そなたは…。
………何時から私の名を呼ばなくなった………?
震える指先、震える心 〜後編〜
生まれてから二十年やそこらの人生の中で、軍に上がってからの時間がにとって一番長く、充実感を得た時だった。
彼女を街の守衛から半分攫うような形で軍へと連れ帰った張遼自身からの執拗な説得から始まり、軍に…張遼に仕える決心をしてからは武勇を身に付けるための修練や組織の中に身を置くのに必要な礼儀作法の習得に明け暮れた。
そのあらゆる時間がにとっては全て新鮮で…夢中になって励んでいた結果、極々短い期間で表舞台に立っても恥ずかしくない位に成長した。
そして、頻繁にの様子を伺っていた張遼の暖かい瞳に見つめられているうちに己の心に芽生え、育ってきた感情。
それが『人を愛する事』だと気付いたのは、張遼とに襲い掛かった『事件』…一年程遡ったある日の出来事からだった。
…何時もより暗い。
生暖かい雨が大地に届く前に蒸発したような霞が空を漂っている。
湿気が大半を支配するこの季節…実に不快だ、と張遼は湯船に浸かりながら小さく呟いた。
このような日は、たまに舞い込む雑務だけでなく修練でさえも集中するのが困難だ。
それは、周りの者たちも同じであったらしく、仕方なく今日の修練は何時もより早い時間で切り上げた。
そして…不完全燃焼の身体と、あまり動かなかったにも関わらず流れた汗を洗い流すべく、張遼は夕餉の前に湯殿へと身を躍らせたのだった。
湯に身を浮かせ、少々まどろんだ頭で考える。
私と離れている時…は何をしているのだろう、と。
張遼の隠密と成った時から、彼女は必要以上に姿を見せる事が少なくなった。
それは隠密故の事なのだろうと容易に理解し得たが…張遼自身、少々面白くなく感じていた。
いくら主従の関係になったとはいえ、そこまで拘る事はなかろうに…。
確かに、今迄もとは昼夜始終一緒に居るわけではなかった。
しかし、頻繁に彼女の姿を見ていた張遼にとっては、傍に居る事が既に当たり前になっていた。
それはも同じだと思っていたが…。
性根は生真面目だったのだな、と張遼は少しだけ笑みを零した。
今宵あたり…夕餉にを誘ってみるか。
そう思いながら湯に首まで沈めた瞬間、何者かの…只ならぬ気配を感じ、はっと息を呑み、身を固める張遼。
これは…殺気か!?
それを感じた刹那、黒い影が外へと続く窓から侵入してきた。
洗い場に姿を現したその影は片手に怪しく切っ先を光らせた短刀を握り、膝を付いた状態で身を低くしている。
その様子から、明らかに丸腰の武将を狙う暗殺者だと理解出来た。
暗殺者が湯船に身を沈める張遼の姿を捉えた刹那、片手に握られた短刀をしかと構え、張遼に向かって身を躍らせた。
瞬時に間合いを詰められるが、ここであっさり殺られる張遼ではない。
湯船から立ち上がり、振り下ろされた短刀を寸でのところで避ける。
擦れ違いざま、暗殺者の背中を押すのを忘れずに。
そして…体勢を崩し、水飛沫を上げながら湯船に突っ伏す暗殺者を一瞬見やると直ぐに湯から出て得物のある脱衣所に向かって踵を返した。
「今だ!」と思いながら滑るように駆け出す張遼。
ところが、脱衣所への扉に手をかけた瞬間、背後に影の気配が迫った。
………早いっ!
振り返った途端に影から繰り出された短刀の一閃を身を翻して流したが次の一撃までが早い。
こちらが丸腰では…一縷の望みも見付からないだろう。
身を構えながらも心の中で戦慄を感じる。
私はここで…このような処で果てるのか、と。
刹那、次の一閃が張遼の目の前を過った。
ざしゅっ!
肉を裂く音と共に張遼の身体に紅い飛沫がかかるが、それは己から発するものではなかった。
軽くかぶりを振り、目の前を改めて見据える。
すると…。
何時現れたのか…が影と張遼の間に立ちはだかっていた。
影から受けたのだろう、頬に深い傷を付けて。
そして、眼下には己の身を紅く染め、洗い場に力なく倒れる『影』の姿があった。
自身の身の安全が確保された安堵、改めて感じるの技への驚嘆、そして突然湧きあがるへの不安……。
抗い難きこの感情。
に声をかけようと手を伸ばす…。
刹那、目の前に立っていたが振り返る。
頬から血を流し、暗殺者に向けていた冷たく鋭い視線をそのままに。
嗚呼…この視線だ。
初めてと顔を合わせた時に自身の心を貫いた強い視線、張遼は『あの時』と同じようにその視線から逃れられなくなる。
心臓がとくり、と高鳴った。
が、次の瞬間。
が表情を緩めて幽かな笑顔を張遼に向けると、全身から力が抜けたように膝をがくっと折った。
いかん!
「っ!!!」
直後、殆ど反射的にの身を抱きとめた。
倒れる影が握っている短刀を一瞥し、それに毒が塗られている事に気付く。
即効性はなさそうだが…早く手当てをせねば…!
思考を巡らしながらも腕の中に居るに問うべく口を開く。
「そなた…何時」
「私は…張遼様の影。 …何時でも…傍におります故」
張遼の問いを皆まで聞かず、が答えた。
刹那、張遼は自身の腕に力をこめての身体を引き寄せた。
急がねば、という心と正反対に動く衝動。
『何時でも傍に居る』。
の口から発せられた言葉という旋律が痛い程張遼の心を震わせた。
しかし、腕の中の身体はみるみるうちに青くなっていく。
張遼は、この場では間違いなく不謹慎な衝動から逃れるようにかぶりを振り、
「あの者の刃には毒が塗ってある…早く吸い出さねば」
頬の傷口に唇を付けて毒を含んだ血を吸い、洗い場に吐き出していった。
これは口付けでない、と己に言い聞かせながら。
影の刃に毒が塗られているのは百も承知だった。
例え急所を外したとしても…何れはその毒が相手を死へと誘う事になる。
暗殺者が『仕事』を全うするのには必要不可欠である、と何時か教えられた。
…それが今、自分に牙を剥いただけの事。
はそう思っていた。
敵の影は…もうその機能を果たさなくなった。
私は張遼様の目であり盾。
そして…自分は今、その機能を果たす事が出来た。
それだけで充分だ、と。
倒れる前に…と張遼の無事を確かめるべく、は後ろを振り返る。
弱まっていく意識に抗うかの如く…力を振り絞って。
霞みかける視界に張遼の不安げな表情を捉え、ほっと胸を撫で下ろした瞬間、力を失った体躯を重力に任せた。
刹那。
自分の名を呼ぶ声と共に温かい腕に抱きとめられる感覚がした。
見上げると…そこには何か言いたげな張遼の顔がある。
には、彼の言いたい事が不思議と解った。
「そなた…何時」
「私は…張遼様の影。 …何時でも…傍におります故」
張遼から全てを言われる前に言葉を紡ぐ。
『何時でも…傍に居たい』。
その本心を悟られぬよう、至極穏やかに。
しかし、そんな気持ちを余所に…突如自分の身体が張遼の腕によって抱きすくめられた。
己の身に何が起こったのか瞬時に理解できない。
張遼が無事だった事への安堵、その本人から齎される暖かさ、そして煩い程に高鳴る鼓動………。
あらゆる思いがの心を乱す。
そして、
「あの者の刃には毒が塗ってある…早く吸い出さねば」
自身の頬に吸い付く熱い唇の感触が更に混乱を招く。
これは…口付けではない。
頭で理解したくても…乱れた心では上手く行かず、この鼓動は一向に鎮まらない。
そして、混沌とした意識の中で
「張遼様…。 貴方は、自分が今…何をしているのか、お解かりかっ! …私は…」
己が何を言っているのか解らないまま、ぷつりと糸が切れるようにその意識を手放した。
「…あの後、人を呼んで事なきを得たのだが」
「そうでした…。 本当に申し訳ありませんでした」
「いや、謝るのは私の方だ。 …そなたの顔に残る傷を負わせてしまったのだからな」
すまなかった、と言いながら手を伸ばして頬の傷にそっと触れる。
その指先の微かな暖かさにははっと息を呑んだ。
気持ちに…負けてしまいそうだ。
抑えていたものが溢れそうになり、瞳をぎゅっと閉じて必死に抗う。
直後、暖かく触れる指に自身の震える指を添えてやんわりと引き剥がした。
「…これも、過ぎた事です」
発する声も僅かに震えている。
あの時…張遼への想いに気付いてしまったは、それを自ら封じた。
身分の低い者の思慕を伝えたところで、どうなる?
直ぐにでも任務を解かれてしまうだろう…。
それは、嫌だ。
傍に居られるのならば…この想いも抑えられよう、と。
しかし。
その封印が今、想い慕う人によって解けかかっている。
…どうすれば、いい…?
刹那、の手を離れた張遼の指が再び頬に触れてくる。
「否…これは過ぎた事、ではない」
にはその声が…微かに震えている、ような気がした。
そして、依然目を閉じているに向かって発せられる声が更に続く。
「あれから…私の葛藤が始まったのだ。
この傷を見る度に…そなたへの気持ちを思い知らされる…」
張遼の指が、の頬の傷を優しく撫でた。
「しかし、その頃からだ…。
そなたが私の名を呼ばなくなったのは…」
視界を遮った事で研ぎ澄まされた聴覚を張遼の言葉が刺激した。
そして、惑う心に追い討ちをかけるように身体が張遼の腕によって完全に拘束される。
「離して、ください…主上。 今宵は昔話をするだけでは…」
「」
渾身の力をこめて張遼の身体を引き剥がそうとするを張遼が一言で制した。
諭すように腕の中を見つめる張遼と思わず顔を上げたの視線が絡まり合う。
…視線が、逸らせない。
「何故、私の名を呼ばなくなった?」
「それは…。 貴方が私よりもずっとずっと身分の高いお方だから」
…違う。
「問いを変えよう。 …そなたは私の事が嫌か?」
「…いえ。 主上として…この上なく尊敬しております」
………違う。
私の想いはこんなに白けた言葉だけでは括れない。
張遼の問いに答える度に、こみ上げるものが抑えられなくなる。
そして。
とうとうの双瞼から つ、と一つ流れ落ちた。
ふるふる、と力なく首を横に振る。
駄目だ…もう、己の気持ちに嘘は吐けない………。
は観念した。
想いがこんなに強く、大きくなっていたなんて。
自分で驚きながらも己の喉から搾り出すように言葉を紡いでいく。
「…これから私の言う事は『下賎な者の戯言』とお思いください。
私は…以前より主上をお慕いしておりました。
勿論、身分不相応と存じております。
それでも…私は貴方の傍に居たい。
どうぞ…今宵の事は直ぐにお忘れください…何卒…」
流れる雫をそのままに、張遼の胸に縋りつくように訴えかける。
しかし。
「その言葉…。 忘れられる筈がなかろう」
張遼の腕が緩み、の身体が解放される。
が、それは一瞬の事だった。
直後、張遼はの肩に手を添えると先程とは違った形でを拘束した。
床に組み敷かれる形となり、戸惑いが表情いっぱいに表れているに、張遼の言葉が降りかかる。
「…。
今宵は、昔話をするためだけにそなたを呼んだのではない。
この私と…、そなたの気持ちを確かめたかったのだ」
遠回しに誘った私は小心者だな、と自嘲気味にふっと笑う。
その表情が途轍もなく愛しく思えて。
は泣き濡れた顔を僅かに綻ばせた。
『主従の身分など考えずに、話がしたい』
始めに言っていた張遼の言葉が頭を過り、ようやく全てを理解する。
このお方も、私と同様に苦しんでいたのだ…と。
刹那、の片腕が自由になった。
張遼が片方の手を離し、の頬に触れる。
そして、頬を濡らす涙を優しく拭ってやると、ゆっくりと言葉を続けた。
「…今迄散々悩んだ。
私の気持ちを、衝動を…そなたに伝えていいものかと。
しかし…今、そなたの真意を知った。
ならば私も言おう。
。 …そなたを愛している… 」
同じ想いを抱きながらも、擦れ違いを繰り返していた心が…今、一つに絡まった。
それは…未だ苦しいものではあったが、間違いなく今迄とは違ったものとしてお互いの心を震わせる。
涙を拭う張遼の指。
そして今、張遼の頬に触れるの指が。
お互いの心に呼応するかのように…震えた。
「私の名を呼んでくれ、」
は、震える声で、だがはっきりとその名を呼んだ。
「………張遼様………」
劇終。
アトガキ
管理人お題挑戦作品『震える指先、震える心』後編です。
少々期間が開いてしまったため、前編から読むことをお勧めします(殴
しかし…山田様がビミョォ〜なキャラに(汗
ヘタレを書きたいのか、スケベオヤジを書きたいのか…。
管理人にも全く解りません!(逝ってこい
こんな山田様でも宜しければ…どぞ、って感じです。
ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!
2007.4.5 飛鳥 拝
使用お題『震える指先、震える心』。
(当サイト「愛抱く心に10のお題」より)
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