Poison
それは決して逃れられない『刃』だった。
は生い茂る草花以外に何も存在しない、と思わせるような平原をひた走っていた。
己の味方をするものはこの手に携えている得物だけ。
他を圧倒する程の武勇を持ちながら、彼女はその『刃』から逃れようと必死だった。
何故…?
謎を解く鍵は、『刃』の持ち主が握っている…。
平原を駆っていた脚がぴたり、と止まる。
何とも言えない形相で辺りを見回すと、そこには何もない。
先程まで追っていた『刃』どころか…何ら変わりのない風景が広がっているだけだ。
ほっと安堵の息を吐く。
そして…屈んだ膝に手をつき、切れかかった息を整える。
…それが、貴方の真意なの?
本気で、私を殺めたいの?
それでも…。
私は、貴方と『刃』を交えたくはない。
はきゅっと唇を噛み締めた。
そして、これが…己の犯した罪に対する報いか、と言葉を地に吐き捨てる。
は『埋伏の毒』であった。
ある人物の命を受け、呉軍の軍師である陸遜の元へと降ったのだが…その『偽りの上司』である陸遜を愛した事で、彼女の運命ががらりと変わった。
―戻る筈であった軍を欺く。
これは今迄恩を受けていたにとっては何にも変え難く、苦しいものだっただろう。
しかし、彼女はそれを表に出さずに成し遂げた。
の功績によって呉軍に齎された『大勝利』によって軍の面々から絶大なる信頼を得た。
…こやつはもう『埋伏の毒』ではない、と。
そう。
皆に孫呉の人間だ、と認められた…筈だった。
刹那。
「…。 私からは逃れられない、と言っているでしょう」
乱れた息を整える背中から冷ややかな声が刺さった。
はっと息を呑み、その顔に驚愕の色を乗せて振り返る。
その視線の先には、愛用の双剣を機械的に構えた陸遜が放った声と同じような冷たさを表情に湛え、を見据える。
…やはり、早い。
流石は孫呉を代表する将、と言ったところか。
は陸遜から逃れる事を断念し、改めて対峙する。
「…負けたわ。 殺るなら…好きにすればいい」
陸遜とは対照的な視線を投げ、その腕を身体の横に力なく垂れ下げた。
…責められるなら、この場で死んだ方がましだ。
それが…貴方の手によってならば…寧ろ本望だ、と真っ白になりかけた頭で考える。
すると、陸遜は構えていた剣を下ろし、かぶりを振りながら微かに笑みを零した。
しかし、その笑顔はが見たかったものではなかった。
その悲しい程冷たい微笑から言葉が放たれる。
「…私も鬼ではないですよ。
無抵抗な相手に刃を向ける気はありません。
まぁ…尤も。
貴女が好戦的な態度を取っていたなら…迷わず殺していましたが」
…あぁ…本気なんだ…。
の心に突如生まれる陸遜への戦慄と、葛藤。
武人として戦って死ぬるか。
或いは…一人の『女』として愛する人の前で己の命を絶つか。
…ここまで言われたら、戦うしか道はない。
何故なら―
―かつて同じように愛してくれた男に…『女』としての自分を否定されたのだから。
「そう…。 ならば、貴方の武勇で私を死へと誘いなさい…」
身を切るような想いで細剣を鞘から抜き、その冷たく光る切っ先を陸遜に向けるだったが…その心を表情へと出さずに言葉を続ける。
「でも、最後に聞かせて。 …何故私を殺そうと思ったのかを」
しかし、陸遜はが差し向けた細剣を自らの剣でキン、と弾くと先程よりも温度を下げた鋭い視線でを一瞥する。
「…貴女が幾ら他の方達から信用を得ようとも…。
貴女の犯した『罪』は、途轍もなく重い『罪』なのですよっっっ!」
言葉と共に振り下ろされた陸遜の双剣。
は弾かれた細剣を両の手で握り直し、それを正面から受け止める。
ガキンッ!!!
ギリギリ…と唸りを上げる二人の得物。
その力は漸くの事で拮抗している。
刹那。
男と鍔迫り合いをしたところで…勝負は見えている。
そう思ったは両腕の力を弱め、直ぐさま後ろへと身を弾かせた。
「くっ…!」
支えを失った陸遜の身体がぐらり、と傾く。
…今だ!
「はっ!」
が間髪を入れず間合いを詰め、構えた細剣から横に一閃…そして、止めとばかりにもう一閃、陸遜目がけて繰り出す。
しかし、その素早い剣撃は…相手に当たる事がなかった。
一瞬よろめきかけた陸遜が直後、双剣の風圧を利用してその身を翻したのだ。
一閃が空を切り…手応えがない、と自覚したは、陸遜の姿を見据えながら細剣を構え直し、間合いを取る。
いや、取った筈…だった。
ずしゅっ!
の背中から、今迄戦場で散々聞かされていた音が響いた。
直後…そこから熱が放出される。
同時に、は身体中の力も奪われるような気がした。
金属音を立てて手から得物が落ちる。
膝を折り、力なく突っ伏していく哀れな姿を陸遜が見下ろしていた。
そして、持ち主を失った細剣を遠くに蹴り飛ばし、から抵抗する術を奪う。
「…『罪人』に相応しい殺し方をしてあげましょう…」
は涙に濡れる瞳を固く閉じた。
そんな顔…二度と見たくない…と言うように。
そして、己の首に陸遜の心のような『刃』の冷たさを、感じた―。