今日一日の仕事が終わり、小さな灯の下で女は道具の手入れを始める。
その脳内に、何度か聞いた男の声が響く。
――殿、此度も頼みましたぞ――
その声に、女は長めの髪をきつく結い直しながら小さく頷いた。
――女の、夜の仕事が始まる――
夜風に躍る影
ここは、街中の長屋。
その一角に、知る人ぞ知るという小間物屋がある。
それは店と言うには程遠く、陳列している商品もなければ客を出迎える人も居ない。
しかしその奥――作業場では今日も一人の女が忙しなく細工を作り続けていた。
彼女こそ、腕はいいと評判の細工職人――である。
「ちゃん、居るかしら?」
「はーい! いらっしゃい奥さん!」
店先から聞こえる婦人の声に、が道具を床に置いて明るく答えた。
顔中に浮かんだ汗を手拭いで拭きながら出迎えると、婦人はクスクスと上品な笑い声を上げる。
「そんなに汗だくになって………それでは嫁の貰い手がありませんよ」
「あたいはこれでおまんま食ってるんだ、誰かの嫁なんてこれっぽっちも考えちゃいないよ」
「若いのに偉いわね………ちゃん」
目の前で得意げに笑みを零すを見て、婦人は感心するように目を細めた。
は未だ若くて美しい。
そこいらに居る娘たちのように小袖を着て小奇麗にすれば、言い寄る男も少なくないだろう。
それでも彼女は亡き父の家業を継ぎ、日々あらゆる細工を作りつつ一人で生活をしている。
この娘の中にどれだけの意思が秘められているのかは、ただの常連客である婦人には解ろう筈もない。
だが、父の技を全て受け継いだの腕は確かだった。
「さてと――店仕舞いするかな」
少々凝りが酷くなった肩を回しつつ、が独り言を零す。
店先の萎びた様子とは裏腹に、今日も常連客や上客との取引があった。
これも父の代から培った人望のなせる業だろう。
しかしの表情には疲れた様子が微塵も感じられない。
寧ろ、これから仕事を始めるかのようなやる気を身体全体から醸し出している。
――そろそろ日が暮れる。
そう、これからがの 『もう一つの仕事』 の始まりなのだ――
は頭の中にある依頼内容を小さく反芻する。
此度の依頼人は町外れの長屋に住む一組の老夫婦。
彼らはと同じく小さな店を経営していたのだが、ある大問屋の差し金で全てを失ってしまったのだ。
それどころか、何かを掴んだ跡継ぎの息子も何者かに殺されている。
その後、相手が大問屋では手出しが出来ない、と依頼請負人に話が行ったようだ。
――今回の標的は、あの大問屋かい………反吐が出るね。
は頭取のいやらしい笑みを思い出し、表情を歪めた。
奴はにとって上客ではあったが、何かに付けを口説く。
自分の周りには女が吐いて捨てるほど居るのに、だ。
折角の上客だが、依頼ならば仕方がない。
は仕事着に着替えるべく部屋の奥へと踵を返す。
しかし――
「おいおい、ここはもう店締めかい? ちょいと早すぎねぇか?」
戸が開いたかと思えばそこからぬっと一人の大男が入って来た。
刹那、未だ全身入っていないにも関わらず、は間髪入れずに引き戸を勢いよく閉める。
がたん!
「客が居なくなったら店を閉める、当然だろ」
「うっ………つつ………そりゃないぜぇ………」
戸に挟まれ、情けない声を出す男。
それでも顔には笑みを浮かべ、腕を組んだ女のしかめっ面を見下ろす。
どうやら、こういったやり取りは何時もの事らしい。
「何でアンタはそんなに勘が鋭いのかねぇ」
「ん? ………おっと、ここから先は言わねぇ方がいいか」
女の様子を見て、男は言いかけた言葉を飲み込む。
流石に往来近いここでは話が筒抜けになってしまう。
は相手の機転を利かせた態度を快く思ったのか、ここで漸く手招きをしつつ笑顔を見せた。
「察しがいいね、慶次。 ………入んな」
男の名は前田慶次。
風来坊としてこの街でも名高い、天下御免の傾き者である。
この乱世にして戦に出ているよりも遊んでいる方が多いのではないかと噂されるところは流石風来坊。
しかしその彼を、特に贔屓にしているのがこの。
上客としてもそうだが、あるきっかけで慶次は彼女の全てを知るただ一人の人物となったのだ。
そう、あの日から――
今宵は月明かりも弱い。
何処ぞから枯れ草を連れて来た風が、一際大きな音を響かせる。
夜の帳がすっかり下りた宵――
屋根の上から一つの影が動く。
口に小さな得物を咥えるそれは、音も立てずにひらりと屋根から屋根へと飛び移っていた。
(確か、この辺りだったね)
一際立派な屋根の上にたどり着くと、は心の中で呟いた。
昼間は賑やかな街中も、夜が遅くなればひっそりと息を潜める。
贅沢に毎晩宴が催されているこの場所も、流石に今宵は早めに寝静まるらしいと何処ぞから情報を得ていたようだ。
彼女は下の様子を注意深く覗いながらすっと地に降り立った。
そして直ぐに敷地内と手にする小さな図面を照らし合わせながら目標を探す。
すると――
中庭の大きな石灯籠の裏――人目につかない場所に、あっさりとそれはあった。
身の丈にも満たない、犬小屋のような建物。
その扉には不相応な南京錠がしっかりと掛けられてある。
(こんなの、あたいにしたら『見付けてくれ』と言わんがばかりだね)
やれやれとかぶりを振りながら口に咥えていた小さな得物を手に取り、南京錠を開けにかかる。
手先が器用なのか、それは難なくがちゃりと音を立てて外れる。
これでは鍵も形無しだ。
しかし、事は慎重に運ばなければならない。
は他に罠がないか確かめるべく身を低くしながら周りを覗った。
刹那――
「鮮やかな手捌きだねぇ、盗っ人さんよ」
先程まで誰も居ないと思っていた筈の場に、男の声が聞こえた。
住人を起こしてはいけないと思ったのだろう、その声は極々小さい。
しかし、凄みのある声はの背筋を凍らせるには充分であった。
――こりゃ、まいったね。
は小さく舌打ちをする。
この屋敷に用心棒が存在する事は依頼請負人から聞いてはいたが、こんな時間に見回りをしているとは思わなかった。
しかも、声を聞いただけでこいつは強い、と本能が教えている。
このまま逃げようにも簡単には逃がしてくれるような相手だと思えない。
さぁ、どうするか――?
は顔を見られないように覆面で隠すと、息を潜めて逃げる時機を覗う。
すると――
「あんた………女、なのか?」
ゆるりと近付いて来た男が驚きの声を上げた。
よく見てみると、影の丸みを帯びた身体は小さく、線が細い。
黒い装束に身を包んでいても、この特徴だけで影が女だという事が容易に解る。
男は相手が女だと解った刹那、クク、と小さく笑った。
「これなら簡単に捕える事が出来そうだ。 さぁ、観念しな」
「………」
口元に笑みを浮かべ、男が更に近付く。
しかし、はそれでも動かなかった――いや、動けなかった。
灯篭の僅かな明かりで浮かぶ、男の姿に見覚えがあったのだ。
この、男は………
つい最近、自分の店によく来るようになった男――前田慶次。
見た目は遊び人そのものだが、彼の武勇は世間にも知れ渡っている。
「まさかアンタがこの屋敷の用心棒として雇われていた、なんてね………」
これは潮時だね、とは自嘲的に笑う。
今迄、似たような窮地に立たされながらも見事に逃げ果せた事が幾度もあったが、今回は相手が悪い。
面も割れている、とあればただでは済みそうもないだろう。
「あーもう、捕えるなりぶった斬るなり、好きにしな」
いよいよは観念した。
その場にどっかりと胡坐をかき、覆面を外して慶次を見る。
何処か清々しいの顔を見て、慶次は一瞬目を剥いた。
「あんた、じゃねぇか………」
「意外なところで会ったね。 まぁ、これで最期だけどさ」
驚く慶次を他所に「苦労ばかりだったけど、それなりに楽しめた人生だったよ」と続ける。
その潔い態度に心から感心したのだろう、次の瞬間に慶次は声を押し殺して笑う。
そしての耳元へ顔を寄せると、呟くように云った。
「勘違いするな、そもそも俺はここに雇われてねぇよ」
「………へ?」
今度はの方が驚く番だった。
この時分、屋敷の中をうろついているといえば用心棒だと決まっているようなものだ。
にも関わらず、慶次は用心棒ではないと云う。
一体、どういう事なのか――?
すると、不得要領とするの心中を察した慶次が自ら種明かしをする。
「月を愛でながら宿へ向かってたら、屋根を伝って飛び跳ねる影が見えたのさ」
「それがあたいだった、って事かい?」
「あぁ。 だから………あんたを捕える気もぶった斬る気もねぇさ。 それに――」
――ここの主には、前から黒い噂が立ってるって言うじゃねぇか。
「はは、流石は風来坊。 そこまで知ってるなんてね」
は慶次の言葉に軽く安堵の息を吐く。
しかし命の保障は出来ても、この仕事はもう潮時だと思った。
この仕事の事は誰にも知られてはならない。
――それが、『影』の掟――
「さぁ、帰るとするか」
「………何もしないで帰るのかぃ?」
「まぁね」
――誰かにばれちまったらもう店仕舞いさ。
これからは、しがない細工職人ってだけでおまんま食って往くさ――
立ち上がり、小屋の南京錠をかけ直すべく手を伸ばす。
刹那、その手に慶次の手が重なった。
「止めるこたぁねぇよ、。 何なら俺が手伝ってやる」
「………何言ってるんだい慶次、あたいの仕事はもう終わったんだよ」
「なら、俺は何も見てない。 ただ、誰かの『仕事』を手伝っただけ………これでどうだぃ?」
それは思いがけない提案だった。
を捕え、屋敷の主の元へ連れて行けば難なくそれなりの報酬が貰えるだろう。
それを、危険を冒してまでの手助けをしようとする。
慶次の心意気には半信半疑だ。
しかしこのまま仕事をしないで帰っても、正体がばれたと知られても自分の末路は同じ。
ならば――
「今はアンタの言葉を信じるしかないね………解ったよ慶次」
目の前の男に笑みを向けると、は仕事を再開した。
――これが最後になるかも知れない、『仕事』を――
あの一件から、と慶次のおかしな関係は始まった。
お節介なのか何なのか、慶次は時に情報屋として、また時には相棒としての『仕事』を手伝っている。
幸い、この事実は依頼請負人をはじめとする『その筋』の人間には知られていない。
だからこそ、今でもがこの仕事を続けられているのだが。
「――で、今度の仕事は何だぃ? 標的の弱みを握る事か、それとも暗殺か――」
「ちょっ、物騒な事を簡単に言わないでおくれよ………今回は失脚が狙いさ」
はこう言うと卓に一枚の図面を広げた。
そこにはある屋敷の見取り図と見張りの配置が書かれている。
その一角――警護が一層厳重になっている場所に、印が付けられているのを慶次は見逃さなかった。
「ここに、何があるんだぃ?」
「依頼人が失ったものの全てさ………今回、あたいは悪事の中身をしっかり戴いてから、わざと向こうさんに見付かる」
「で?」
「あとは集まった野次馬のど真ん中にそれをぶわぁ〜っとブチ撒けてトンズラ、って寸法さ」
慌てふためくヤツらの顔を拝むのが今から楽しみだよ、とニヤニヤ笑う。
それを見て、目の前の男も同じような笑顔を見せる。
「面白いねぇ………じゃ、俺はその野次馬の一人にでもなってやるか」
「はは、精々大袈裟に騒いでおくれよ」
「あぁ。 、あんたが上手く逃げられるようにな」
慶次の言葉には大きく頷く。
はじめは余計な事を、と思っていたのだがその気持ちは今のにはない。
何故なら――
――今では彼に大きな借りがある以上に、培われた信頼関係があるのだから――
――月明かりの淡い宵――
――今宵も夜風に影、躍る――
劇終。
アトガキ
ども、此度は本格戦国夢第5弾の投下となります。
そして、当サイト戦国ヒロイン2人目の登場でございまするーv
彼女は所謂『仕事人』。
でも、某時代劇のような暗殺集団ではなく、ちょっと明るい感じの『世直し娘』です。
忍びではない『影』の設定ネタを情報屋からいただいて………
そのネタを元に、自己紹介的なお話を書いてみました。
この設定、慶次がお相手の時にしか出ないと思いますが(汗
それでも特殊な設定なので楽しく書かせていただきました、はい。
普段はごくフツー?の町娘です。
またしても個性的な娘が登場しましたが………
今後とも、可愛がってくださると嬉しいです!
最後に、ここまで読んでくださった皆様とネタ提供主の情報屋に――
心から厚く、厚く御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
2010.09.01 御巫飛鳥 拝
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