「…」
「ん?」
「。 貴女は『人を愛する』って、どういう事だと思いますか?」
「………はぁ?」
心を紡ぐ言葉
「どうしたのよ…いきなり」
は調合をしていた薬品が入っている坩堝を手から離し、陸遜に視線を向けた。
ここはと、父であり最高軍医である深怜の仕事場とも言える医務室。
軍医である彼女は…一日の業務が終わると何時もここに残って薬品の調合に勤しんでいた。
父は既に自室に帰り、今頃は寝床で物思いに耽っている事だろう。
それを狙ってか…陸遜は毎晩のようにの許へ訪れる。
そして、今夜も…の仕事の様子を近くで眺めていた。
椅子に浅く腰を掛け、身を乗り出すようにに顔を近づけてふ、と軽く息を吐く。
「今考えていた事をそのまま言ったまでですよ、」
顔を上げたの視界いっぱいに入る陸遜の柔らかい笑顔。
それを見て、は照れくさそうにはにかんだ笑顔を返した。
そして、目の前にある陸遜の鼻を軽く指で弾くと
「こら…あまりお姉さんをからかうもんじゃないわよ」
その笑顔に少々苦いものを含めて言い放った。
何を言い出すかと思えば…。
難易度の高い問いを私に投げかけてどういうつもりなのかしら、とは思う。
日々『人』を相手にしている仕事に携わっている彼女は知っていた。
この世で一番理解できないものは『人の心』だという事を。
一つの言葉では括れなくて、生半可な扱いをしてしまったのでは…何時かは壊れてしまう。
…途轍もなく脆く、怖いものだ。
それは、目の前に居る愛しい男(ひと)も知っている事なのに…。
はふっと微かな笑みを零し、椅子に腰を掛けると改めて陸遜に向き直る。
「残念ね…。 私の考える回答は必ずしも貴方が満足するようなものではないと思うわ」
「えっ…? それはどうしてですか?」
己の思っていたの返答とはあまりにもかけ離れている言葉に陸遜は訝しげな顔をした。
私が、満足しない…?
貴女が語る『愛』に私が満足しない筈などないのに…。
すると、は再び陸遜の鼻を指で弾いてにっこりと微笑う。
「前にも言ったでしょ? 人の心は千差万別だって」
「ですが…」
「いい?伯言。 考え方も人それぞれでしょ? だから…そう返したの」
それだけよ…深い意味はないわ、とからかうような瞳を陸遜に向けた。
真剣な眼差しでの言葉に聞き耳を立てていた彼は。
その言葉に一瞬不貞腐れた顔をしたが、直ぐに元の柔らかい笑みに戻す。
「…貴女も人が悪いですね。 私をからかうとは」
「さっきの仕返しよ」
「くすっ…」
間近い位置にあった二人の笑顔が、次の瞬間…更に近付いていく。
優しく、何よりも甘い時間…。
それが全てだと感じたくなる程、絡めた二人の指先はこれ以上なく温かかった。
「あのさ…伯言」
「? どうしました?」
椅子から床へと場所を移し、ぴったりと寄り添っていた二人だったが。
の一言で身体が僅かに離れる。
「そういえば…前にもこんな感じの話をした事、あったわね」
何かを思い出したように呟く。
それを見て、陸遜はが何を言いたいのかがはっきりと解った。
笑顔に黒いものを含め、の瞳を見据えながら言う。
「あぁ…『あの時』の事ですね。 忘れもしませんよ…私達の最初で最後の大喧嘩でしたから」
「…喧嘩って…ちょっと大袈裟よ」
の言葉に重なり合う二つの笑い声。
「あはっ…。 ですが、あの事で…言葉って怖いんだなって思いました」
自身の胸の前で腕を組み、大きく頷く陸遜を目の前にしては噛み締めるように言葉を吐く。
「そう…。 言葉は人の心を癒す薬であり、簡単に傷つける事が出来る刃でもある」
「はい。 私は『あの時』、からそれを学びました」
「学んだ、って…」
陸遜の言葉にが少々恥ずかしそうに笑うと、二人の心は『あの時』のへと遡っていった………。
医務室の扉が僅かな音を立てて開く。
その音が高く響く程、室内は静寂に包まれていた。
今は宵…生あるもの全てが無に帰ったかのような錯覚さえ覚える程、静かだ。
調合したての薬品を薬品棚に並べていたは殆ど反射的に入り口を見やる。
すると。
扉の前に見慣れた影が現れた。
「…」
しかし、呟くように自分の名を呼ぶその声は…何時もの張りのあるものとは違い、微かに震えているようにには感じられた。
確か…今夜は彼が大都督となって初めての軍議で私とは逢えない、そう彼は言っていた筈だ。
それなのに…。
刹那。
何かあったのだろう、とは瞬時に理解した。
薬品棚の扉を閉じると、入り口に突っ立っている陸遜に「どうぞ」と椅子を勧めて自分もその隣に腰を掛ける。
そして、隣で目を伏せている陸遜の顔を穏やかな視線で見つめた。
話を促す事なく、彼が口を開くのを待っているかのように…。
どれだけの時が過ぎただろう…。
暫しの沈黙の後、ようやく陸遜の口がゆっくりと開く。
「…。 医師である貴女は…私の心の治療もしてくれますか?」
今の己の情けない顔を見せたくはないのだろう…俯いたまま顔を上げようともせずに紡がれた陸遜の言葉を聞き、は穏やかな視線に優しい微笑みを乗せる。
「ふふっ…。 貴方の事を大事に思う私の立場だったら、貴方の心の痛みを和らげるくらいは出来るんじゃないかしら?」
医師としてだったらどうかと思うけど?と陸遜の顔を覗き込んだ。
すると、今迄落ち込んだ様相を呈していた陸遜の表情が僅かに綻ぶ。
少々愁いを帯びてはいるが、顔を上げてと同じような微笑みを浮かべた。
そして、ようやく絡まり合った視線にお互いに満足した後
「…ありがとうございます、。 やはり…貴女が居てくれてよかった」
陸遜はこう言うと、事の起こりをに話し始めた…。
陸遜は孫呉を代表する『軍師』である。
そして、今や亡き呂蒙に代わって軍の全てを担う『大都督』となった。
それは、まだ少年と言ってもおかしくない若い彼にとってはあまりにも重い責務であろう。
しかも、軍の武将達は『若い』というだけで頼りなく感じてしまっている。
更に…彼の実力は未だ未知数で、武将の中からは
「若造に軍を任せられない。 コイツの指図は受けない」
という…彼の存在を完全に否定するような声も上がっている。
そこに来て、今夜の軍議。
彼の唱える戦略に納得がいかなかったのだろう…。
話が長引くどころか…途中で退席する武将が続出したらしく、軍議は中途半端な形で打ち切られたのだと言う。
己が自信を持って提唱した戦法なのに、それが皆に伝わる事なく終わった…。
陸遜が落ち込むのも無理のない話である。
「…私の戦略に揺るぎがあるとは思えません。 ましてや、皆さんに解るようにしっかり噛み砕いてお話したつもりでした…」
まさか…私の話すら聞いてくださらないとは、と陸遜が泣きそうな顔をしてに訴える。
それを卓に頬杖をついてうんうん、と聞いていただったが…不意にその視線が少々険しいものに変わった。
そして。
「ねぇ…伯言?」
と話を切る時を見計らって口を挟んだ。
刹那、隣で力説をしていた陸遜が「えっ?」と顔をに向ける。
再び視線が絡まり合い、それを確認するように軽く首を傾げるとは言葉を続けた。
「一つ言うわ。 貴方が心を開かなくては…武将さん達の心は動かせない」
「心を開く…」
「そう。 話をするって…要点を伝える事だけじゃなく、自分の『心』を伝えるって事」
「はぁ…やはり私が若いから、皆さんに伝わらないのでしょうか…」
の話を真摯に受け止める陸遜。
それを見つめながらは目を伏せ、暫し思案する。
皆を納得させる…己の話を聞いてもらうためには、説得力が必要だ。
幾ら素晴らしく、尤もらしい御託を並べたところで…その言葉に『心』が籠っていなければ、伝わるものも上手に伝わらない。
彼は…周りに対して遠慮し過ぎている。
それは…若年である彼にとっては無理のない事だとも思うが…。
故に、退室する武将達に対して話をするのを諦めてしまったのだろう。
は顔を上げて一つ頷く。
「それよ、伯言。 貴方は早く諦め過ぎたんだわ…そこで引き止めないと先へ進まない」
「引き止めてどうしようって言うんですか? 聞いてくれない方達にまた最初から話をしろ、とでも言うんですか!?」
から発する結論に陸遜は苛立ちを感じ、語気を荒げた。
しかし、は彼の何時もと違う態度に全く臆する事なく更に畳み掛ける。
「そう。 直ぐに諦めては誠意なんか伝わらないわよ」
「…でも」
「でも、じゃなくて。 聞いてくれるまで何度でも話をするの。 それが『説得』というものだわ」
頑張って…何時か解ってくれるから、と陸遜を励ます。
だが…頭に少々血が上り始めた今の陸遜にはの心が伝わらなかった。
はぁ、と大きく息を一つ吐き…かぶりを振ると、心無い一言をに向かってぶつける。
「……。 貴女はいいですよね…気楽で。 貴女も所詮『他人事』だからそういう事が言えるんです」
「………!!!」
苛立ちを覚えている陸遜にしては本当に何気ない一言だったのだろう。
しかし、その言葉は刃で肌を削ぐかのようにの心を逆撫でた。
同時に、これまで微笑みすら湛えていた視線が一瞬にして冷たい光を放ち始めた。
そして…陸遜を鋭く見据えながら言葉を紡いでいく。
「…貴方の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったわ。
伯言…。
私が、貴方のためを思って言った事も…
それすらも…。
貴方は『他人事』だと言うのね」
「…!」
の言葉や視線が痛い程陸遜の心に突き刺さる。
ぶすり、と深く。
刹那、返す言葉もなくの肩に手をかけようと腕を伸ばすが…。
それは彼女の腕によって激しく振り払われた。
そして―
「直ぐに出て行って…。 今の貴方の顔なんか見たくもない」
吐き捨てるような呟きと共に、の視線が完全に逸らされる。
が…次の瞬間、の瞳に光る一つの雫を陸遜は見逃さなかった。
が、私のために本気で怒った。
心を…怒りと悲しみで震わせている…。
「…すみませんでした。 私が今言った事、取り消させてください」
背を向けるの小さく見える肩に、心から反省した陸遜が改めて手を添える。
刹那、その肩がびくっと跳ね上がった。
零れそうなものを必死に抑えているのだろう…力の入った身体を陸遜に向け、ぽつりと問う。
「取り消して…それからどうするのよ?」
「それは………!」
陸遜はここで…ようやく気付いた。
人の心と言葉は…理屈では通らないもの。
その一つ一つが…人と人とを繋げもするし、離しもするのだ、と。
今の私が…貴女に出来る事、それは…。
の肩に添えていた手を一旦離し、直ぐの身体に腕を伸ばして拘束する。
今の私が…貴女に言える事、それは…。
「…。 謝りますから、どうかこちらを向いてください。
私は…貴女が居なくては駄目な男、ですから」
その言葉を受けて
「………私も、さっきの言葉を取り消すわ」
陸遜の熱い腕と言葉に包み込まれたの表情が、漸くはにかみながらも…優しく、穏やかに綻んだ。
…私も…貴方が居ないと嫌、だから。
一時の後。
陸遜とは元のように椅子に並んで腰を掛けていたが、二人の間には…最早緊迫した空気も、悲壮感も漂っていなかった。
「今度はあの方達に意地でも解ってもらいます」
「…うん。 自分が正しいと思ったらとことん貫いたらいいわ。 例え口論を通り越して殴り合いになったとしても」
「えっ…? 殴り合い、ですか?」
から発せられた意外な言葉に陸遜が驚き、目をぱちくりさせた。
その素の表情に軽く吹き出す。
「そう。 拳で語り合って信頼を手に入れるって手もあるのよ…凌統と甘寧のようにね」
「あぁ…あの方達ならその手が一番手っ取り早いかも知れないですね」
の説く策に何度も頷きながら力一杯納得する陸遜。
それを見て更なる笑いが込み上げて来るが、堪えつつは話を進める。
「あはっ…。 解って来たじゃない。 人によって説き方も変えなきゃ…」
「はい! 言葉は怖いものだって、先程に教えていただきましたから」
「こら…今のも取り違えたら『怖い』発言よ、伯言」
はじめ、静寂に支配されていた医務室に…二人の笑い声が響いた。
思い出話は笑い声と共に鮮やかに花咲き、二人の心に新たな暖かさを運んで来た。
冷え込んだ室の空気ががらりと変わるかのように―。
ふと外を見やると…空が群青色を更に深く染め直している。
「あの…。 そろそろ、先程の答えを教えてくれませんか?」
重なり合った身体を僅かに離し、陸遜がその顔に微笑みを湛えながら問う。
その問いにはくすっと笑いを零した。
「人の心…特に『愛する心』に理屈は必要ないって、伯言も解ってるでしょ?」
私は貴方を愛してる…それでいいじゃない、と顔を僅かに紅潮させて言い放つ。
その赤く火照る頬に手を添え、陸遜は満足したように微笑みを返した。
そして。
今傍に居る一番愛しい人の耳に唇を近付けると…極々小さく
「はい。 それで充分です。
私も…貴女を愛していますから」
と囁いた。
間近い位置にあった二人の姿が、次の瞬間…再び一つに重なる。
優しく、何よりも甘い時間…。
固く繋ぎ、これ以上ない程熱くなっていく二人の心…。
想いを交し合う今の二人にとって。
目の前の人を愛する事とは…。
……… それ が全てだった。
劇終。
↓反転で久し振りのおまけ(場外オチですので…ギャグがお好きな方だけどうぞ)。↓
無双夢界の楽屋(!?)にて。
凌統と甘寧が酒を片手に愚痴ったとさ…。
甘 「なぁ、凌統」
凌 「なんだ…? 相棒」
甘 「俺らって…事ある毎に、ここの作者に弄られてね?」
凌 「…まぁ、彼女なりの屈折した愛情表現なんだろうねぇ…と言う事で納得しときますか」
甘 「しょうがねぇな…。 そんじゃ、当分作者に弄られてやるか」
すまんのぅ…凌さん、甘さん(なんか水戸●門のような…) ←by作者
くだらないオチですみませんでした。 orz
これでおしまいです(汗
アトガキ
すみません…またやっちゃいました(何を!?
長々と時間をかけた割には…(殴打!
りっくんVSヒロイン第2弾を書きたい、と思ったのが運の尽きだった(ぇ
今度は口論で…と思ったのも間違いだった。
『言葉』や『心』という…だだっ広いテーマに思わぬ大苦戦!
危うく己の心が壊れるかと思いましたよ…(て お く れ
今回の舞台は夷陵の戦いの前くらい。
陸遜の策に最初ブーイングがあった、というエピソードを盛り込みました。
まぁ、結果は…史実(演義?)の通りです(汗
因みに。
凌さんと甘さんを出したのは私の趣味です(汗
最近の情報屋と私のマイブームなんです…彼らを弄るの(逝 っ て 来 い や
こんなんですが(こら
少しでも楽しんでいただけたら幸いですw
ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!
2007.6.9 飛鳥 拝
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