寒い…。

自分の身体から熱が…力が奪われていくのを感じる。

この瞳から流れる透明な雫と。

不覚にも受けた傷の数々から地へと溢れ往く紅いもの。



こんな時に…ようやく人の肌の温もりが恋しくなるなんて、ね…。





ねぇ…元譲。

私も………そろそろ潮時かも、よ………。













轍 〜思い出の足跡〜














金属がぶつかり合う音、肉を切り裂く鈍った音、地に倒れていく『人』という塊が発する音。

その音と混じるように。

歓声とも怒号ともつかない声達が空を行き交う。

耳障りだ…と目をぎゅっと閉じ、かぶりを振る。

彼女は静寂を好み、戦場で否応なしに聞かされる音をこの上なく嫌っていた。

それなのに。

戦場に身を置き、自らその音を発していく。





……………まるで死に急ぐかのように……………



















「…まだまだ!」

自身の得物を地に着け、支えにする。

の発する声は依然張りのあるものだったが…。

意識とは裏腹に、体力は限界に限りなく近付いていた。

それを見て夏侯惇は『滅麒麟牙』を鞘に収める。

「…今日はもう終わりだ。 お前も部屋に戻れ」

「駄目よ。 私、やれるわ」

「………」

聞き分けのないの言葉に憮然とした表情を向ける夏侯惇。

鞘に収めたままの『滅麒麟牙』を手に取ると、膝を折る彼女の得物に添え、軽く払う。





どさっ!





支えを失い、その場に力なく倒れるの身体。

それでも自然と受身を取っているのは夏侯惇による修練の賜物であろうか。

しかし彼女は「くっ…」と唸り、倒れたまま悔しげに目を伏せる。

夏侯惇は眉を顰めながらその姿を一瞥すると

「…それの何処が『やれる』、だ? …部屋に戻れ」

徐に自身の部屋の方へと踵を返した。

そして…何かを思いついたのか数歩進んだ所で足を止めるとの方へ振り返る。

「…

「…何よ」

「今宵…お前の部屋に寄る。 それまでに少しでも体力を回復しておけ」

唇を噛み締め、睨みつけてくるに表情を微妙に緩める夏侯惇。

刹那、の顔は紅潮し、「うん…」と言ったきり何も言い返せなくなる。

その様子を見て満足したのだろう…。

夏侯惇は再び踵を返し、部屋へと歩を進めて行った。










数刻後。

夕餉や湯浴み等を終え、後は寝るだけとなった頃。

先程の予告通り…夏侯惇はの部屋を訪れた。





言葉を交わす時間すら惜しむように…幾度となく肌を重ねる。

公然に口にしてしまえば誰もが不埒だと言うこの行為を二人は好いた。

乱世、軍の規律、そして男と女…。

あらゆる柵(しがらみ)を全て忘れ、意識を溶かし。

ただ目の前に居る愛しい人と身体ごと混ざり合っていく…。





心地いい喪失感にぼんやりと天井を見上げる二人。

乱れた自身の髪を撫で梳きながらがゆっくりと口を開く。

「…どう、したら…」

「…何だ?」

「ねぇ…元譲。 どうしたらもっと強くなれるかな?」

「…またその話か」

夏侯惇は両の手を頭の下に持っていき、大きく溜息をついた。





が夏侯惇の副将として戦場に赴くようになってからというもの。

「もっと強くなりたい」と言うの我が儘に近い言葉に付き合わされるような形になった夏侯惇。

殆ど毎日のように稽古をつけてやっている。

夏侯惇自身は「もういいだろう」と思っているのだが…当の本人が止めようとしない。

まるで狂人になったかの如く得物を振り続ける。

夏侯惇はそんな彼女に一抹の不安、軽い戦慄さえ覚えていた。





。 お前は何故…強くなりたいと思うのだ?」

夏侯惇は顔の半分程まで掛け布を被るに訊いた。

修練の時とは全くの別人ではないか、と思わせるほど儚げな傍らの姿に…。

すると、は被っていた掛け布をがばっと剥ぎ、その身を起こすと。

先程の名残を思わせるような…白さの中にほんのりと赤みが差す肌を彼の目の前に晒した。

その背中が振り返らずに言う。

「…貴方の傍に居たいからよ…何時如何なる時もずっと、ね」

「…それが何故『強くなること』に繋がるのだ?」

同じように身を起こし、無防備な背中に垂れる長い髪を避けてその首筋に口付けを落とす夏侯惇。

晒された肌が余程綺麗だったのだろう…一度醒めていた熱情が再び呼び起こされる。

しかし、は「…もう勘弁して」と身を捩ると掛け布を胸にまで引き上げ、夏侯惇に振り返りながら言葉を紡ぎ出す。





「貴方の副将になったはいいけど…。

未だ筆頭じゃない。

私は一番になりたい…。 ううん…違うわ。

貴方の背中を守るのは私だけじゃなきゃ嫌なの。

男でも女でも…貴方の背中に誰かが居るっていうのが我慢できないの。

だから…貴方が『お前だけで充分だ』って言うまで強くなりたい」





夏侯惇の目前に表情を決意で固くする女戦士の顔が迫る。

その心を緩めるように…紅潮する頬に自身のそれを寄せ、細い身体を抱きしめた。

「…そのような事でお前自身が壊れてしまっては俺が困る」

「でも…」

。 …そこまで急ぐ事はない」

夏侯惇はそう言うと微かな笑いを洩らし、の髪に口付けを落とす。

そして、背中で末広がりになっている髪を軽く束ねてやりながら更に言葉を連ねる。





「本当は以外の副将に背中を預けたくはないのだが。

孟徳が言うのでな…やむを得ずつけているだけの話だ。

お前は充分に強い。 何れはお前だけと共に戦に赴こうと思っている。

故…お前も急ぐ事はない。

お前は充分に強い。…後は孟徳がお前を認めるまでよ」





夏侯惇によって再び床に押し倒されるの身体。

二人の視線が自ずと絡まり合う。

「それじゃぁ…後は殿が認めるだけの武勇を身に付ければいいのね」

「あぁ…。 だが程々にしてくれよ」と苦笑交じりに納得する夏侯惇。

「しかしな…戦場でのお前も充分魅力的だが、俺は今ここに居る自然体のが良いと思うぞ」

「…なんとなく下心が透けてる気がするけど…嬉しいわ。 ありがとう、元譲」

は一瞬だけ唇を窄ませたが、直ぐに夏侯惇の首に腕を回しながら心底幸せそうな笑顔を零した。







そして…二人は今宵幾度目かの愛欲に身を任せ、溺れていった…。



















依然、彼女の太刀筋には一部の乱れもない。

次々に一閃を繰り出し、敵兵を血祭りに上げていく。

紅い幕の中に自らの身を投げ出しながら…。

突如、彼女の心に幸せな過去の記憶が場違いに過った。





「こんな時に…否、こんな時だからこそ、か…」

彼女は小さく舌打ちをし、独り言を吐くように呟いた。





彼女は確かに強くなった。

それは君主である曹操も認めざるを得なかった事実で。

程なく、彼女のみが夏侯惇の副将となった。

彼女はそれを至上の喜びとし、彼女自身誇りに思ってもいた。

しかし…。





再び過去の記憶に苛まれる心に。

「元譲………。 貴方の居ない、背中なんて………」

彼女は天を仰いで、憎たらしいくらい澄んだ空に吐き捨てる。



刹那。





彼女の背中に………一瞬の隙を突くように無数の矢が降り注いだ………。



















「…ここが死に場所か」

「…元譲」

夏侯惇の悲痛な一言には何も返せなくなる。

曹操の死後…間もなく病に罹り、病床の身となった夏侯惇から片時も離れようとしない彼女を。

誰も咎める事が出来なかった。

それ程までに彼らの絆は深く、共に戦う姿は周囲の者達にとって何かの象徴のように映っていた。





「馬鹿っ! …こんな元譲、見たくないよ…」

は夏侯惇が横たわる寝床の傍らに突っ伏し、一筋の涙を頬に伝わらせた。

見たくない。

だけど…傍に居たい。

遣る瀬ない気持ちには心も言葉も詰まらせる。

知りたくもないのに…勘付いてしまった夏侯惇の死期。

今にも儚く消えてしまいそうな命の灯火。

それを黙って見ているだけなんて、と口惜しそうに唇を強く噛み締める





刹那、不意に夏侯惇がふっと自嘲気味に笑った。

そして、の頭に手を添えながら言葉を紡ぎ出す。





「すまんな…

だがな…。

俺は…この先、戦に出ることはないだろう。

…お前もそろそろ…俺から離れて戦ってもいい頃ではないか?」





夏侯惇自身の口から発せられた言葉に、はがばっと身を起こすことで答えた。

顔は悲しく歪み、瞳からはぱたぱたと涙が零れ続ける。

一番言って欲しくない言葉を、この人は、吐いた…。

私は………。

自身の膝を濡らし続ける涙を止めようともせず、は両の手を組んで力を籠めた。

そして、睨みつけるように鋭い視線を夏侯惇に向ける。

激情に溢れた言葉と共に…。





「私は…軍や殿のために強くなったわけじゃない!

貴方を護るためだけに強くなったの!



…その貴方が居なくなったら…

私が強くなった意味がないじゃない!」





刹那。

「ならば俺の意志を継げ!」

更に言葉を連ねようとしたに夏侯惇の一喝が降りかかった。

その言葉にの涙が止まる。

元譲の、意志…。

それは…。

夏侯惇はその場にやっとの力で起き上がると、の頭を両腕で包み込んだ。

お前の泣き顔は見たくない、というように。

そして、その耳元に唇を寄せてぽつり、と零す。

「俺の意志は…お前の心に刻まれている筈だ」

「…」

そんなこと…言われなくても解ってる。

私に対して…貴方は何時も心を開いてくれてたから。

だけど…言ったら直ぐに全てが終わってしまうような気がして…。





は言葉に出来ない想いをぶつけるように…痩せた身体に縋り付いて、泣いた。







一時の後。

「…

「…何よ」

泣き腫らした目を夏侯惇に向ける

落ち着いたのか、その顔には笑顔すら見えていたが。

瞳だけは…素直に笑えない今の状況を物語っていた。

そんなの頭を軽くぽんぽんと叩きながら夏侯惇は表情を微妙に緩める。

「ろくに部屋に帰っていないだろう…今宵くらいは自分の部屋で休め」

「でも…貴方と離れたくない」

「…皆が心配している。 お前は最早俺だけが必要としているわけではないのだぞ」

「ん… 解った」

は後ろ髪引かれる想いを抱きながらも、一応納得する。

そういえば。

毎日、何も考えずに着の身着のまま夏侯惇の部屋に足を運んでいた。

の部屋は女官が何時も綺麗にしてくれているだろうが…。

肝心なところまでは手が出せない。

結構散らかってるかもね…とはくすっと微笑った。

「じゃさ、何か欲しいもの、ある? 明日用意して来る」

「…何も要らん。 お前が変わらずに顔を見せに来れば、な」

夏侯惇の言葉には頬を僅かに紅潮させた。



この人は…。

どうして照れくさい言葉すら普通に吐けるのかしら…。





「じゃ、また明日ね」

「あぁ…」

「おやすみなさい…元譲」

ぱたん、と僅かに音を立てて閉まる扉。

扉を背に、顔を伏せ小刻みに肩を震わせる

…やがて、意を決した様に自室へと歩み出す。





ぱたん、と僅かに音を立てて閉まる扉。

やけに広く感じる…一人になった自室。

身を起こし、の居た場所に視線を投げたまま…微妙に顔を歪ませる。

そして…一つの気配が夏侯惇のもとに舞い降りた…。





「…来たか。 全く…最期の時くらいゆっくりさせろ…」

『何か』に視線を動かす事なく夏侯惇は言葉を吐き捨てた。










早朝。

眠れぬ夜を過し、ようやくまどろみがを支配し始めた時。



その部屋の扉を誰かが激しく叩き始めた………。



















背中いっぱいに熱が集中するような痛みを覚える。

「くっ…」

迂闊だった、とは呟いた。

一瞬たりとて気を抜いてはいけなかった。

………ここは、戦場だから。

は、自分への不甲斐なさと突如脳裏に映った『過去』に腹を立てた。

ぶん、と愛する人の形見を振り下ろす。

そして、鬼のような鋭い形相で矢が飛んできた方向に振り返った。

刹那。

偶然だろうか…彼女の片目に一本の矢が勢いよく飛び込んできた。

矢の勢いに圧されるようにして身体が倒れていく。

しかし、はその時間が途方もなく長く感じた。





仰向けに横たわる身体。

は岩のように重くなった自身の腕を上げ、目に刺さった矢を握り締めたが。

ふっと微かに笑みを零すと、その腕を再び地に落とした。



「元譲…。

貴方はここで自分の目玉を喰らったわね…生きるために。

ふふっ………。

でも…私にはそんな気、ない…」



未だ機能を失っていない片目を凝らし、視線を足元へと移す。

…自身の腹や胸から醜く突き出た幾つもの鏃(やじり)。

はそれを冷ややかに見つめた。

鏃の先から目が眩む程紅い血の雫がつぅ、と軸を伝いながらこの身に返ろうとする。

しかし…それは虚しくも傷口を覆い隠す鎧の上を彷徨い、広がっていくだけだった。

彼女は「馬鹿ね…」と視線を元の憎らしい空へと戻した。





何時の間にか片瞼から暖かいものが零れ、こめかみを伝っていた。

静かな気持ちとは裏腹に…。

奥底では何かを感じているのだろう………。

「…ここが死に場所、か…」

霞んでいく意識の中、震える唇を開く。

元譲も逝く時は…こんな感じだったのかしら、と思いながら。







寒い…。

自分の身体から熱が…力が奪われていくのを感じる。

この瞳から流れる透明な雫と。

不覚にも受けた傷の数々から地へと溢れ往く紅いもの。



こんな時に…ようやく人の肌の温もりが恋しくなるなんて、ね…。





「ねぇ…元譲。

私も………そろそろ潮時かも、よ………」







刹那。

突然、の身体に暖かい風が当たった。

否…そう感じただけかも知れない。

あの人が傍に居た頃…何時も与えられていた温もり。



がその方向へと霞んだ視線を泳がせる。

と………。





の一番欲していたもの。

死して尚、の心を掴み続けていたものが。



視線の先に………居た。







「元譲? ………まさか、ね」

あの人はもうこの世に居ない…居る筈がないもの。

そう思っていてもそこから視線を逸らせない。

幻でもいい…。

私に、温もりを………!

は最期の力で手を伸ばした。

………愛する人が居るだろう場所に向かって。





幻が言葉をかける事はなかった。

しかし。

ゆっくりと閉じていくの意識には…。

憮然とした表情ながら、しかし幽かに口元に笑みを浮かべ、手を差し伸べる…。

夏侯惇の姿が鮮明に映っていた………。













戦が終わり、再び平穏な日々が訪れた頃。

夏候惇の墓の傍に新たな墓標が建てられた。





…まるで、二輪の花が寄り添い、その存在感を露に咲き誇るかのように…。










劇終。





管理人のアトガキ。


『ひとひら』あいはらなつ様からのリクエスト。
此度は素敵なリクエストをありがとうございます!

内容は。
お相手は夏候惇、武将ヒロインで乱世を舞台に…。
切ない系でお題は『轍』。

…私的に書き応えのあるものでした。
そして、あいはら様が『死ネタ上等』と仰っていたので。
そのお言葉に甘えさせていただきました。

しかし…その結果。
破滅的なものができてしまいました(汗
それでも、何処か救いがあったら…と思い、書かせていただきました。


あいはら様!
本当に長らくお待たせいたしました!
つまらないものですが(をい)…どうぞ受け取ってください!


………詳しい裏話などは日記にて。
宜しければどうぞ(汗

そして、此処までお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!


2007.1.12     御巫飛鳥 拝


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