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「何時か貴女が出逢う大事な人のために…」
亡き母の遺した…
誰かへの贈り物を。
今…
貴方に捧ぐ。
初夏の眩しい日差しは何処へやら…。
夜の空気はあまりにも冷たく。
透き通るくらいの蒼い月の下。
さわさわと木の葉を鳴らす風は、小高い丘の上に立つ英蓮の身を震わせる。
「母上…」
十三夜の月に向かってぽつりと呟く。
あと数日で母の命日。
英蓮は、毎年この時期になると雨が降らない限り毎晩、この丘を訪れて物思いに耽る。
此処は母の好きだった場所。
母が病床に臥す前までは二人でよく此処に訪れては眼前に広がる草原と遠くの集落の灯りを眺めていた。
「あれから大分経ったね…母上。今夜も来たよ。
私の歌…もう聴き飽きちゃった?
でも、私…まだ…」
英蓮はそう言うと僅かにその目を伏せた。
この場所に来るもう一つの理由…『歌』。
彼女は毎晩この場所で歌う。
まるで亡き母に語りかけるように。
それは毎年、母の命日まで続けている英蓮の習慣のようなものだった。
そして、今夜も…。
伏せていた顔を上げ、蒼い月の輝きを確かめながら。
英蓮はすぅ、と冷えた空気を吸い込んだ。
今 此の空を覆う 群青の色は
遥か彼方まで 続き
私の見据えるべき未来も 未だ闇の果てに
それでも 穂の色は必ず訪れ
此の大地を 鮮やかに照らし出す
只 貴方を想い 涙する日々も
何時の日か 終焉を迎えるだろう
…?
英蓮の背の方向から笛の音が近付いてくる。
その音色は…何処か切なげではあったが、とても美しいものだった。
そして、まるでその曲調を知っていたかのように英蓮の歌を引き立たせこそすれ、決して不協和音になることはなかった。
…。
何かを察した英蓮はふっ、と笑みを零し歌を続ける。
仮令(たとえ) 愛しき人と 遠く離れ
心にある筈の姿を見失ったとしても
今 確かな想いを信じ
留まる事を知らず 流れる時を
貴方と 共に往こう
天駆ける愛しき想い 永久(とこしえ)なれ…
「おやすみなさい、母上」
歌い終わった英蓮は空に向かって拱手すると、自室に戻るべく踵を返した。
すると、背後には何時の間にか笛を片手に微笑む女性の姿があった。
「やっぱり…貴女だったのね、甄姫」
「英蓮…邪魔をしてごめんなさいね。貴女の歌声があまりにも私の心に響いてくるものだから…」
甄姫はそう言うと再び笛を唇に当て、軽く音を奏でた。
その様子を見て笑みを浮かべながら首を軽く振る英蓮。
「ありがとう。貴女の笛の調べも、素晴らしかった。
きっと、母上も喜んで聴いていたと思う」
「英蓮のお母様が?」
「えぇ。この歌、母上が遺してくれたものなの」
「そう…とても素敵な歌ですわ」
「でしょ? …そろそろ戻りましょう、甄姫」
二人は並んで話をしながら丘を降りていった。
その道すがら、英蓮は甄姫にこの『歌』について少し話した。
母が病床に臥した頃…英蓮が晴れて軍医に任命された後の話。
その日も英蓮は母親に付き添っていた。
夕餉の後の薬湯を煎じていると、母が床の上に身を起こした。
「ありがとう…英蓮。仕事、今日はもういいの?」
「駄目よ…起き上がっちゃ。母上、あまり無茶しないで」
すまなそうに訊く母に慌てて駆け寄る英蓮。
そして、母の身体に手を添え、ゆっくりと床に寝かす。
「仕事は父上が『後はやっておくからお前は母上の処に行ってやれ』って言ってくれたから大丈夫よ」
英蓮はそう言いながら薬湯の元へ戻った。
その背に「でも、大変じゃないのかしら?」という母の言葉が投げかけられる。
英蓮はその言葉に振り向くと、自身の腰に手を当てて
「んもう…大丈夫だって言ってるでしょ。母上って心配性なんだから…」
と怒ったふりをした。
そんな英蓮の仕草に観念したのか、母はそれっきり仕事の事を口にすることがなかった。
暫くして、出来上がった薬湯を母の前に差し出す英蓮に母が問うた。
「ねぇ…英蓮?」
「ん?」
「貴女、幾つになった?」
「へ? …何を今更。今年でもう22歳になるけど?」
「そう… で、恋仲のお方はいらっしゃるのかしら?」
『恋仲』。
その言葉を聞いた英蓮は酷く狼狽した。
「えっ…どっ、どうして今訊くの?」
と聞き返す声にもそれがありありと現れている。
母はそんな英蓮にふふっと微笑いかけると
「その歳なら…そういうお方がいても可笑しくないでしょう?」
と言って身体を起こすと、薬湯を「苦いわ」と顔を顰(しか)めながら飲んだ。
そして、床の上で英蓮に向かい合うように座り直す。
「母上?」
英蓮が訝しげにその動作を見詰めていると
「貴女に贈り物を…と思って」
母が言いながら床の下に隠していた1枚の紙片を英蓮に手渡した。
古ぼけた紙片。
変色し、表に書いてある文字も掠れていて…。
それは確実に時の流れを刻んでいた。
「これは…?」
「ふふ…とりあえず中をご覧なさい」
母に言われるがまま、英蓮は紙片を開く。
…これは…
紙片には母が英蓮によく歌っていた詩が書いてあった。
歌を聴いているときにはあまり気にしないものだが。
改めて文章として見ると、その意味が痛いほど英蓮の心に染み入る。
創った人の気持ちも…。
「この歌、ね…私が創ったものなの。
改めて言うと恥ずかしいけれど。
あの頃は戦続きで、貴女の父上…深怜も一緒に戦場に赴いてた。
残された私は…寂しかったわ。
そして、とても心配だった。
だけど、そういう素振りを見せたらあの人の事だもの…きっと困り果てるでしょう?
だから…ある日、この歌を創って。
戦場に向かうあの人に歌って聴かせたの。
…私の精一杯の強がり、ね」
母は一言一言を噛み締めるように話すと…当時の事を思い出しているのだろう、その瞳を伏せた。
「そうだったんだ…母上もなかなか旨い事するじゃない」
英蓮はそう言うとしゃがんでいた自分の膝に頬杖を付き、楽しそうに小首を傾げた。
「で…父上は何て言ったの?」
「ふふ…それがね、照れくさそうに頭をかきながら『うむ、解った』とだけ答えたのよ」
「ぶっ…父上らしい!」
二人は顔を見合わせながら声を上げて笑った。
「でもさ…どうして今、これを?」
英蓮は古ぼけた紙片の文字を指でなぞりながら訊いた。
すると、母は英蓮の手を自分の方に引き寄せ、両手で固く握って
「未だ乱世は終わってない…でしょう?」
と訊き返した。
「あぁ…そういうことね」
英蓮は母の言葉に合点がいったように頷いた。
「母上はこう言いたいんだ…。
『愛する人にこの歌を聴かせておあげなさい』って。
あと…
『貴女にはこういうものを創る気性がないから私の歌を…』
ってことでしょ?」
母の口調を真似ながら茶化すような笑みを浮かべる英蓮。
その答えに満足したのか、母は握っていた英蓮の手を離し、空いた自身の手を組み合わせた。
「正解。流石は私の娘ね。
もし、この先…貴女が『大事だ』と思える人が現れたら。
そのお方にこの歌を聴かせて欲しいわ。
まぁ、『その時に私のことも思い出して欲しい』っていう親の我が儘も入ってるのだけれど…」
はにかんだ様な笑顔を見せる母に英蓮は少し顔を歪めた。
「…なんか、母上が直ぐにでも亡くなってしまうような言い方」
「英蓮…。貴女も解っているのでしょう?」
「………もし、私にそういう人がいなかったら?」
英蓮は、母の問いかけには答えずに表情を直ぐ笑顔に戻し、訊き返す。
すると、母はくすっと微かな笑い声を洩らし、英蓮を見据えて話す。
「だったら…私のために歌ってくれるかしら?
貴女に好きな人が出来るまで。
その後は…何時か貴女が出逢う大事な人のために歌っておあげなさい」
英蓮は今までの母の言葉を一言一句忘れないようにしっかり心に刻みながら。
母から受け継がれた歌を。
母のために歌い始めた…。
「そう…歌にはそのような話がおありだったのね」
「うん…それでね、今も母上に歌ってたのよ」
英蓮は甄姫に顔だけ向けて微笑む。
すると、甄姫は訝しげな表情を英蓮に向けて問う。
「ねぇ…英蓮。貴女、この歌を聴かせるべきお方を間違ってないかしら?」
「えっ………?」
…痛いとこ、突かれた。
甄姫は英蓮の表情が急に変わるのを見て、可笑しそうに笑いながら続ける。
「貴女にはもう『大事な人』がいらっしゃるでしょう?お母様でもお父様でもなく、特別な…」
「ちょっ…ちょっと待って。 それって…」
「そう。夏侯惇様」
その名前が出た途端、英蓮の顔がこれでもか、と言うくらい上気した。
そして、(女の勘って侮れないわ)と思いながら甄姫の耳元近くに顔を寄せて極々小さな声で話し始めた。
「あ、あのね…甄姫。 これは誰にも内緒ね。
私…確かに元譲の事、好きよ。
大事にも思ってる。
でも…未だ自信がないの」
「自信が、ない? …貴女の歌、充分綺麗でしたわ。皆さんの前で披露したいくらい」
「そういう意味じゃなくて…ほら、あの…」
「あぁ…。夏侯惇様に愛されてるかという『意味』で、ですわね♪」
「うっ…うん」
甄姫の直接的な言葉にしどろもどろになりながら答える英蓮。
すると、甄姫が不意に声を上げて笑い出した。
「なっ…何が可笑しいのよ」
英蓮が軽く睨むと、甄姫は自身の両手を英蓮の肩に乗せて頷いた。
「今の貴女の問題はそれだけ、ですわね?…解りましたわ」
「? 解ったって…?」
「いいえ。こちらの事ですわ。…もうお部屋も近いですし、そろそろ失礼いたしますわ」
答えを聞きたがる英蓮をはぐらかし、「おやすみなさい」と後ろ手で手をひらひらさせ、笑いながらそそくさと立ち去る甄姫。
残された英蓮は。
甄姫の急激な態度の変化に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
……何故か言い知れぬ不安が心の中に吹きつけ、嫌ぁな汗が頬を伝った……。