――気持ちいい。

 両手を挙げ、背伸びをしてみると…澄んだ空気が心をも満たしていくような気がする。

 今はそんな一時の、休息時間――










 Place 〜君の居る場所〜










 にとって最高の場所だった。
 世界を独り占めしているような錯覚に喜びを感じられる、透き通った空間。

 ――何時か、あのずっと向こうへ行ってみたいな。

 不意に遠くにある筈の水平線が近く思えて、よっ!と軽く掛け声を上げながら身体を器用に翻し、その場に立ち上がった。
 そして、片手を額に翳して眩しく光る水面を見つめる。

 ここは、滅多な事では邪魔など入らない…自分だけの特等席、なのだが――



 「やはりそこに居ましたね…



 眼下から聞き慣れた声が届き、滅多な事が起こった。
 天を仰ぐように背を思い切り反っていたは体勢を崩しそうになり、慌てて傍の太い枝を掴む。
 「うわ、びっくりした…。 いきなり話しかけるな、伯言」
 「そのようなところで立っている貴女が悪いんですよ」
 真下を見ると、自分を見上げている楽しげな笑顔がそこにあった。
 この世でどれだけ長い時を生きているのだろう…しかと年輪を刻んだ一際太い木の幹に手を添えている。

 「木に登ったらいけない、って法なんか何処にもないだろ? ボクの勝手だよ」
 「勝手、ですか…そこが本当に好きなんですね」
 「うん。 …こうやって遠くを眺めてると、向こうの世界がボクにも見えるような気がするんだ」
 目を細めて視線を再び遠くの水平線へと移す

 ボクの中にある知識は――僅かな武芸と二人の父さんから教えられた医学だけで、この海の向こうがどんなところなのか解らない。
 だから興味が湧く。 見てみたいとも…何時か行ってみたいとも思う。
 こういう事を言うと、父さんに笑われるかも知れないけどね。

 はは、と軽い調子で笑いながら遠くを眺めているを、陸遜は眩しいものを見るような瞳で見つめる。
 彼女の視界には素晴らしい景色が広がっているんでしょうね、と思いながら――。







 この軍に来る直前、はこの世に生まれて初めての災難に見舞われていた。
 孫呉の支配下にあった村落が山賊に襲われた際、彼女はただ一人の生き残りだった。
 しかし…そんな惨い事件の直後にも関わらず
 「本当は、ボクもとっくに死んでいたかも知れない。 …だから、この命を無駄にしたくないんだ」
 と溢れそうな涙を堪え、自ら進んで軍へと赴いた。



 そこで、出会ったのが彼―陸遜―だった。













 「こう毎日部屋に閉じ篭って勉強してたら腐っちゃうよ! …そんなの、真っ平御免だね」
 「こら、待たんかっ! ――」

 父の制止をあっさりと振り切り、は開け放っていた窓からひらりと身を躍らせた。
 廊下を軽やかな足取りで駆け抜け、城の外へと足を向ける。
 そこで彼女はふと一瞬だけ足を止め、室のあった方向を見遣ると…再び外へと足を駆った。

 ――ごめん、父さん。

 正直、勉強は然程嫌いではない。
 特に医学は、にとって亡き父が遺してくれた財産のようなもので…加えて今の父とを繋げる絆と感じている。
 しかし、一つのところでじっと大人しくしているような気性が彼女には生憎備わっていなかったのだ。





 そこから裏手へ回り、暫くすると見えてくる小高い丘。
 は頂にある高い木の幹に身体を預けると手馴れた動きで登って行き、視界が開けたところで太い枝にひょいと飛び移った。

 眼下に広がる大地、そして遠くに見える大海原――

 なんて雄大な眺めなんだろう、とは感嘆の息を洩らしながら目を細めた。
 部屋の中に居たら、まずはお目にかかれない景色。
 この場所を見つけたのは本当に偶然だった――始めの頃、逃げる彼女を追う義父から身を隠すために登った大木。
 自分の身が軽くてよかった、と安堵の息を吐いた次の瞬間…目の前に広がる景色に心を奪われたのだ。
 それ以来、ここは彼女のお気に入りの場所となった。
 何時ものように遠くを眺め、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。

 …やっぱり、気分を変えるにはここが一番だね!

 やはり、彼女には室内の勉強など性に合わないのだろう。
 たまには野外で勉強すればこんな風に逃げ出す事もないんだけどな、とはちょっと舌を出しておどけるように一人笑った。
 飛び移った枝に腰を掛け、足をぶらぶらさせながら平原を見つめる。
 今が乱世だという事を忘れるほど、安穏とした空気がこの場を支配していた。
 しかし――





 不意に感じた人の気配に、は身を硬くする。
 ここは、城の裏手にあたる場所――余程の物好きでない限り足を踏み入れる事はない。
 じゃ、下に居るのは、誰だ…?
 音を立てないようにゆっくりと視線を下げる。
 すると、今まさにが座る所の真下に、太い木の幹に背中を預けて書簡を開いている人が居た。

 ――伯言じゃんか。

 意外な人物の登場には少々目を剥いた。
 彼とは歳が近い事もあって、出会って直ぐに意気投合し、仲良くなったのだが…。
 が持つ印象は 『書簡と墨の香りが漂う執務室でただひたすらに働いている』 といったものだった。
 気分転換に、と執務室に顔を出すと…毎回のように感じる彼の集中力。
 その度に、自分とは違うという事を思い知らされた。
 ――伯言は、こんな所に来るような人じゃない。
 だからこそ、そう思い込んでいたのだが………。



 「………っ?」



 刹那、陸遜が開いていた書簡に舞い落ちるひとひらの葉一枚。
 病葉の季節でもないのに何故、と陸遜が独り言を呟きながら真上を見上げる。

 ――まずいっ!?

 ははっと息を呑み、揺れる葉の間に身を潜めようとしたが…時既に遅し。
 己の姿はとっくに陸遜の視界に捉えられていた。
 しかし、木の上に居るに驚く風もなくゆるりと立ち上がると、軽い笑い声と共に声をかける。
 「ふふ…貴女らしい休憩場所ですね、
 「キミがこんな所に来るなんて思わなかったよ…驚いた」
 キミも物好きだったんだね、と眼下の人にからかうような笑いで返す
 すると、陸遜が笑顔の色をと同じようなものに変える。

 物好きとは…、貴女も同じようなものでしょう?
 ここは、誰にも邪魔されない…静かな場所。
 たまにはあらゆる柵(しがらみ)から解放されたい時がありますからね、私にも。

 真下から届く声には小首を傾げ、直後からからと笑い出した。
 「ふぅん、流石の優等生クンもそんな風に思う事があるんだ。 …でもね、ボクは違うよ」

 ――そう、ボクは柵を柵だと思っちゃいない。
 父さん達から厳しく勉強しろと言われるのもボクが期待されているという証拠だし、覚えなきゃいけないたくさんの規律も常識も…軍の中で生きていくには必要な事だと思うしね。
 特に、ボクのような平民の出だったら尚更の事。
 だから、ボクは辛いとかつまんないとか感じた事がないんだ。

 「――ただ、部屋に閉じ篭るのだけは勘弁して欲しいけどね」
 「はは、前向きな貴女らしい答えだ」
 「ははっ…お褒めに与りまして光栄ですわ、陸遜様」
 が服の裾を掴んで茶化すように軽く会釈をすると、がさっと音が鳴って枝が大きく軋む。
 その衝撃ではらはらと舞い散る緑の葉を見送りながら、二人は声を合わせたように笑い出した。





 一時、物理的に高低差のある会話が続いた後――
 ずっと上を向いていて首が疲れたのだろう、陸遜は首を大きく回しながら
 「。 …そこから見る景色はどのような感じなのですか?」
 さぞかし素敵な眺めなのでしょうね、とへ問いに近い言葉をかけた。
 彼の話では、木に登った事がないと云う。
 この身のこなしや言葉遣いから、幼少の頃から厳しく躾けられていたんだと容易に理解し得る。
 の育った環境とは殆ど正反対なのかも知れない。
 やれやれ、とかぶりを振ると…は徐に口を開いた。



 「キミには教えてあげない」
 「…! 何故ですか?」
 「ボクの話を聞いたら、キミは間違いなくここに登って来ようとする。 …それは駄目だ」



 きっぱりと云ったきり、ふいと視線を逸らせるだったが、陸遜にこの雄大な眺めを教えない理由はしっかりとあった。
 それは、彼が孫呉を担う軍師――次代の大都督候補だという事。
 自分のような中途半端な立場の人間ならともかく、重い地位に居る彼の身に何かあったらただ事じゃ済まされない。
 それは戦だけでなく、このように休憩している時でも言える事だ。

 万が一、木から落ちたとしたら………。

 だが…その最悪な場面を想像した刹那、身体を揺らす大きな衝撃と共にの背中に冷たいものが走った。



 ばきっ!!!



 瞬間、の頭の中に焦りと安堵の入り混じった気持ちが浮かぶ。

 想像した最悪の場面に、まさかボク自身が出くわすなんて…!
 この高さじゃ、簡単な怪我じゃ済まない。
 でも………伯言がそんな目に遭わなくてよかった。

 ――ってか、真下に居るんだった!!!

 そして、の身がいよいよ地に迫り――



 どさっ――



 ――男の逞しい腕の中にすっぽりと納まっていた。
 「…よかった。 間一髪、ですね…
 「はっ………伯言! だっ、大丈夫か!? 怪我は――」
 「くすっ…大丈夫ですよ。 貴女一人の身体くらい、しっかりと受け止められます」
 貴女が思う程私はひ弱ではありませんからね、と依然を抱えたまま口角を吊り上げる陸遜。
 刹那、自分の今ある状況が漸く掴めたは不可抗力ではあったものの、初めて男の腕に抱かれる感触に更に狼狽した。
 思ったよりも暖かく、心地いい事に――。
 しかし、
 「うわっ…ごめん、伯言! ボクももう大丈夫だからとっとと下ろして――」
 「それは了解しかねますね」
 の懇願を瞬時に却下し、そのまま歩き出す陸遜。
 そして、「こらー! おーろーせー!」と腕の中で暴れるを抑えながら、念を押すような言葉を、吐いた。



 、お互いにさぼりの時間はここまでにしましょう。

 貴女の隠れ場所、皆には黙っておきます。
 その代わり…
 今度、時間が合いましたら…私も貴女のお気に入りの場所にお邪魔させていただきますよ。



 ――これで取引、成立ですね――。













 「…では、私もその壮大な景色を堪能する事にしましょう」
 依然遠くを眺めるを視線の端に留めながら、木の幹に足を掛ける陸遜。
 それを見てははっと息を呑む。
 「駄目だって! キミにもしもの事があったら――」
 「大丈夫ですよ。 もし落ちたとしても貴女が居る…軍医見習いですが」
 それに…あの時取引しましたよね?との制止を聞かず陸遜はにやりと意地の悪い笑顔を見せた。
 木に登るその手つきは初めてだけに少々危なっかしいものだったが、流石は身のこなしが軽いだけの事はある。
 みるみるうちに二人の距離が縮まり――



 「…素晴らしい。 、貴女は今迄この素晴らしい景色を独り占めしていたんですね」



 観念したが木の幹から僅かに離れて座り、陸遜がその間に身体を納めた。
 それきり、二人には言葉がなく…静かな時間が過ぎていく。
 陸遜は目の前の景色が想像以上に雄大だったという事に言葉を失い、そして――

 お気に入りの場所、伯言に知られちゃったな。

 は少しだけがっかりしていた。
 しかし、一方では隣にこの人が居るという事に喜びとこの上ない心地よさを感じている。
 ――今迄よりも、ずっと。

 あぁ、これが一人じゃない、って事か。

 は隣に居る人に聞こえないように小さく零し、そして微笑った。







 一頻り景色の素晴らしさを堪能した陸遜がの顔を覗き込み、それに合わせてが漸くの事で口を開く。
 「凄いだろ? …ボクは何時か、あの水平線の彼方まで行ってみたいと思うんだ」
 「本当に好奇心が旺盛なのですね、
 「どうかな。 ボクはただ…この命を無駄にしたくないと思うだけだよ。 生きている限り、たくさんのものを見たい…いろんな事がしてみたいんだ」
 水平線を見据えながら、未だ遠き未来を語る
 その横顔―瞳の強さ―の眩しさに目を細める陸遜だったが、刹那――



 「――っ!!!」

 「…では、こういう事も…ですね?」



 片手での腕を引き、器用に支えながら唇に己のそれを合わせた。
 突然の事で戸惑う
 唇に触れた暖かい感触と、支えられている身体が妙にくすぐったい。
 だが、彼女の驚きはそれだけでは済まなかった。
 陸遜は唇をの耳元へ移すと
 「初めて、ですね…やっと大好きな貴女に触れる事が出来た」
 ずっとこの瞬間を待っていました、と熱い息と共に思いのたけを放った。

 えっ………?
 伯言が、ボクの事を…すっ…!?

 驚きのあまり、は軽い目眩に襲われる。

 確かに、前にも 『好きだ』 って言われた事があるけど…それは友達として、だと思ってた。
 だって、伯言は軍師だし…ボクは平民の出で、今はただの軍医見習いだ。
 だから…ここまで想われているなんて思ってもいなかった。
 でも………

 「ありがと。 凄く嬉しいよ」
 動揺する心とは裏腹に、素直な言葉がすんなりと出てきた。
 同時に沸き起こる、ほわんとした心地いい幸せな気持ち。
 それは、軍に入ってから感じている気持ちとは全く別で…隣に居る人からもたらされているものだとは容易に感じる事が出来た。



 ボクは今、物凄く幸せだ。

      他のどんな時間よりも、ずっと――







 「しょうがないな、これからはキミにもこの場所を使わせてあげるよ。 …但し、ボクと一緒じゃなきゃ駄目だからね」
 「勿論です。 貴女が居る、この場所が…私の特等席なんですから」



 頬を紅潮させながら精一杯強がると、それを優しい瞳で包み込む陸遜。



 その二人の唇が、今………再びゆっくりと触れ合った。







 ここは二人のお気に入りの場所。



                君の居る、最高の場所――







 劇終。





 ここからは反転でおまけです(←ギャグ仕様注意!)



 みしっ――



 刹那、二人を乗せた枝が大きく軋む!
 「うわっ! また折れるっ! …伯言、早く幹に移れっ!」
 「ちょっ…そんな事急に言われても…わわっ――」



 ばきっ!!!



 「――ふぅ、危ないところでしたね、
 枝が折れる瞬間、幹に間一髪移っていた陸遜がの腕を掴む事で最悪の事態は逃れた。
 しかし――



 「…なぁ、伯言。
    これからは、二人が乗っても大丈夫な枝を捜さないと…身体がもたないよ!」



 は幹に強かに打ちつけられた顔を空いた手で擦りながら、たった今生まれた悩みにがっくりと首を垂れた。



 本当の終わり。




 アトガキ

 ども、管理人です。
 個人的な都合により、少々影を潜めていましたが…(←嘘つけ!
 此度はボクっ子ヒロインの第2弾をお送りします。

 まぁ、今回も彼女の自己紹介的なお話となります。
 しかし…どうしてりっくんが相手だと甘くなってしまうのでしょうか(苦笑
 おまけのギャグもいまいち振るわないし… orz

 このお話の趣旨としては…
 『木の上でラブシーンを!』…もとい、『二人に木登りをさせよー!』
 まぁ、若いカポーらしい仕上がりになったのでは、と(←若いってえぇのぉ←老け込むな

 このようなお話でも………少しでも楽しんでいただければ幸いかと。

 ここまでお読みくださってありがとうございました。

 2008.07.04     飛鳥 拝



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