――戦場に一人の武士が居た。
彼の持つ刃が強い光を放ち、敵兵を次々に薙ぎ斃していく。
切っ先に籠められる力は彼の想いを映したものか、それとも心に棲む『神』の成せる業なのか――
その勢いはさながら羅刹の如く。
彼には兵など要らないと思わせる程に、放つ一撃には誰も寄せ付けない何かが感じられた。
恐れおののく兵に雄々しく立ちはだかる人馬――
そこに居るのは、紛れもない 『軍神』 だった――
憂い色の調べ
――今宵はもう眠れない。
静寂に支配される、真暗な部屋の中。
は大きく息を吐きながらゆるりと己の身に掛かっている布団を剥いだ。
今しがた見た夢のおかげで神経が昂ってしまったらしい。
やれやれとかぶりを振りながら起き上がり、窓へと足を向ける。
外を見れば、空は暗黒に包まれている。
今宵は朔らしく――星の瞬きはおろか、月明かりすらこの地へ届く事はない。
この前の戦を夢で見るとは、と一人呟く。
静かな夜は嫌いではない、寧ろ何時もは心地いいとまで感じる静寂が今は――
――とても怖い。
誰かに会いたい、と思った。
言葉はなくともいい――ただ傍に居て欲しい。
は不意に肌寒さを感じ、己の肩をぎゅっと抱きしめる。
と、その時――
の想いを見透かすかのような美しい調べが、幽かに届いた――。
外に出て空に溶け入りそうな調べを必死に辿ると、程なく神社へと続く長い石段が瞳に映った。
その中腹辺り――石段から外れた片隅に小さな祠がある。
何時如何なる原因で出来たのかは定かではないが、それは常に神社を訪れる人々を見据えるかのようにぽっかりと口を開けていた。
普段から人を寄せ付けない、まるで聖域かと思わせるような雰囲気――
だが、今宵はそこからうすらぼんやりとした灯りが漏れている。
再び注意深く耳を傾けると、どうやら琵琶の音の発生源はあそこにあるらしい。
思いも寄らない場所と距離感に疑問を感じながら石段を登ると、祠の中に見知った人の後姿を捉えた。
こちらに背を向けて胡坐をかき、琵琶を奏でているその正体は――顔を見ずとも明らかだ。
軍神と謳われる武士――上杉謙信。
これは単なる偶然なのかも知れないが、にしてみれば夢の続きかと思わせる。
父の仕える主自らが破竹の勢いで進軍し、勝利した先の戦――そのままの夢を見た直後なのだから無理もない。
それ故かはたまた他の理由があるのか、はそれ以上近付く事も出来ずただ静かに琵琶の音を聞いていた。
――なんと、憂いを帯びた音色なのでしょう。
はほぅ、と溜息を零しながら小さく呟いた。
美しい中に垣間見える乱世への憂い、そして堕ち逝く人の命を憂うような調べ。
それは、戦で垣間見る謙信からは程遠い。
が初めて目の当たりにする彼の姿と琵琶の音色に魅入られそうな感覚に陥った刹那――
「其処に居るのは――…殿か?」
不意に琵琶の音が止み、祠から本人の声が響いた。
恐る恐る閉じていた目を開けると、祠から漏れる影が緩やかに動く。
「そのような処で何をしておる、殿?」
「いっいえ………今しがた部屋の窓を開けますれば琵琶の音が聞こえてまいりました故――」
「ほぅ、我の琵琶が殿の耳にまで届いたか」
「あっ、あの…まぁ、何となく、なのですが………」
少々戸惑いつつ答えるに小さくそうか、とだけ告げて再び琵琶を奏で始める謙信。
正直なところ、にとってはこの光景が物凄く意外だった。
戦場で見る彼、そして父から幾度となく聞かされる彼の人となり――それは威厳のある武士そのもの。
それなのに――
妙に肉感が漂い始める彼の姿に己の心臓がとくりと鳴る。
以前から抱いていた想いが表に出て来るようで、刹那は瞳が釘付けになりながらも両の手で頬を覆った。
――近付けない。
人の気配を直ぐに察する程の敏感な謙信公に、今近付いたらこの想いが悟られてしまう。
いや、それだけが理由ではないのだが。
それは、以前より父から常に言われている事。
「謙信公は仏に仕えし御身故、一生涯妻を娶らないというお話だ。それ故、女人を傍に置かない」
ならば尚更だ。
だけど本当は近付きたい――傍で謙信公の奏でる美しい琵琶の音を聞いていたいのに。
様々な気持ちに翻弄され、は一体どうしたらいいのか分からなくなる。
しかし――
「その辺りの段には苔が生しておる」
「………はぃ!?」
謙信の口から出た思いもかけない言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。
今のはどういった意味なのでしょう?
足元に気をつけろと、謙信公の仰る意味は解るのですが………。
――っ、もしや………!?
刹那、一つの仮説がの頭を過ぎる。
いやしかし、彼は女人を寄せ付けない筈だ――特に夜は。
ならば何故――
しかし、心の問いの答えは直ぐに本人の口より明らかとなった。
眉一つ動かさずにを見据えると、謙信は言葉を続ける。
「足元は暗い。 重々用心し、こちらに来るがよい――殿」
「え、あの、謙信公? ………確か貴方様は女人を傍に置かぬと父上から聞いていますれば――」
「構わぬ」
偶にはこのような宵も悪くはなかろう。
これは謙信の気紛れなのか、はたまた――
彼の心の内が解らずに戸惑いながらもは踏み出す一歩一歩を確かめるように謙信に近付く。
それに従い、次第に大きくなっていく琵琶の音。
そして、音色の中に響く謙信公の憂い――
程なく、はついに謙信の傍へと辿り着いた。
少し離れた石段に腰を掛け、琵琶を奏でる彼の背中を先程よりも間近に捉える。
しかし戦場で見る厳しさや奥底から滲み出る羅刹の様相は感じられない。
ここに居るのは――一人の、男だった。
「時に」
「はい」
「今宵は我も眠れぬ――暫し昔話に付き合ってはくれぬか」
高鳴る鼓動を意識しているに、突如かかる謙信の言葉。
それはにしてみればまたしても意外な事で、先程から忙しない心の臓が更なる驚きにびくっと跳ね上がる。
「えっ!? は、はい………あ、あの謙信公? 昔話にございまするか!?」
「あぁ、我の昔話だ――そのように慌てなくとも、そなたが嫌ならば止そう」
「いえっ! 嫌だなどととんでもございませぬ謙信公………そのお話、このに是非聞かせてくださりませ」
「相解った。 ならば話そう――」
の心の内を察してか否か――謙信は短く答えると今一度琵琶を奏で始める。
そして音色に更なる憂いを乗せながら………ひとつひとつ思い出すように言葉を紡いでいった。
――かつて、我には対外的には許されぬ――だが一生涯の伴侶、と心に決めた女人が居った。
歳はそう――、そなたと同じ年頃だったか。
その頃は我も若く、誰が何と云おうとあやつを護ると天に誓った。
だが――
戦は虚しくも命運とあやつの命をいとも簡単に奪っていきおった。
我を庇い、敵の刃に斃れるあやつの顔は――我が今迄見た中で一番美しかった。
――皮肉なものだな。
それから幾年もの時が流れたが、我はあやつを忘れた事がない。
毘沙門天に仕える身ながらも戦を続け――そして時折ここに来ては、あやつが好きであったこの琵琶を鳴らす。
だが、これは弔いではない。
――早く乱世が終わり、このような想いをする者が居なくなる事を願っておるのだ――
「――つまらぬ昔話をしてしまったな、すまない」
「いいえ謙信公、そのようなお話をしてくださって、私はとても嬉しゅうございます」
「――そうか。 ならば今暫くそこで我の琵琶を聴いて行くがよい」
「はい、ありがとうございます謙信公」
話が終わり、再び琵琶の音のみがこの場を支配した。
ぼんやりと空を彩る月は位置を変えたが、祠から続く影は今はもう僅かにしか動かない。
琵琶の音の美しさと謙信の傍に居られる嬉しさを感じると同時に、の心には何とも言えない想いが去来している。
それは――
祠と石段に居る二人の微妙な距離が物語っていた。
――謙信公………貴方様は今、これを弔いではないと仰いました。
ですが、私にはとてもそうは聞こえませぬ。
この憂い色を帯びた琵琶の音には、貴方様の想いがあまりにも詰まり過ぎていて――
今は女人を近付かせない謙信公も、何時かは――
これまで心の底に淡い夢を描いていた。
しかし、今宵の昔語りで謙信の胸の内を察してしまった。
大きく迫り来る想いに、膝の上に乗せていた己の拳をぎゅっと握り締める。
――この方が一度誓った想いは、もう覆せないでしょう。
それでも、私は――
一つの確かな想いを胸に抱くその瞳には、うっすらと光るものが浮かんでいた――
次の日――
この地から一人の女が姿を消しそして――我が軍に一人の青年が仕官して来た。
様々な手続きの後漸く目通りが叶い、青年は今謙信の目の前にひれ伏している。
「我は上杉謙信。 苦しゅうない、面を上げよ」
上座に悠然と構える男が口を開き、それに呼応するように青年のきりりと引き締まった顔が上がる。
刹那――
「なっ――」
僅かな声を上げたきり、言葉を詰まらせる主。
その顔には、衛兵が今迄見た事もないような表情が現れていた――
劇終。
アトガキ
ども、サプライズ飛鳥です(←何気にこの名乗りが気に入っている模様
今回は自分の中でかなりの時間熟成?させたネタをアップいたします。
お相手さんは越後の龍――謙信公。
以前行った某博物館にて謙信公の琵琶の話を聞き、この話を書きたいと思い至りました。
しかし、ヒロインちゃんが途中から完全に一人歩きしましたね。
彼の独特な雰囲気に、ヒロインがどう絡むか…私自身も最後まで解らずに(をい!)楽しんで書けました。
謙信公同様、独特の雰囲気を持つお話となりましたが如何でしたか?
少しでも楽しんでくだされば本望にございますwww
ここまでお読みくださってありがとうございました。
そして、このネタに素晴らしい演出を加えてくれた情報屋にも多大な感謝を!
2009.06.07 飛鳥 拝
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