間近に迫った笑顔が更に近付く…。

 何時、そんなこと覚えたの…?
 って何時か訊いたことがあったね…。

 暫し、お互いの感触を楽しむような口付けが続いて、の体は何時の間にか陸遜と抱き合う形になっていた。
 そして、二人の口付けがより一層激しく…

 がたん。

 不意に医務室の扉が開く音がした。
 「誰かおるか? ?」

 げげっ!今度こそ父上!

 慌てて陸遜から体を離そうとする
 しかし、陸遜は構わずにの体を両腕で拘束し続ける。
 「ちょっ…陸遜。父上が来たわ。早く離して」
 「…嫌です。…貴女が字を言ってくれるまで離しません」
 「んもう…解ったわ。 離して、伯言」
 「それじゃ強要してるみたいです。…もっと心を籠めてください」
 「我が儘ね… 愛してるわ、伯言」
 「…結構です」
 満足した陸遜は、ぱっと腕を広げるとの体を解放して…やっと自由になったはふぅ、と一息つくと薬品棚に向かったが…

 …ん?
 何、この殺気?

 気配の方を振り返ったの目に飛び込んだのは父・深怜の怒りに満ちた顔だった。
 「…こんな所で仕事もせずに『お楽しみ』とは…いい身分になったものだな」
 「ちっ…父上?いえ、これには訳が…」
 声を上ずらせてうろたえる
 視線は自然と陸遜の方へ泳ぐ。
 その陸遜は、と言うと。
 会った時と同じような眩しい笑顔でこの状態を楽しそうに見ていた。



 お父上に気付かれましたね…
 此処までは『狙い通り』です。

 …さて、問題はこの後です。
 はお父上に正直に言えるでしょうか?
 「陸遜とは恋仲です」って――



 「深怜殿、殿。私はこれから執務ですので…これで失礼します」
 陸遜はそう言うと拱手して踵を返し、室から出ようとの傍に近付く。
 そして、すれ違いざまにの耳元に極々小さな声で言った。
 「仕事中に字で呼んだ罰、後で受けて頂きますよ」

 !!!やっぱり!

 今度もしてやられた。
 は悔しい思いをしながら、父親からの説教を受け続けた…。









 「くっ…、其処、気持ちいい…もっと…」
 「ん?此処がいいの?」
 「はい…あぁっ! そのような…きっ、きつ過ぎます…」
 「あ、ごめん… って、そんなに艶っぽい声出さないの!」
 は腹這いになって寝そべる陸遜の無防備な後頭部をばしっと叩いて言った。
 叩かれた張本人は「酷いな…」と言いながら寝台からゆっくり起き上がり、の目の前に顔を近付け
 「でも、本当に気持ち良かったんですよ? それとも…今の私の声で発情しちゃいましたか?」
 と言うと唇の端を軽く吊り上げ、くくっと笑った。
 瞬間、の顔が上気する。
 「ばっ…馬鹿な事言わないで! もう…まだ陽が高いのに…」
 「私は構いませんよ。 否、寧ろそちらの方が貴女にとっては『罰』になり得ますかね」
 「こ〜ら〜! 伯言〜!」
 「あはは。 …冗談ですよ」



 陸遜の執務室。
 床には書簡が所狭しと置かれていて…足の踏み場と言ったら扉から仮眠用の寝台までの動線くらいで、前にが片付けようとしたら
 「駄目です。片付けられたら何処に何があるか私に解らなくなってしまいます」
 と部屋の主に制されたように、これはこれで陸遜にしては『働きやすい環境』なのだ。

 …だとしても、ねぇ…。

 起き上がった陸遜の肩を両手で揉みながら、一見無造作に見える書簡の山を見詰めた。



 今朝、陸遜から言われた『罰』。
 それは昼の休み時間を利用し、按摩…つまり、疲れた体を解すということだった。
 陸遜の仕事は体力はあまり使わないものの精神的にかなり疲れるようで、それは全身の『凝り』に現れていた。
 軍医であるは『按摩』にも通じていて、『策』に嵌ってはこうやって陸遜の身体の疲れを癒している。



 …そう、私は…最初から陸遜の『策』に嵌ってたのよね。



 の心はあの頃−1年前−に遡っていく…。









 中庭にある水場。
 は其処で治療に使う器具の洗浄作業をしていた。
 洗浄した後消毒し、仕分けして棚に仕舞う…という気の遠くなるような作業を彼女はいつも楽しそうに進めていた。
 時には軽く歌を口ずさみながら。
 時にはと同じく洗い物をしに来た女官達と話をしながら。


 今日は朝から天気が良くて、早朝の日差しは楽しげなの笑顔を暖かく照らし、爽やかな風は後ろで束ねた長い黒髪の先を優しく靡かせる。

 あ〜 …気持ちいい〜

 は作業の手を一旦止め、太陽の光を全身で受け止めるように両手を拡げて天を仰いだ。
 …が、流石に仰ぎ過ぎたらしい。
 の身体は勢い余って後ろに…

 …! 倒れる…!

 どさっ!

 …? 倒れっ…てない???

 その場に座り込んだまま周りをきょろきょろ見回していると。
 「殿…貴女が幾ら軽くても、このままでは流石に困るんですが」
 お尻の下の声が少々苦しそうに言う。
 が、ん?と下を向くと、仰向けに倒れた陸遜が歪んだ笑顔で「でも、間に合ってよかった」と言った。

 少し遠くでを見ていた陸遜が自身の持ち味である『素早さ』を使って倒れかかった彼女を受け止めた…まではよかった。
 しかし、その後…陸遜の方が勢い余って倒れてしまったのだった。



 「わわっ! …ごめんなさい。 大丈夫?」
 慌てて横に退けたは、それでも依然倒れたままの陸遜に手を差し伸べる。
 陸遜はその手を取ると「貴女は大丈夫ですか?」と言いながら身体を起こした。

 暫しの沈黙の後。

 お互いの顔を見合っていた二人は、どちらからともなく笑い出した。
 「あっは…まさか陸遜が下に居るなんて…」
 「あはは… 否、私もまさか貴女のお尻が先に来るなんて…」

 「『お尻が先』って…あはは!」
 この笑いは暫く治まらなかった。



 「陸遜は何時も朝早いの?」
 「はい…あ、いえ…何時もはもう少し遅いんですが、今日は早く起きてしまったので。
    殿こそ、毎日こんなに早く仕事を始めてるんですね」
 「うん。薬品の点検とか、器具の整頓は私の仕事になってるからね」
 二人の笑いがようやく治まって、洗浄作業を再び始めたの横には陸遜が膝を抱えてしゃがみ、の姿を見詰めていた。
 「…大変じゃないですか?」
 「ううん。こういう作業って私、結構好きなのよ。 …性分なのかな」
 「くすっ…意外ですね」
 「ん? どういうこと?」
 「いえ…今まで、殿は大雑把な人なのかな、って思っていましたから」
 「…あ、何気なく酷いこと言ってる〜」
 「あはは…」

 勿論、知ってますよ…私は。
 貴女が誰よりも『世話好き』だってこと…。

 暫く二人の時間が続き、の作業が終わった。
 器具の入った盥(たらい)を抱え、立ち上がったを陸遜が制す。
 「重いでしょう…私が部屋まで持ちますよ」
 「…いいわよ。毎朝やってるし、陸遜だってこれから執務でしょう?」
 「これくらいは大丈夫ですよ。 さぁ、貸して下さい………それっ!」
 盥をから半分奪うように受け取る陸遜。
 しょうがないわね、と微笑を浮かべる
 そして二人は肩を並べて医務室へと歩き出した。

 「殿…宜しかったらこれからも…朝、お付き合いしてもいいですか?」
 「ん?こんな朝早くに?」
 「はい。殿とお話してて、凄く楽しかったものですから」
 「私は構わないけど…このために頑張って起きる事、ないようにね。それだけは約束よ」
 「はい、ありがとうございます!」



 医務室に到着し、に指示された場所に盥を置いて。
 扉の取っ手に手をかけた陸遜にが声をかける。
 「お疲れ様。…どうもありがとう」
 「いえ。これからのお仕事、頑張ってくださいね」
 「うん。 …陸遜もね」
 「はい! …じゃ、失礼します。 また明日」

 ぱたん。

 室の扉が閉まった後。

 ん? 「また明日」?
 早く起きた時…だけじゃないの?

 器具の消毒を始めながらは頻りに首を捻り続けた。



 一方の陸遜はと言うと…小さく笑いながら、廊下を軽やかな足取りで歩いていた。

 きっかけは思い掛けなかったですが…まずは『狙い通り』ですね。

 朝早くを見ていたのは『偶然』ではなく、陸遜の『策』だった。
 医務室で執務に励むに一目惚れしてから、彼の日常は微妙に変わった。
 の行動を調べ、出来るだけ自然に側に行けるように思案した結果…。
 『話をするきっかけを掴むのは早朝』との答えを得るに至った。
 そして、話し掛けようとした瞬間に『偶然』が起きた。

 「『偶然』も策には必要なのでしょうか…?」
 陸遜は自室に歩を進めながら首を捻っていた。



 の朝のお相手は。
 歌でもなく。
 女官達でもなく。
 『あの瞬間』から…陸遜唯一人となった。











 「…?」
 「あっ…ごめん、伯言。 ちょっと考え事してた」
 「んもう… ちゃんと集中してくださいね」
 「はいはい」
 思い出している間に手が止まっていたようだ。
 は軽く自分の手を振ると、再び陸遜の肩を揉み始めた。



 暫く黙って『按摩』を受けていた陸遜だったが、不意に首をの方に向けた。
 「あ、そうだ…、朝の一件はどうなりました?」
 「ん? …父上のこと?」
 「はい。 …あの事、お父上に何て言い訳をしたのかな、って」
 「う〜………言わなきゃ駄目?」
 「勿論。是非聞かせてください」
 う〜、と軽く唸りながら目線を宙に泳がせる
 目を輝かせながらその姿を見詰める陸遜。
 その目線が一つに交わった瞬間、
 「『伯言は私にとって一番大事な人です』って言ったわ」
 頬を赤らめ、照れながらも陸遜から目を逸らさずには言った。
 そして、それにちょっと困ったような表情を入り混ぜ、
 「『私よりも大事なのか!』って怒鳴られたけどね」
 と言った。
 陸遜はそんな彼女の表情に目を細めながら
 「それでは、当面の敵はお父上、ですね」
 と言うとの身体を両の腕で包み込む。



 「ねぇ、伯言」
 「はい? 何でしょうか」
 「あの時、父上が来ることも計算に入れてたでしょ」
 「あ、解っちゃいましたか?」
 「そりゃ、何回も伯言の『策』に嵌っていれば、ね」
 はそう言うと、陸遜の腕の中でけらけらと笑った。

 …、そういう貴女も立派な『策士』ですよ。
 …私にとっては、ね…。





 暖かく、爽やかな昼下がり。
 外にはあの頃と同じような澄んだ空が青く広がり…
 二人の変わらない笑顔のような太陽が大地を照らしていた…。





 fin.



 アトガキ
 またやっちゃいました〜w
 (スミマセン…今何気にテンションが…)

 今回のりっくん…ストーカー(笑へ

 今回は『策士・りっくん』ということで。
 思いっきり黒くしたかったのですが、灰色くらいになっちゃいました(汗

 管理人、後ろから抱き締められる、ってシチュエーションを多用してますが。
 そんなシーンが大好きです!(うはは

 実はヒロインも『策士』で、愛するりっくんのために敢えて毎回『策』に嵌り、マッサージをしてあげる。
 また、遠くで見ていたりっくんとお近付きになるためにワザとコケてみた、という考え方もアリです。

 お尻の下にりっくん…これもある意味悶え要素(何
 この事からも、りっくんは将来…ヒロインの尻に敷かれる事必至(違

 もう一つ。
 実は…

 最後、ヒロインが父上に何も言えずにりっくんの罰を更に受ける…
 裏設定のオチも考えてました(滝汗


ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!

2006.7.14     飛鳥拝

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