兄の気持ち。彼の気持ち。





 太陽が高みまで昇り、少々暑くなってきた昼下がり。

 昼餉の時間でもある現在、本来は静かである筈の廊下が不意に二組の足音で騒がしくなった。









 「待て〜〜〜! 待ちなさいよっっ! 伯言っっっ!」

 「はは…私はそう簡単に捕まりませんよ、

 「酷っ!私がそんなに『鈍足』だって言いたいの?!」

 「いえ、そのようなことは…あははは…」



 駆けながらにも関わらず息一つ乱さずに笑い続ける陸遜。

 彼にとっては軽く…寧ろ早足程度の速さで軽やかに床を蹴って行く。

 一方、追い駆けるは小さな身体から力を一杯に振り絞り、全速力で駆けて行く。

 必死に陸遜に追いつこう、と。












 「ん?なんだ…外が騒々しいな」



 昼餉の後、膝枕をしていた周瑜は廊下の様子を伺おうと小喬の膝の上から頭を起こし、声の方向へ視線を走らせると

 「なんだろうね〜? 周瑜様」

 小喬が直ぐに窓に駆け寄り閉め切った窓を大きく開け放った。

 すると――



 「こ〜ら〜ま〜て〜」

 「あははは…」

 遠くから楽しげな二人の声とばたばた、という足音が聞こえて来る。



 「…あれは、と………陸遜か?!」



 周瑜は声の正体に気付くと、普段滅多に見せない素早さで窓から外へ飛び出した。










 廊下の端に、仁王立ちで待ち構える周瑜。

 足音の聞こえ方から…間違いなく此処を通過すると確信して。

 すると案の定、向こうから二人の姿が近付いてくる。





 …陸遜、私の前で好き勝手はさせん!









 陸遜は、自分の行く先に周瑜の姿があることに嫌な予感を覚えたが自分の事を必死に追ってくるをもう少し見ていたい、と思い、構わず後ろを振り返りながら駆ける。

 やがて、周瑜の脇を「御機嫌よう、周喩殿」と今まさに通り過ぎようとしたその瞬間。

 自身の脛に何かが引っかかった…否、ぶつかったような感覚が走った。

 刹那――



 びたんっっっ!



 走っていた勢いを周瑜の足によって急に制された陸遜の身体は前に思いっきりつんのめり、そのまま床に叩きつけられた。

 「っつぅ…」

 腹這いのまま軽く唸る陸遜の背中に

 「やぁ、陸遜。…こんなところで何をしている?」

 という周瑜の白々しい言葉が降りかかる。









 そして、陸遜の後を追う

 「伯言?! ちょっ…大丈夫?」

 と、同じ『駆ける』でも陸遜を追う事から一瞬にして駆け寄る事に変わった。

 しかし目の前に立ちはだかるは我が兄。

 なんとかは急に止まれない、と言うが如く…の身体は周瑜の胸に飛び込む形になった。









 「あっ…兄上…」

 「どうしたのだ?

 妹の身体を抱き締めたまま周瑜が尋ねる。

 片や周瑜の腕に阻まれたは大きく深呼吸し、乱れた息を整えてから兄の顔を見上げて

 「ううん…何でもないの。だからもう離して」

 と自身の両手を周喩の胸に当て、向こうに押しやろうとする。

 が、当の周瑜は

 「…そんなに急いで追い駆けていて…『何でもない』訳がないだろう」

 訝しげな顔をに向けながらその腕を緩めようとしない。



 …もう、子供じゃないのに…っ



 の気持ちを察してかどうか…。

 不意に周瑜の身体が陸遜の手によってぐい、と後方に引かれた。

 と同時にの身体が自由になる。

 「…が嫌がってるじゃないですか」

 周瑜の肩を掴んだ手をそのままに、陸遜が言う。

 「やってくれましたね」という表情をその顔いっぱいに湛えて。

 陸遜のそんな態度に涼しげな笑顔を向ける周瑜。

 「そのような事は…本人にしか解るまい?」

 「いえ…訊かなくても解りますよ。私には、ね」

 一方の陸遜も負けじと薄笑いで切り返す。







 …はぁ、これだから男って。



 廊下で繰り広げられる攻防(?)を窓から見詰める小喬と顔を見合わせる

 表情は二人とも苦笑交じりであったが、陸遜はそんな二人を見逃さずにしっかりと見ていた。

 陸遜は、視線を少し上にして一瞬考えた後、にやりと唇の端を吊り上げた。

 そして、周瑜の顔をマジマジと見詰めると笑顔を崩さずにその顔を僅かに伏せ、こう言い放つ。





 「周瑜殿、貴方のに対する態度を見ていると…

 …まるでに恋をしているみたいですね。

 私、嫉妬してしまいそうです」





 「…なっ…!」

 周瑜は陸遜の思い掛けない発言に言葉を失う。

 こんな素振りも普段は滅多にお目にかかれない。

 そんな兄に視線を移していたは呆然とした表情でふと小喬の方を見た。

 すると、は更に呆然とする事になる。









 陸遜の言葉は間違いなく『出任せ』だ。

 それはにも理解し得る事だった。

 しかし自分の目の前に居る小喬には『真実』に聞こえてしまったのだろう。

 彼女の瞳からは涙が溢れ、握り締められた拳はふるふる、と震えていた。

 「周瑜様…それ、本当なの…?」

 「あっ…いや、それはだな、陸遜が…」

 小喬の態度に更に狼狽する周瑜。

 その様子を見て、勝ち誇ったような笑顔を向ける陸遜は更に追い討ちをかけるべく拱手しながら言葉を連ねる。





 「周瑜殿。私達はこれで失礼します。

 …っと、あぁ…言い忘れました。

 先程、私がに追い駆けられていた理由なんですが…。

 実は…。

 私がに昼間から口付けの先を強請ったからなんですよ…」





 「なっ…何だと! 陸遜!」

 陸遜の言葉に一瞬で頭に血が上る周瑜。







 「ちょっ…伯言!そんなにはっきり言わなくても…」

 と顔を上気させて言うに視線を合わせた陸遜は「さぁ、行きましょうか」との手を引き、その場を去ろうと踵を返す。

 勝ち誇った笑顔を周瑜に向けたままで。







 肩を並べて歩き出した二人の後ろで

 「おっ、おい! 待て、陸遜…」

 怒りを露にした周瑜の声が聞こえかけたが………

 「周瑜様! もう、許さないんだからぁ!」

 と言う小喬の怒声に忽ち掻き消された。







 小喬に組み敷かれ、閉じられた鉄扇で殴られ続ける周瑜は

 「おのれ…陸遜! 覚えていろ!」

 唇を噛み締めながら…何とも情けない台詞を吐いた。













 「はぁ…すっきりしました」

 二人揃って陸遜の自室に戻り、少し遅くなった昼餉の後のお茶を一気に飲み干すと陸遜が言った。

 直後、空になった陸遜の茶碗にお茶のおかわりを淹れながらが小首を傾げて訊く。

 「…何? さっきの兄上との事?」

 「そうです。 周瑜殿、なかなか私達の仲を認めてくれませんからね」

 「…もしかして、兄上を懲らしめるためにあんな事を?」

 「…勿論。 、貴女だってすっきりしたでしょう?」

 陸遜は、自分の隣に座ったの肩を優しく抱き寄せながら言った。

 その強い腕に身体を預け、はゆっくりと瞳を閉じる。

 「うん…確かに、兄上は度が過ぎてるとしか思えないし、あれくらいは…でも」

 「でも?」

 「あれが逆効果にならないとも限らないし…」

 「…そうですね。周瑜殿の溺愛振りには困ったものです…如何しましょうか…」

 の不安げな表情を間近で見ながら陸遜は何かを考え始めた。







 暫しの沈黙が続いた。

 陸遜の腕の中で目を閉じてまどろんでいた

 「そうだ!」

 と言う陸遜の上げた声でびくっと一瞬身体を震わせた。

 陸遜は「すみません」と言いながらの頭に口付けを落とすと

 「いい策、思い付きましたよ、

 子供が悪戯をする前に見せるような表情をに向けた。

 陸遜の言葉に身を起こす

 「策…?」

 「えぇ。…これなら周瑜殿も納得する筈です」

 「…大丈夫なの?」

 「…多分。 それには小喬殿の協力も必要になるのですが…」

 陸遜が顔をに向けると、彼女も瞳に陸遜と同じような色を湛えていた。

 「あ、それなら問題ないよ。私から言うし」

 「結構です。 それではこの策の内容についてですが…」

 誰も聞き耳を立てている筈はないのに、二人は顔を寄せ合い、ひそひそと話を始めた。

 悪戯っ子二人の企みは…果たして吉と出るか、凶と出るか…。













 「未だ、君達の仲を認めるわけにはいかんな」



 …やはり。



 周瑜の発した言葉に落胆の表情を浮かべる陸遜と

 ここは周瑜の自室。

 改めて話がしたい、と二人がこの部屋を訪れてから数刻が経つが、なかなかここから話が進まない。

 「どうしても駄目なの? …私、こんなにも伯言の事、愛してるのに…」

 「私だっての事を愛してます。勿論、一番大事に思っています」

 二人の熱い言葉でも周瑜の態度は変わらない。

 否、寧ろ苛立ちの様相を呈してきた。

 は陸遜の顔をちらりと見ると、彼は一瞬だけ目配せをした。



 そろそろ、ですね…。



 突然、はその場に立ち上がり、周瑜の顔を睨み付けると、捲し立てた。

 「兄上の馬鹿! 頑固者! 頭でっかち!」

 「…何だと!」

 周瑜も同じように立ち上がり、を見返す。

 二人の間に緊迫した空気が張り詰め始めた。







 数刻の間を置いて、それを見計らったようには立ち上がったまま腕組をすると

 「…これだから、この前みたいに伯言におちょくられるのよね」

 ね〜! と陸遜と視線を合わせて笑う。

 それに合わせて陸遜も微妙な笑顔を浮かべ、頷く。

 すると、周瑜の様子に明らかな変化が見えた。

 顔は上気し、身体全体がふるふる、と震え出した。

 そして、一瞬息を詰めると

 
「陸遜! 私の目の黒いうちは…妹は貴様にはやらん!」

 仁王立ちのまま声を荒げた。







 それを聴いた瞬間、と…今迄その場で息を殺して見ていた小喬は眼を合わせ……お互い頷いた。

 まずは

 涙を一杯に湛えた瞳で周瑜を睨みつけると、

 「兄上なんか…だいっっっっっ嫌い!!! もう顔も見たくない!」

 その場にしゃがみこみ、泣き出した(嘘泣きだが)。

 刹那、先程の威勢は何処へやら、周瑜はに近寄ろうとするが。

 次に小喬が最初は笑顔で…そしてそれを次第に怒りの表情に変えていきながら周瑜に近付くと

 「周瑜様〜♪ の気持ちを解ってやれないで…それでも『兄』って言えるのかな〜?」

 周瑜の首筋に抱きつく。

 そして……周瑜の身体は『キュッ』という音と共に白目を剥いて倒れた。



 嗚呼、哀れなる兄・周瑜…。












 「すまなかった…、陸遜…小喬」

 周瑜は床に正座し、仁王立ちで構える3人に向かって謝った。

 「最初から認めてあげればよかったんだよ〜。周瑜様、意地っ張りなんだもん」

 小喬は軽く頬を膨らませながら夫の頭を小突く。



 先日のやり取りで、小喬は周瑜本人から事情を聞いていた。

 両親から離れてる今、が頼れる人間は自分だけだと。

 同時に、両親からの将来を託されている、という責任も感じていたらしい。

 だから…陸遜と所帯を持つという事にも慎重になっていたのだと。



 「もう、いいよ…。兄上、今迄ありがとうね」

 が周瑜の前に座る。

 その笑顔には安堵、慈愛、感謝の気持ちが一杯に溢れていて、この場に居る他の3人の心にも伝わってくる。

 周瑜は伏せていた顔を上げると、陸遜に向かって

 「を…頼むぞ」

 と言った。

 その言葉を受けた陸遜は、姿勢を正して拱手すると一瞬だけにやり、と笑った。

 「はい! お任せください…兄上♪」

 「…君に『兄』と言われるには未だ早い!」

 「貴方が自ら認めたのですから…もう『兄』と言えるのではないですか?」

 「いや、未だだ。祝言を挙げるまでは…」







 またしても言い争いを始める二人を見ながらやれやれ、と手を上げると小喬。

 「男の気持ちなんて…わかんない」

 「解らなくていいのかもよ? ね、小喬」

 そう言葉を交わすと、声を上げて笑い出した。







 周瑜と陸遜。

 二人が完全に和解するまでは…まだまだ時間がかかりそうだ。





   fin.



 アホガキアトガキ



 思わぬ苦戦。
 私的に…周瑜とりっくん…意外に絡み辛い(苦笑)。
 とゆ〜わけで小喬嬢に出動命令(何

 策士同士の争いがどうなるか、私自身にも予測が出来ずに。
 結局キャラが一人歩き(てか暴走)した感じになりました。


 最後に、ここまでお付き合いくださってありがとうございました!



 2006.8.22     御巫飛鳥 拝



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