ねぇ、子龍…。
 私が…。
 命を投げ打ってでも護りたいもの。



 それは…。










 ただひとつ、
      護るべきもののために。











 馬を駆る趙雲に次々と迫り来る敵兵。
 しかし、修羅の形相で槍を振るう彼の前ではただの『烏合の衆』でしかなかった。
 塵を掃うかの如く一撃で敵兵を薙ぎ倒していく。
 彼の懐には君主である劉備の御子『阿斗』が片腕で抱えられていたが、目を見張るほどの槍捌きにはそれが微塵も感じられない。

 …早く、御子を劉備殿の許へ………!

 趙雲の心の内にあるものは、ただ一つだけであった。



   ☆   ☆   ☆



 『戦場に御子が取り残されている』との報を伝令から聞いたのが数刻前。
 既に用意されていた船に到着していた劉備は
 「仕方ない…今は民の命が優先だ」
 と水軍を動かそうとしたのだが、それを制したのは船の前で敵襲に備えていた趙雲だった。
 「お待ちください、殿! 御子を見殺しにはできません!」
 と言葉を残し、敵兵の流れに逆らうかのように馬を駆った。







 今は屍のみが支配する自軍の中継点にて。
 不自然に身を屈めながら倒れる侍女の姿を視線の先に捉える。
 もしや、と侍女に近付いてみると…予感は見事に的中した。
 必死に御子を護っていたのだろう、侍女の身体は…背中のみが自身の血で真紅の花を咲かせている。
 その全身に包まれるように護られながら…御子は身体を震わせ、泣いていた。

 死して尚意志を貫いている亡骸から御子を引き剥がす。
 そして、己の懐に泣き叫ぶ御子を抱え、馬に跨ると
 「お前の意志、この趙子龍が受け継いだ…必ず御子を護る」
 尊い犠牲となった侍女を労うように深く、深く拱手したのだった。



   ☆   ☆   ☆



 程なく、御子を抱えたまま劉備達の待つ船の前に着いた趙雲は水面の上に浮かぶ一隻の船を視界に捉えて
 『民を乗せた船は既に出たか』
 と安堵の息を吐いた。
 残った最後の船も、あとは趙雲が乗るだけという状態である。
 行き先を見据えると、地と船を繋ぐ渡り板の上に彼を待つ女の姿があった。
 女が焦燥と安堵の入り混じった表情で空に声を響かせる。
 「子龍! …早く、船に乗って!」
 追っ手が来るわ、とその場で飛び跳ねながら手招きするその姿に趙雲はやっと笑顔を零した。

 も無事だったか………。

 息を切らす馬を励ますように腹を蹴り、勢いよく渡り板へと駆った。
 刹那、それを確認したが身を翻して船へと降り立つと、縁で趙雲を待つ。
 そして…趙雲を乗せた馬が船に到達したのを横目で見て、今迄立っていた渡り板を自らの得物で叩き割ると
 「…早く! 船を出して!」
 船主に向かって怒号を響かせた。











 風の流れに上手く乗れた船の上。
 緩やかな陽光と風に優しく揺れる帆が、逃走を余儀なくされた軍の面々にもようやく落ち着いた雰囲気を齎していた。
 そんな中…念のために、と船の最後尾に立つに阿斗の身柄を劉備に還して来た趙雲が近付き、口を開いた。
 刹那、言葉を紡ごうとした趙雲を制するようにが言葉で遮る。
 「お帰りなさい、子龍」
 無事でよかった、と心底安心したような表情を浮かべて微笑んだ。
 それを見て趙雲も同じような笑みをその顔に乗せる。
 あの時。
 単騎敵陣に乗り込んで行く趙雲と待機するように指示されたは…一瞬だけ瞳を合わせて、視線のみの言葉を交わして離れた。
 そして、今…再び視線を一つに絡められた事で『生きている』事を実感する。
 「…。 お前も無事で安心した」
 ふ、と小さく笑いを零して趙雲がの方へ手を差し伸べると…が躊躇いなくその手を取る。
 どちらからともなく引き寄せ合う身体…。
 暖かさを齎す陽光の下、二人の影が心と共に重なった。







 一時…お互いの温もりを確かめ合い、満足したのか二人は僅かに身体を離した。
 「…。 お前も大変だっただろう…疲れないか?」
 「ううん、大丈夫。 …でも、子龍が居なかった間は正直きつかったわ」
 気遣う趙雲の言葉に笑いながら素直に答える
 趙雲不在の間、船の前は騒然としていた。
 何処で聞きつけたのか…「趙雲の身が心配だ」と言う劉備が最後の船に残った事で追っ手が次々に襲い掛かって来たのだ。
 頼みの義兄弟は…。
 片や関羽は民を乗せた船に同乗し、片や張飛は劉備を護るため船の上に居る。

 となれば…。

 が戦いの様子を身振り手振りつきで事細かに報告するが、それよりも時折見せる一生懸命な表情が全てを物語っていた。
 趙雲は目の前で力説している恋人を微笑みながら見つめると、心の中でへ感謝の気持ちをそっと述べた。







 二人の後ろから乳飲み子の泣き声が近付いてきた。
 殆ど同時に二人が振り返ると、御子を抱えた劉備が焦りと困惑を入り混ぜたような表情を浮かべ、
 「はは…阿斗は趙雲の胸の中の方が居心地が良いらしい」
 と笑いながら零し、歩み寄った。
 劉備のぎこちない腕に抱かれる御子を二人で眺める。
 声を大にして泣き叫ぶその顔を見ていると、今が乱世だという事を忘れてしまいそうだ。
 ふと隣を見ると、何とも言えない優しい視線を御子に注ぐ趙雲の顔。
 は僅かに頭を過ったものを振り払うかの如くかぶりを振る。
 そして、その場から離れて再び船尾に立ち、陽の光を受けて煌く水面を見つめた。







 きらり。



 ?
 何?  今の…。



 突如水面に陽光と違う色の光を捉えた
 刹那。
 風を切るような音と共に光る物が船の後方から飛んできた。
 河の曲線が作る死角を利用した弓の攻撃。
 陽光と違う色…あれは敵の放つ矢の鏃だ、と気付いた時には既に遅し。
 瞬く間に船が矢の嵐の前に晒されようとしていた。



 ………しまった!



 思うよりも早く、の身体は劉備と趙雲の元へと動いていた。
 彼らは未だ気付かない。
 船尾に背を向ける形で御子を受け取る趙雲の姿が視界に映る。
 はその背中に駆け寄りながら声を上げた。

 「子龍! 敵襲だわ!
      早く…殿と御子をっ!」

 その声に趙雲がはっと息を呑み、顔を上げる。
 再び御子を懐に抱き、片手で劉備の腕を掴んで引き寄せた。
 次の瞬間。
 己の行動に気を取られていた趙雲が後ろを振り返った。

 その視界に信じ難い光景が広がっていく…。







 兵達の阿鼻叫喚の中、君主を目がけて降り注ぐ矢を受け止めたのは両手を広げたの身体だった。
 迫り来る矢が全てに吸収されていくように錯覚する。
 程なく…矢の嵐が止んだ。
 敵の攻撃を一手に引き受けたの身体は、ゆっくりと後方へ倒れていく。
 まるで、矢の嵐が止んだ事を確認するかのように。
 そして、傷の数々から飛び散る紅い雫が残像のようにを追い、落ちた。







 「…っ!」
 君主と御子を他の兵士に任せ、趙雲がに駆け寄り、その身体を抱き上げた。
 刹那。
 が血の混じった咳をした直後、己の血で赤く染まった唇を開く。
 「殿と…御子は、無事みたい…ね」
 「! お前…」
 自身よりも君主と御子の身を案じるに趙雲は言葉の続きが紡げない。

 何故、逃げなかった…?

 それは愚問だ、と項垂れる。
 もし自分がの立場であったら…迷わず同じ行動を取っただろう。
 自分から…己の意志で矢面に立ったを責める事は出来ない。
 それよりも…早く気付けなかった自身を責める。
 武人故に…たった一人、愛する者を護れなかった事を恨む。
 すると。
 ぎり、と唇を噛み締める趙雲の様子を翳んだ視界に捉えたが重くなった腕を上げ、趙雲の頬に手を添えた。
 「最期に見るものが…子龍でよかった」と掠れた声で呟く。
 そして、残った力を全て使うかのように目を凝らし、趙雲を見つめながら言葉を続けた。

 「ねぇ、子龍…。
 私が…。
 本当に、命を…投げ打ってでも、護りたかった、もの。



 それは……………」



 趙雲の耳はその言葉が最後まで聞き取れなかったが、彼の瞳に映ったの唇は…確実にその想いを伝えていた。



ソ   レ   ハ   …   ア   ナ   タ   ヨ   ………。










 を床に下ろした腕が…身体が小刻みに震える。
 己に感じた憤り。
 容赦ない敵軍に対する怒り。
 これ以上ない程の気持ちの昂りが趙雲の心を支配していく。
 刹那。
 趙雲の視界の先…河の死角から敵軍の小船が姿を現した。
 次の一撃の準備をしているのだろう…静かに、それでいて速く近付く船体。
 それを見るや、趙雲の怒りが頂点に達した。



 「…き さ ま ら か ぁぁぁぁぁあああっ!!!」



 趙雲の咆哮と共に放たれる彼の得物。
 『竜胆』は低く唸りを上げながら真っ直ぐに敵の小船へと飛んで行き…

 どぉぉぉんっ!

 大きな音を響かせ、小船の底に突き刺さった。
 次の瞬間、その場が凍りつく。
 普段から冷静沈着で通っていた彼の…見違える程の咆哮と行動は敵兵共はおろか…味方をも黙らせた。



 小船はその中心から真っ二つに別れ、沈んでいく。
 敵兵の阿鼻叫喚をその耳に捉えながら…趙雲の心は次第に落ち着きを取り戻していった。











 そして…再び穏やかな時間が訪れた。
 さらさらと音を立てながら流れる河と静かな時の流れが趙雲の心を逆撫でる。



 の亡骸から突き刺さる矢を全て取り去り、傍らに膝を付いた。
 刹那、隣ですすり泣く声がし始めた。
 趙雲が訝しげに見やると、そこには劉備の姿。
 「すまない…本当にすまなかった」と人目を憚らず嗚咽を洩らす。
 その姿はあまりにも哀れだった。
 私のために…また一つの命が落ちた。
 私は…何も出来ないままだった…。
 懺悔するように謝り続ける君主を趙雲が必死に制する。
 「劉備殿! お止めください!」
 しかし、劉備の懺悔はそれでも止まらない。
 依然謝りながらその瞳から涙を零し続ける。



 と、その時。
 「もう止めろ…兄者、趙雲」
 二人の背後から大きな足音を響かせながら歩み寄る張飛。
 そして、劉備の傍らに立つと劉備の肩をぐっと掴んだ。
 「もう止めろ、兄者」
 「…翼徳」
 諭すように言葉を放つ張飛を泣き濡れた瞳が見上げる。
 張飛はの身体を一瞬だけ見ると、再び劉備と視線を合わせて声を押し殺しながら言葉を紡ぐ。

 「趙雲の奴、このままだったら兄者を殴っちまう。
 例え兄者が悪くないと解っていてもな。
 でもな、そんな事したいんじゃねぇんだよ…あいつはな。
 だからよ、兄者…もう止めろ」

 張飛には、趙雲の気持ちが痛い程理解できた。
 確かに、君主を護って人が死んだ。
 しかし。
 だからこそ、その尊い犠牲を無駄にして欲しくない。
 君主たるもの…。
 どのような事があっても毅然とした態度を取っていて欲しかったのだ。





 二人のやり取りを黙って見つめる趙雲。
 その心には何にも変え難い気持ちが渦巻いているだろう。
 しかし、それを隠すように静かに微笑むと、二人をしっかりとした視線で見据えながら言葉を吐いた。



 「彼女は…。
 ただ、護りたいものを護った。
 …それだけです。

 それでも…。
 貴方が自分を蔑むのならば…彼女の死に誇れるような君主に…なってください」



 劉備がはっと息を呑む。
 静かに語る趙雲の瞳に僅かな光る物を見たのだ。
 そうだ。
 今一番苦しい思いをしているのは趙雲なのだ、とかぶりを振り、きっと顔を上げる。
 そして、趙雲の言葉に一つ大きく頷いた。

 「そうだな…。 民やお前たちのためにも、もっと強くならなければな」







 数刻後。
 民を乗せた船が岸に着いているのを皆の視線が捉える。
 無事に辿り着いた事に船上の面々が顔を綻ばせながら歓喜の声を上げた。

 船から民が下りる様子を見つめる君主。
 そして…それを護る二人の武人。
 心の中には最早悲壮感はなく、先を見据える瞳には新たな決意が表れていた。
 張飛が傍らに立つ趙雲の肩に手をかける。
 「お前も最期まで意志を共に貫こうぜ。 …の為にもな!」
 「…あぁ!」
 張飛の言葉にしかと頷き、趙雲は彼女が上がったであろう天を仰ぐ。
 そして、己の心に生まれた決意を伝えるように…静かに瞳を閉じた。



 …。
 何時か解らないが、再び出逢う時…。
 お前の生き様に相応しい武人になっている事を

 ここに、誓おう…。







 この命は―
      ―ただひとつ、護るべきもののために…。








 劇終。







 アトガキ

 長らくお待たせしました(?
 久し振りの子龍様夢ですっ!

 スミマセン。
 ヒロイン、また殺しちゃいました(汗
 ついでに言えば、君主がヘタレです。

 結局のところ…私が書きたかったのは。
 『愛する者の死に咆哮する子龍さん』
 どんな事があっても冷静でいられるっぽい(ぽい!?)子龍さんに吼えてもらいたかった!
 …スミマセン、私の妄想がおかしいだけです(殴

 戯言は置いといて(汗
 長坂の戦いを違った形で書いてみました。
 史実から離れていそうな展開にちょっと冷や汗ですが…。

 適当なところで退却いたします(待て

 ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!

 2007.4.24     飛鳥 拝

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