花下(はなもと)の誓い
遠くの山の雪も消え始め――
中庭の桜は最早満開、窓の外からは春の息吹と共に花の香りが漂う。
色鮮やかなこの季節は、人々の心も否応なしに高揚するというもの。
そんな中――
一際大きな桜の木の下に、一人の女が居た。
咲き誇る花を見上げる顔から零れる笑みはとても穏やかで、その場に居る人々の心をも潤す程の力を持っていた。
しかし、彼女の背に携えられているのは一振りの薙刀。
その刃より放たれる光は、周りに与える雰囲気にはとても相応しくないものだった。
「」
目を細め、桜に見入る彼女の背後から不意にかかる聞き慣れた声。
それに反応し、直ぐに声の方へ向き直ると女はその場に跪いた。
「は、はここに」
「そんなに畏まらなくてもいいよ」
声の主はこう言うと、跪くの傍らに立つ。
得物でもあった軍配を手に悠然と構える姿はまさに城主そのもの。
しかし、咲き誇る桜との姿を交互に見遣るその顔はとても優しいものだ。
「うむ、綺麗に咲いたのぉ」
「はい、樹齢を重ねているにも関わらずこの美しさ………まるでお館様のようです」
「はっは。 、上手い事言っても何も出ないよ」
の一言にお館様と言われた男は照れ笑いを浮かべる。
その何時もと変わらない笑顔にの顔にも安堵の笑みが零れた。
――今日は、お身体の具合も良さそうですね。
そう、の主――武田信玄は西上作戦の後、持病が悪化して床に臥せた。
そして、甲斐の国に撤退する最中――
「よいか、わしの死は三年隠すんじゃよ」
集められた配下の者達に対して一つだけ言い残し、一線を退いた。
武士にとって病は致命的だ。
ましてや軍を統べる者が病だと敵にだけは決して知られてはいけない。
そこで信玄が思い立った策が、敵に知られぬまま自ら一線を退く事であった。
「、おことは覚えとるかね? わしとおことが始めて出会ったのも――」
「えぇ………このように桜の花びらが舞い散る季節でした」
「はっは、懐かしいのぉ」
「はい、あれは私にとって忘れられない…いえ、忘れてはならない事――」
二人、揃って瞳を閉じて懐古の思いに耽る。
その笑顔は、あの時に交わしたものと同じ穏やかさに満ちていた――
春の暖かい日差しの下――
桜色の絨毯の上で、今日も子供達が遊んでいる。
子供達の楽しそうな笑顔を見ていると、今が戦乱の世だとはとても思えない。
それだけ、この地は大きな力によって護られていた。
そんな中――
「せいっ! やぁっ!」
子供達の声も届かない広い空き地で少女は一人、身の丈以上の長い棒を振るっていた。
大人というには未だ早いその姿は、一見棒切れを振り回して遊んでいるようだ。
しかし少女の顔は険しく、その瞳には大の大人も恐れ戦きそうな強い光を湛えている。
――もっと、もっと強くならなきゃ――
少女の心にある想いはただ一つ。
強くならなければ、あいつらに傷の一つも付けられない。
――父ちゃんと母ちゃんを殺した、あいつらに――
かつてこの村は一度だけ賊の襲撃に遭っていた。
未だ大きな力に護られるに至っていなかった時の事である。
その際、この村の護衛であった父と自分を庇った母が賊の刃にかかって息絶えた。
この時の事を思い出す度、少女の心には復讐の念が燃え盛る。
――たくさんの命を奪って、それでものうのうと生きている奴ら。
あたしは、ぜったいに、ゆるさない――
今はこの地も平穏な空気に包まれ、少女も心優しい村長に引き取られて大きく成長した。
しかし――
心に芽生えた復讐の想いは、少女から子供らしさを少しばかり失わせたのだった。
空が夕闇に支配され始め、子供達が母親の手に引かれつつ帰って行く中――
少女は未だに棒を振り回し続けていた。
闇雲に振り回すだけでは一向に上手くならないだろう。
加えて、一人ではどれだけ強くなったかも解らない。
それでも少女は棒を振るうのを止めなかった。
父の鍛錬から見よう見まねで覚えた技で、奴らを倒すために。
すると――
「嬢ちゃん」
背後から急に声を掛けられ、少女の手が止まった。
この人気のない広い空き地――嬢ちゃんと言えば自分の事だと直ぐに解る。
滅多に声を掛けられないこの場所で呼び止められた事に驚き、振り向けば一人の男が自分を見つめていた。
仕立てのいい服を着ているところを見ると身分の高い人のようだが、男の瞳はあまりに穏やかだ。
少女は訝しげに思いながらも男に近付き、言葉を返す。
「おじちゃん、あたしに何か用?」
「はっはっは、おじちゃん、とはしてやられたのぉ」
男は少女の問いには答えず、高笑いをしつつ少女の髪を撫でる。
そして、少女の持つ棒に目をやって感心するように目を細めた。
「嬢ちゃん、ひょっとしてその棒はおことの得物かね?」
「うん………今、薙刀の稽古してたの。 でも、薙刀はまだ危ないからって村長がこれをくれたんだ」
「はっは、そうかそうか………でも、嬢ちゃんは小さいのによく頑張るのぉ」
「うん。 だって、うーんと強くなりたいんだもん」
少女はこう言うと、空き地の片隅にある大きな石にひょいと飛び乗った。
その身の軽さに男は更に感心したようにそれは凄いのぉ、と顔を綻ばせる。
優しく、人を引きつけるような笑み。
男の表情に危険なものを感じなかったのか、少女はここで漸く笑顔を見せた。
「ねぇおじちゃん………誰?」
「ん?わしか? ………そうか、未だ名乗ってなかったのぉ」
男は少女の問いかけに躊躇もせずわしは武田信玄じゃ、と名乗った。
この名を聞き、少女ははっと息を呑む。
目の前の男はあの時――村が襲われた際、合戦中であったにも関わらず助けに飛んで来てくれた軍の総大将。
惜しくも賊の頭をはじめ力のあった数名は取り逃したが、軍のおかげで村の壊滅は避けられた。
よって、この男は少女の命の恩人だと言っても間違いはないのだ。
刹那、少女はその場に膝をつき、頭を垂れる。
「武田信玄様とは知らず、失礼な事を――すみません」
「はっは、やっぱり言わない方がよかったかね」
「いいえ………ありがとうございます。 あの時、お礼を言いそびれてしまったので」
「そんなに畏まらなくてもいいよ。 今は戦もないし子供は子供らしく、じゃよ」
「子供らしく?」
「うむ、おことも未だ遊びたい盛りじゃろ? ………そうじゃ、わしが遊び相手になっちゃおうかね」
「………え?」
「そうじゃのぉ、何がいいかの? かくれんぼ、鬼ごっこ………たくさんありすぎて迷うのぉ」
「いやあの、信玄様――」
「わしが相手だからって遠慮しなくてもいいよ。 丁度わしも久し振りに子供時代に帰りたかったところじゃ」
男――信玄はそう言うと少女の手を引き、立ち上がらせる。
そして――
「ここは戦場でもないからおじちゃん、で構わないよ嬢ちゃん。 さぁ、何をして遊ぼうかね」
少女に視線をしっかりと合わせ、本日一番の笑顔を見せた。
一時の後――
辺りは夕闇にすっかり包まれ、互いの顔も近付かなければよく解らない時分になった。
楽しい時間は早く過ぎるもの。
それを久し振りに感じたのか、少女は楽しげな笑みを顔全体に浮かべて信玄に頭を下げる。
「おじちゃん、今日はどうもありがとう! とっても楽しかった!」
「そうかね、それはよかった。 わしも大満足じゃよ」
「でも、そろそろ村長が心配しちゃうから帰るね」
改めてありがとうと丁寧にお辞儀をし、踵を返す少女。
しかし、その腕を掴んで少女の歩みを止めたのは信玄の大きな手だった。
「嬢ちゃん、毎日頑張るのはいいがの………その腕に憎しみを込めてはいけないよ」
「………え!?」
「親を殺されて、賊が憎いのは解る。 でも、それで復讐をしてもおことのお父さんとお母さんは喜ばんよ」
「………おじちゃん、何でそれを――」
「わしはおことの事を全部知っとるよ、」
信玄の話では――
この村を賊から救った後、村長からの話を何度も聞かされたらしい。
復讐の念に駆られるが何とも不憫だ、と。
そして「お館様であれば、彼女の心も救えるかも知れない」と一つの提案を信玄に申し出たという。
それは――
――戦う意思が『憎しみ』に向かわないよう、器の深い信玄の下で過ごさせる事――
「村長が、そんなこと言ってたの? おじちゃん」
「そうじゃ。 憎しみからは何も生まれない………新しい憎しみが生まれるだけじゃよ」
「解ってるよ。 でも………」
は大人ではないが、子供でもない。
復讐を成し遂げたとしても両親が帰って来る筈もない――それは重々承知している。
しかし、こうでもしなければ散って行った両親の魂も浮かばれない、とは思っていた。
それを目の前の男は理解した上で自分を諭して来る。
――でも、あたしにはどうしたらいいかわかんない。
怒りの矛先を何処に向ければいいのか。
これから先、何を力に生きて行けばいいのか――?
「それはこれから考えるといいよ、。 おことは未だ大人にもなってないんじゃからな」
少女の心の声を聞き取ったのか、信玄はこう答えると再びの髪を優しく撫でた。
暖かく、大きな手。
刹那、かつて同じようにしてくれた父の手の温もりを思い出し、の瞳に涙が浮かぶ。
「おじちゃんの手、とってもあったかい………お父ちゃんみたいだ」
「そうかそうか………おことが良ければ、これからわしの事をお父ちゃんだと思ってもいいよ」
「………ほんと?」
「うんうん、本当じゃ。 その代わり、これからは奴らに復讐するんだとか考えちゃ駄目じゃよ」
「うん! これからは………えっと、おじちゃんのために………うーんちょっと違うなぁ………あ、みんなのために頑張る!」
「はっはっは! そうじゃ、その意気じゃ!」
自分の涙を袖で拭き、満面の笑顔で信玄を見つめる。
その瞳には、今までと何処か違う決意の色が、燦然と光っていた――。
「――あの時、お館様と会わなければ今の私はありませんでした」
思い出話を終え、は信玄に向けて改めて頭を垂れる。
長い時を経た今でもの強くなりたいという想いは変わらない。
しかし、その心には最早復讐の念はなかった。
――もう二度と、誰も悲しい思いをしないように。
憎しみの連鎖を、生み出さないように――
「今日は気分も良い――これからちょっとに付き合ってもらおうかね、あの時のように」
「程ほどになら。 それでは、代わりに………偶には私も、お館様の事をおじちゃん、と呼ばせていただきますね」
「はっはっは! それは凄く恥ずかしいのぉ!」
の冗談めかした言葉に二人、声を上げて笑う。
その声はあの時と同じく、楽しげに桜舞う空へと響き渡った――。
――これからは、おじちゃん………うーん違うなぁ………あ、みんなのために頑張る!――
終
アトガキ
ども、花粉症容疑者である飛鳥です(をいをい
此度は春らしく、桜満開なお話を書かせていただきました。
ちょっと切なく、それでいて暖かい。
この時代にはこんな話が数多くあったでしょう。
戦国時代のちょっとした一幕を描いたつもりですが如何でしたか?
お館様の一件をちょいと捏造してしまいましたが、いい感じに書けたように思います。
そして――
コチラの話は恐れ多いながらお館様、そしてお館様の中の人である故・郷里さんに捧げます。
激闘の一生を終え、どうか安らかにお休みいただけるよう――
最後に、ここまで読んでくださった皆様と執筆に協力してくれた情報屋に――
心から厚く、厚く御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
2010.04.19 御巫飛鳥 拝
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