愛は、心のままに。
早朝の冷えた空気がの目を否応なしに覚まさせる。
東の空を見上げると、煌々と輝く太陽。
しかし、その暖かさは未だ力を帯びてはおらず、宵の寒さで冷え込んだ大地を暖めるまでには至っていない。
そんな中、は両手に治療器具を入れた盥を抱え、廊下を歩いていた。
先程の洗浄作業でかじかんだ指が痺れてくるが…これは今の時期であれば当たり前、日常茶飯事である。
ましてや、彼女は軍を担う医師。
万が一己の身に何かがあったとしても、直ぐに処置を施せる術を持っている。
ある意味、得な立場でもあるのだが…。
「お〜い、! 悪ぃ、ちょっとこっちまで来てくんねぇか?」
廊下をいそいそと歩いていたの足を、不意に聞き慣れた声が止めた。
…やれやれ、またか。
心底呆れたようにかぶりを振る。
今、を気軽に呼んだ孫呉の若き君主・孫策。
気さくな性格で、軍の面々だけでなく民にも慕われているのはいいが…少々突っ走りなところが玉に瑕。
毎日と言ってもいい程大小様々な生傷をこさえてはをはじめ、医師達の頭を悩ませている。
大方、今朝も何かしら大暴れでもして傷でも負ったのだろう―。
中庭を挟んだ向こう側にいるにも関わらず大きく届くその声。
その方向へ身体ごと向けながらはすぅ、と大きく息を吸い込むと
「すみません、殿! この器具を室に置いてからそちらに参りますので、今しばらくお待ちを!」
豪快な孫策の大声に負けない程高く、空に声を響かせた。
重い、しかも大量の治療器具を運ぶ作業は些か重労働だ。
それをいとも簡単にこなすのは彼女の怪力所以なのか、はたまた慣れなのかは知る由もないが…は瞬く間に自室に着き、大量に器具が入っている盥を卓に半分放り出すように置くと、程なく君主の下へと訪れていた。
「お待たせいたしました、殿。 です」
「おぅ! 待ってたぜ…早く入ってくれよ」
「失礼いたします」
孫策の許しを得たは扉の前で至極丁寧にお辞儀をし、静々と中へ入った。
すると………
「随分早かったな、。 …驚いたぞ」
下げていた頭に意外であったが同じく聞き慣れた、張りのある声が聴覚を刺激した。
「えっ!?」と視線を室の中へ向けると…の予想を反して全くの無傷で居る孫策と、肘に酷い擦過傷を負った彼の弟・孫権が雁首揃えて床にどっかと腰を据えている。
驚いた、って…驚いたのは私の方です、と彼女は言いたかったが
………何故、貴方が………?
と思うより早く手に提げていた籠を下ろし、治療道具を次々と床に並べていく。
―その辺りは実に医師らしい、反射的な素早い動作である。
「早く処置なさいませんと、化膿してしまいます! 孫権様、朝から一体何をされたのですか!?」
殿じゃあるまいし…と本人には些か失礼である言葉を付け加えつつ孫権に近寄ると、徐に肘の傷を診始めた。
案の定、その傷は思ったよりも酷く、表現をするのも憚られる程で…は先程から頭の中にある疑問を更に強くする。
何時もならば、自ら負った怪我を「大した事ねぇよ!」と笑い飛ばす兄と苦笑を浮かべながら付き添う弟の立場…それが今朝に限って逆になっているという事が彼女には不思議でたまらない。
思った事を直ぐに行動に移してしまう、少々危なっかしい君主とは違い…何事にも慎重で思慮深い彼が…。
しかし、傷をよくよく診ると幸いに見た目の深刻さにしては化膿もしておらず、軽い消毒と薬の塗布で治療は済みそうだ。
はほっと胸を撫で下ろすと、君主の弟へ視線を走らせながら
「孫権様、少々痛みますが…我慢してくださいね」
消毒のため、薬品をたっぷり含ませた布を晒されている傷口に宛がった。
刹那、今迄穏やかな視線で彼女を見ていた孫権の瞳がかっと開かれるが…直後、大声は出すまい、と言わんがばかりに眉間に皺が寄り、唇がぎゅっと噛み締められた。
「くっ………」
それでも口をついて出てしまう僅かな声。
その一生懸命な彼の姿を見ながらはくすりと微笑った。
傷がしみる度に「いてててっ!」と大騒ぎする君主の様相もなのだが…涙目になりながらもぐっと堪える、まるで少年の頃に戻ったような表情をする彼も普段の姿からは想像もつかず、彼女にとっては物凄く可愛らしいと思える。
同じ兄弟なのか、と思わず疑ってしまいそうな…対照的な二人は見ていて飽きない。
「…声を出すのまで我慢なさらなくとも宜しいんですよ、孫権様」
『可愛らしい』 という本音を心の中に隠し、くすくすと笑いながら孫権の傷に治療を施していく。
「ですが…何故、今朝は孫権様が怪我をされているのです?」
「すまない…っ、。 先程、兄上に一発やられて、な」
訝しげに尋ねながら手を休める事なく作業を進めているに、次々に迫り来る痛みに耐えつつ、漸く本人から事の真相が語られ始めた。
朝の鍛錬―。
君主が日課にしているのだが、今朝の相手として名乗りを上げたのは珍しく孫権であった。
孫権が何故、今日に限って兄に手合わせを挑んだのかまでは解らなかったが…彼は兄の気迫溢れる一撃に惜しくも破れたらしい。
咄嗟に受け身を取ったのだが…その時迂闊にも地に肘を強かに打ちつけてしまった、と照れ笑いに似た笑みを零す孫権だったが
「力は拮抗していたのだが…やはり兄上には敵わないな」
孫策の顔を見ながら語る彼の面に悲壮感はない。
いや、寧ろ…兄の強さを己の身を以って体験した、という気持ちいい程の爽快感が感じられた。
互いの強さを認め合いながら…それを高め、軍に活かしていく。
兄弟っていいものね…と一人娘であるは羨ましく思った。
彼らを見ていると、自ずと理想の兄弟像が見えてくるような気がする。
だが………
「これで私が勝ってしまったら、兄上の面目が立たな―」
「いや…それはないぜ、権。 俺の強さはお前もさっき感じただろ?」
「今は。 …そして、私には兄上にないものを持っています!」
「あぁ、お前は必ず強くなる。 だけどよ、俺はお前にも負けるつもりはねぇぜ!」
「今は敵わぬとも、私は兄上を超えてみせる! …見ていてくれ、!」
「好きな女に良い所見せようってんだな…権、お前も中々に熱いな! なぁ、もそう思うだろ?」
孫権に施されている治療は、残すところ当て布の固定だけになっていたが…突如出てきた自分の名前にの手がぴたりと止まる。
見ていてくれ、とは…何を今更。
私は本より、貴方の事を見続けている。
それは貴方が一番良く解っている事なのに―。
改めてその人の顔を見据えると、力説しながら自分を見つめている瞳に真摯な色が光った。
見ている方が赤面する程真っ直ぐな想いを伝えてくる彼の心と、何時まで経っても慣れてくれない照れくささがを襲う。
顔を上げ、その頬をこれでもかという程紅く染めると
「ちょっ…いきなり私に話を振らないでください!」
目の前で繰り広げられている兄弟の応酬に巻き込まれた事に抗議の弁を垂れた。
その様子に孫策は満足げに笑い、の肩をばんばん叩きながら立ち上がると
「悪ぃ悪ぃ…そんなに怒るなよ、。 …これ以上俺が居たら邪魔だろ? これで退散するぜ」
俺も大喬を待たせてんだ、と己の頭を掻きつつ踵を返した。
の表情で全てを悟ったのだろう、返事を待たずして室から出て行こうとする孫策。
刹那。
扉に手をかけ、頭の後ろで「じゃぁな!」と手を振る君主には不完全燃焼の怒りを鎮めるべく頭を下げ
「ありがとうございます、殿。 …ですが、幾ら大喬様をお慕いしていても朝から情交に走らぬようにお気をつけくださいね!」
悪戯っ子のような笑い声と共にからかい半分の声をかけた。
言うまでもなく、それを聞いた孫策はその場で一瞬だけ足を滑らせる。
「なっ…! それはお前らも、だろ!」
恥ずかしげにそそくさと廊下へと歩を進める孫策の背中を見送り、残された二人は互いの視線を絡めつつ可笑しそうに笑い合った。
「はい、終了です。 仲謀様、痛みはどうですか?」
止まっていた手を再び動かし、当て布の固定をしっかり終えたは小首を傾げて心配そうに問うた。
途中、孫策からの横槍はあったものの…流石は軍医というもので、彼女の素早い処置によって傷の痛みが瞬く間に引いていく。
「もう大丈夫だ。 突然すまなかったな、」
「いえ…私も、朝から貴方と話が出来て嬉しいです」
怪我をされた仲謀様には悪いですが、と今迄使っていた治療の道具を籠の中に納めながら顔を僅かに紅潮させて微笑む。
恋仲とは言え、立場上は君主の弟と軍医…互いに忙しく、逢瀬もままならない。
口実、と言ってしまったらいけない事なのだろうけど…。
この降って涌いた珍事(!?)にの表情が自ずと緩んでしまう。
「…このような時に不謹慎な事を…申し訳ありません」
「いや、私も嬉しいぞ…。 ―これが怪我の功名というものなのだな」
先人は上手い事を言う、と手当てが施された肘にもう一方の手で軽く触れながら茶化すように言葉を放つ孫権。
刹那、その手がの身体に伸びる。
作業が終わり、ほっと一息吐くの腕を優しく掴むと…先程のの素早さに負けずとも劣らない速さで引き寄せた。
抵抗する間もなく孫権の腕に包まれる体躯に戸惑いを隠せずに
「ちょっ…仲謀様! 何を…っ!?」
先程私が孫策様に言ったばかりですのに、と慌てながら声を荒げる。
の心中は穏やかではない。
…今朝は、少々様子が違う。
珍しく負った怪我もそうだが…何より今の行動は、普段の慎重な彼を考えると些かおかしい。
何が、彼をそうさせているのか………。
「………仲謀様?」
刹那、を見下ろす瞳がほんの僅かだが苦悩の色を含ませる。
「。 …やはりお前は二人の時でしかその名を呼ばないのだな」
「えっ…? あの…幾ら貴方と恋仲でも、私は孫呉に仕える身。 その枠を越えてはなりません」
「それは私にも解る。 しかし―」
私の言いたい事はそんな事ではないのだ、とかぶりを振る孫権。
…は自身の立場を弁えている。
仲謀の名を呼ぶのは二人きりの時だけで、人の目のある時は周りの者と同じように呼んでくる。
己の気持ちをしっかり抑える事の出来る彼女を見る度、孫権は尊敬に似た想いをに抱く。
「―お前は何故、そこまで冷静になれるのか? 私は………狂おしい程の衝動を抑えられなくなる時がある」
今も…お前を抱きたくて仕方がない、とを抱く腕に力を籠めた。
………そういう事か。
は孫権のおかしな行動に漸く合点がいった。
彼は…戸惑っていたのだ。
今迄、己の気持ちを自在に操っていたのに…こと恋になったら途端に制御不能になった。
これが初めての恋愛ではないだろうが、気持ちが思うようにならなくなったのは初めてなのかも知れない。
そこまで愛されているのか、私は…と心いっぱいに幸せを抱え込んだ。
しかし…冷静とは。
は同時に笑いを零す。
彼にそう思われていれば…それはある意味上手くいってると言えるが、彼女にしたら少々面白くない。
己を抱きすくめる腕に手をかけ、改めて孫権と視線を合わせると…自分の気持ちを解放するように言葉を綴った。
「仲謀様。
私も………貴方が思う程冷静ではないです。
これまでも…何度 『今直ぐに貴方の許へ赴きたい』 と思う時があった事か―。
ずっと貴方の傍にいたい、と思うこの衝動を抑える………
それはもう、毎日が必死なんです」
どちらからともなく重ねる唇…そして、何時にも増して繋がっていく二人の心。
それでも口付けから先に進まないのは…先程の孫策とのやり取りがあっての事なのか、辛うじて二人の理性が勝っているのか―。
そんな事は最早、二人の世界に入った彼らにはどうでもよくなった。
一刻の後、孫権が触れ合った体を僅かに離すと
「流石のお前でも、この病は簡単には治せないか」
この想いは…心をも悩ませる病に似ているからな、と笑いながら言い放った。
心を悩ませる病、か―。
仲謀様も上手い事を言いますね、とはくすりと笑う。
この世には医師の力を以ってしても治せない不治の病も存在するが、その中でも一番厄介なのが心の病だろう。
何故なら…心を動かす病は人と人とが理解し合わなければ治癒はおろか、更に壊す事となってしまうから。
しかし…
「こればかりは…貴方と私、二人掛かりでも無理みたいですよ」
微笑みを顔に湛えたままさらりと言いのけた。
ただの恋なら苦しいばかりのものだが…一度想いが通じ合ってしまえば、苦しさも幸せで補完される。
今の二人ならば、治癒不能な恋の病も心地のいい媚薬となり得るだろう。
刹那、孫権の腕に更なる力が籠められ、の身体があっという間に床に組み敷かれる。
「そうか…だが、問題は無い。 私はお前を生涯離すつもりはないからな」
「…ならば。 この病…これからは媚薬に変わりますよ、仲謀様」
そう、間違いなく―。
再び重なり合う唇と熱くなる心に、理性を忘れかけながらは彼の首に腕を回した。
愛は、余計なものを必要としない。
ただ………
それは互いの心のまま、想いを重ね合うという事―。
劇終。
アトガキ
うわぁお!権様夢、第2弾なのですよ〜♪(←何故壊れる
すみません、またしても甘々でございます。
今回はタイトルが長くなったため最後に真のタイトルを書いています。
『愛は互いの心のまま想いを重ね合うという事』
ウチのサイトで比較的冷静(!?)なヒロインと、権様を絡めてみました。
立場上、お互いの気持ちを抑えなければならない二人が…如何に心を解放するか。
その辺が出ていれば本望なんですけどね(ぇ
少しでも楽しんでいただけることを祈りながら…。
(詳しい裏話などは日記にて書く予定ですw)
ここまでお読みくださってありがとうございました。
2008.02.02 (同4日 改訂) 飛鳥 拝
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(背景素材タイトル:果てしなき蒼)