悲しみの涙で心を濡らす時…人はその場に立ち尽くす。
その先に何もない、と思わせる程に。
しかし。
時の流れが、その先にある何かを…教えてくれる。
人は悲しみを超え、知っていく。
涙の果てに…何が待っているのかを―。
涙…その果てに
今日もまた、幾つかの星が落ちた。
ここ…戦場では極々当たり前の出来事。
毎日のように誰かが傷つき、そして身体が抜け殻となる。
戦場を渡り歩く流浪の医師である深怜ともそれは嫌と言うほど目の当たりにしてきた。
しかし…。
はその度に自分の不甲斐なさを悔やんでか、人知れず涙を零す。
人の死によって悲しむ人が居なくなるようにという想いから医師の道を貫いてきたが、戦の多いこの世では…少なくなるどころか増える一方だ。
「この世界にはまだ…悲しみの涙が多すぎる」
名も知らぬ兵士の亡骸を目の前に涙する娘を見て
「医師がそんな事でどうする」
と共に戦場を渡る父が諭しても、自身にはその涙を止める事が出来なかった。
そして…父娘は思っていた。
流浪の身をこの先も続けるのは流石に辛い。
そろそろ…何処か定住する地を探すべきなのではないか?と。
夏口と呼ばれているこの土地も、戦場特有の熱気に包まれている。
呉軍の頭であった孫堅の弔い合戦が行われているらしい、という情報を手に入れて馬を駆ってその場に到着した父娘は目の前で繰り広げられている惨劇に「やはり…」と一瞬目を伏せた。
補給拠点なのだろう、その場には充分な蓄えがあったが…傷つき、次々に運ばれてくる兵士達の数に治療を施す手があまりにも少なすぎる。
「これでは…助けられる命も助けられないではないか」
やれやれ、と父が馬から治療道具を詰め込んだ重たい袋を下ろしながら呟いた。
その足元に…身体を引き摺りながら縋り付いて来る一人の年老いた兵士。
血塗られた顔を深怜に向け、必死の形相で訴えかける。
「なぁ…あんた、医者だろう? 早く、私の怪我を治してくれ…」
未だ倒れるわけにいかないんだ、と顔を激しく歪めるその老兵士を深怜は暖かい視線で見下ろした。
そして、兵士達とは違う意味で戦っている医療班の中心へと踵を返しながら
「…それだけの力があれば、今直ぐは死なんだろう。 …私は先に行っている」
と言い残し歩を進め出す父には声を上げて応えた。
「了解! 後は任せて、父上」
は父に倣って袋を馬から下ろし、袋の中身をその場に広げた。
そして、支えを失って倒れ込む老兵士の傍に跪いて声をかける。
「直ぐに痛いところを見せなさい…私が診ます」
急いで、と言うに感謝の言葉もままならずに老兵士が傷口を晒した。
間髪入れず傷に差し込まれる器具。
傷口が広げられるようなあまりの痛みに兵士は絶叫する。
「痛ぇ! 何するんだ!」
「…生きたいのなら…これ位の痛み、我慢して!」
老兵士の叫びに臆する事なく言い放つとは傷の治療を開始した。
程なく、老兵士の傷の治療が全て完了した。
額にうっすらと汗を浮かべたが優しく微笑む。
「…終了です。 痛みはどうですか?」
「…あんた、凄ぇな。 もう大丈夫だ」
の手際に驚いたのか、目を丸くしながら答える老兵士。
先程まで這うように歩いていたのが嘘のように軽くなった身体を起こして「ありがとう」と一礼する。
刹那、はそれを見届ける事もせずに器具をまとめ始める。
私が関わるところはここまでです、と。
それでも、老兵士は何度も何度も感謝の言葉をに投げかける。
「こんなに優しくされたのは久し振りだ…何度言ってもきりがない」
ただの兵士…しかも自分は歳をとりすぎた。
こんな人間が傷ついたとしても、誰も手を貸そうとしないだろう。
ましてやこの乱世…大概の人は自身を守る事に必死なのだ。
そんな自分に差し伸べてくれた手。
その暖かさに触れて、老兵士は目に涙すら浮かべていた。
袋を担ぎ、父の居る場所へと向かって歩くの後姿にもう一度丁寧に一礼する。
これで…死ぬ前にもう一花咲かせられる、と。
「…。 遅いぞ、早く手伝わんか」
「了解。 …でも、これだけの数…」
父に急かされ、一度まとめた商売道具を再び広げながらは顔を顰めた。
遠目で見ても酷かったが…ここまでとは、とかぶりを振る。
絶え間なく送り込まれる重傷人に、医療班の面々もすっかり憔悴しきっていた。
…重傷人が多いのは仕方のない事だが、は倒れ込む兵士の殆どが口々に訴える言葉に心底辟易した。
「もう嫌だ…早く楽にしてくれ」
「こんな思いをするんなら…死んだ方がましだ」
その声と共にの足に絡みつく腕。
見上げる顔に全てを諦めたような色を感じたの心は沸点に近付いていく。
そして
「あんた、医者なら…生かすも殺すも自在だろう? 早く俺を楽にしてくれよ…」
「殺してくれ」と縋りつく兵士の瞳を一瞥した刹那、とうとうの心が煮え滾った。
足を払い、兵士の身体を転がすように引き剥がして声を上げる。
「生きて戦う事から逃げるような弱い輩はここから去りなさい!
私達医師は…生かす命も殺す命も選べない。
選ぶのは、貴方達の心だ!」
何時しか零れた涙を慌てて隠す。
生きる事を諦めた人間ほど弱い生き物はない。
弱い人間はただ…戦場では脆く、散っていくだけだ。
今までの流浪の生活で、そんな人間を幾度となく見てきた。
だから…彼女は言いたかったのだ。
「『死ぬ』なんて悲しい事は言わないで…考えないで欲しい」と。
頬に光る雫を服の袖で拭うと、きっと顔を上げる。
そう。
私も負けていられない。
今は救える命を…生きようとする命を救わなければ…!
数刻の後。
父娘の助力もあってか、拠点の中は落ち着きを取り戻していた。
軽傷の兵士は疲れている医療班に任せ、重傷を負った者の治療は父娘が当たっていた。
戦が下火になったらしく、運ばれてくる兵士の数も時を追うごとに少なくなっている。
「ようやく…落ち着いたみたいね、父上」
「あぁ…」
二人は今迄張り巡らしていた緊張感を解き、やっと安堵の息をついた。
しかし。
彼らの仕事に未だ『終わり』は訪れなかった。
突如拠点の外が騒がしくなったかと思えば―
「凌操様が甘寧に討たれた! 医療班は急ぎ治療に当たれ! 僅かだが…未だ息がある!」
悲痛の叫びと共に担ぎ込まれた一人の武将。
地に広げられた白い敷布が瞬く間に紅く染まっていく。
鋭い刃で斬られ、傷口が肺にまで到達しているのか…辛うじて呼吸する音にひゅぅ、と冷たい風のような音が混じっていた。
はその身体を目の前に一瞬だけ表情を固くしたが直ぐにかぶりを振り、頭を横に向かせて口腔内に溜まった血液を吐き出させた。
刹那。
一人の男が駆け寄り、の身体を押し退けるようにして凌操に覆い被さる。
「父上! …父上…っ!」
息も絶え絶えな父の身体に縋る凌統。
余程大事にされていたのか、その身なりからは粗暴な感じが見受けられない。
服や得物に付いた大小の傷や血糊を除いては。
しかし、今の父娘にはどうでもいい事である。
その身をぐい、と無理やり引き離しながら諭すように言い聞かす。
「…ごめんなさい。 貴方の気持ちは解るけど…こっちも必死なの」
「息子か…。 ならば私達の邪魔をせんように…親父に声をかけてやってくれ」
言葉を投げつけながら既に治療を開始している医師達に凌統は何も言えない。
父の身体に治療が施されていく様を、ただ黙って見守るしかなかった…。
陽はまた昇り、この地を暖かく照らしていく。
何もなかったような青空が世界の半分を支配するように広がっている。
そんな中、凌統はを探していた。
一言、礼を言うために。
正直、父が拠点に運ばれている最中…既に諦めていた。
甘寧に斬られた時に舞い上がった飛沫の量で、その傷の深さが解った。
それは、実際に傷口を見た医師達にも容易に解り得た事だっただろう。
それでも、彼らは諦めなかった。
最後の最後まで父の傷を…意識を回復させようと必死だった。
彼らのおかげで…。
直ぐに潰えた筈の命を少しでも長くこの世に留める事が出来たのだ。
先程、の父の元へと足を運んだ。
そして、礼を言おうとしたその瞬間
「あいつは私以上によくやった…礼なら娘に言ってやってくれ」
今なら長江を見ているだろう、と外を指差しながら表情を僅かに綻ばせた。
かつて、父上もこんな顔で俺を見てくれたなぁ…。
深怜の微笑みに自身の父の姿を重ねた凌統は…再びこみ上げてくるものを抑えず、一つだけぽたりと零した。
この地での戦は終わった。
いつものように…数多くの犠牲者を出して、終わった。
自身の家族に詫びながら息絶えた兵士。
「まだ死にたくない…」と言いながら事切れた若き兵士もいた。
そして、凌操のように…息子へ何の言葉も遺せずに逝ってしまった人もいる。
は、戦の始末で慌しい拠点から少し離れた場所にある長江を望む高台に座り込み、戦士達の最期を思い出しながら…太陽の光を受けて眩しく輝く河の流れを見つめ、一人泣いていた。
確かに…この戦でも、たくさんの命を救う事が出来た。
しかし。
自分の治療も虚しく、落ちてしまった命もある。
それは、必ずしもの責任ではない。
寧ろ…乱世が全ての元凶だろう。
それでも、の心には悲しみが溢れて止まらなかった。
身内を亡くす人の気持ちが、彼女自身も痛い程解っていたから―。
膝を抱え、止まらない涙を地に落とし続けるの傍らに…何時の間にか一つの人影が迫っていた。
俯いていた視界が急に暗くなり、がはっと顔を上げると…父を亡くしたばかりの凌統が、太陽を背に立ち、微笑んでいた。
悲しみの涙を流していたのだろう、を見る目は少々腫れぼったい。
刹那、息を呑む。
凌統の目を見て…自分も泣いていたんだ、と気付き…直ぐに顔を伏せ、涙を服で拭う。
その姿が少々可笑しかったのか、ふっと小さく笑うと凌統は膝を抱える医師の隣に腰をかけた。
同じように膝を抱え、その膝の上に顎を乗せた状態で眼下の長江を見下ろす。
「綺麗だな…」
「そうね。 私、長江の流れって好きなの。 大きくて、それでいて優しくて」
凌統と同様に長江を見つめていたが表情に微かな笑みを含んで答えた。
しかし、この言葉は凌統にあっさり否定される。
「いや…。 俺が『綺麗だ』って言ったのは、長江の事じゃない」
「へっ???」
目を丸くし、呆気にとられるに凌統の言葉が更に追い打ちをかける。
「お医者さん、あんたの涙。 …綺麗だな、ってさ」
「??? なんで?」
「なんでって…そうだなぁ…」
何て言えばいいのか解んないけどさ、と凌統は頭を掻く。
上手く言えない。
言葉が…考えが纏まらない。
この高台にの姿を見付け、頬に伝う涙を視界に捉えた瞬間から…彼女から目が離せなくなっていた。
医師としての彼女の強さからは想像もつかないその姿は…降り注ぐ陽の光に取り込まれてしまいそうに弱く、儚げであった。
そして、彼女の瞳から流される涙が…死んだ者のために流されている、と理解した瞬間…自分如きが触れてはいけないんではないか?と思わせる程神聖なものに見えたのだった。
あの瞬間を思い出した刹那、心が騒がしく高鳴り出す。
「本当に綺麗だよ、あんたの涙は…」
先程の言葉を復唱するように呟きながら、凌統は久し振りに感じる淡く純粋な恋心に戸惑いを隠せないでいた。
「なぁ…お医者さん」
「…、でいいわ」
「…。 あんた、何時もこうやって泣いてるのか?」
「うん…。 恥ずかしい話だけどね」
「いや、恥ずかしくはないと思う、けど…疲れないか?」
凌統は自身が発した言葉に、再び自分の頭を掻き毟る。
普段の俺なら…もっと上手い言葉を連ねる事が出来るのに、と自分でもどかしくなる。
こんなに不器用だったっけか?俺…。
すると、凌統の仕草を笑って見つめていたが一言「ありがとう」と零した。
ん?と動作が一瞬止まる凌統。
それを一瞬だけ見やると、は視線を長江の雄大な流れに戻し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「この涙はね、私にとって『贖罪』のようなものなの。
何時も…力が及ばなかった事や早く助けてあげられなかった事を悔やんでる。
でも、辛くはないわ。
その度に…時間の流れに心を任せるの。
そうすると、時が教えてくれる。
『悲しみの涙』を流した後、何が待ってるかって事を」
「父上の受け売りみたいなものだけどね」と僅かに舌を出して首を竦める。
彼女は父の涙を一度だけ見た事がある。
母を病で亡くした時。
自室に無言で入って行った父は、直後声を押し殺して泣いていた。
いや、あれは声無き声を上げていたという方が正しいかも知れない。
扉の隙間から部屋を覗き込んで盗み見ていたは、自分のした事が途轍もなく恥ずかしく思えた。
そして。
その後…直ぐにあった戦の後にが流した涙を目の前に父の発した一言。
「…。その涙は、自分の本当に大切な者が死んだ時の為に取っておけ」
その言葉を今頃になって思い出す。
何故今頃?という疑問も彼女にあったが…あの頃の父を思うと、言葉の重さがより伝わってくる。
しかし、彼女はそれに動じず…一つだけ大きく頷いた。
凌統に全てを話してすっきりしたのか、の顔からは既に悲壮感は感じられなかった。
視線の先は確実に前を向いている。
「…泣くのは今日で終わり。 これから…涙は大事な人のためだけに流すわ」
立ち上がり、自身の決意を凌統に宣言しながら微笑む。
その顔を見て、凌統はあっと声を上げた。
「なぁ…。 あんたの言ってた『泣いた後に待ってるもの』ってさ…」
「え? …内緒よ! 自分で見つけなきゃ意味がないでしょ?」
「ちぇっ…酷いなぁ…」
の意地悪な返答に軽く舌打ちをし、その場に立ち上がる凌統。
そして、既に拠点へと向かうの背中を見た瞬間、彼の中で一つの答えが見えたような気がした。
唐突な提案を先を行く背中にぶつける。
「。 あんた、俺の軍に来ないか?」
「え? 貴方の居る軍に? …あまりにも唐突だけど、いいの?」
振り返って少々声を上げるの率直な質問に凌統は掌を彼女の方に指し向ける事で答えた。
「来なよ。
あんたが傍に居てくれれば、解ると思うんだ。
涙を超えた先に待ってるものが、さ…」
人は悲しみを超え、知っていく。
涙の果てには…。
新しい『心』が待っている、という事を。
劇終。
アトガキ
本格的!管理人お題挑戦作品ですw
そして、自分的に『凌さんごめんね企画』発動(笑
前回…凌さんに対してカナーリ悪い事をしてしまったんで。
(しかも裏だし)
この作品ではちょっと淡い恋をメインに書いてみました。
連載で出会い編(蜀)を書いている関係で。
他陣営バージョンの出会い編を書いてみよう、と思い…今回の作品となりました。
何時もの如く、情報屋に少々(?)の知恵を借りつつ構想から数日で出来上がりました。
当時の戦場では小さな傷が命取りになる。
…時と場合によっては一思いに殺してあげた方がいい、という情報屋からのお話もあったのですが。
私的には命の大事さを表に出したかったので割愛しました。
…思想的には現代ちっくかな?
それと。
悲しみを乗り越えたい、という主人公達の想いが伝われば幸いと思います。
ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!
2007.3.12 飛鳥 拝
使用お題『涙…その果てに』。
(当サイト「正真正銘!タイトルお題10連発!」より)
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