壁を越えて










 この乱世では、平穏な日々が長くは続かない。
 戦もなく安堵する時が訪れても………この地の何処かでは目の覚めるような紅が迸っている。
 何時になったら、誰もが心豊かに過ごせるようになるんだろう?
 そう思いながらは愛用の得物を手に天を仰いだ。



 ――何処までも広がる、空の青――



 澄んだ空気は、目まぐるしく過ぎていく時の流れを緩やかに感じさせる何かを持っているのかも知れない。
 先程の鍛錬によって張り詰めていた心がすぅっと落ち着いていくように感じる。
 は、それを確かめるように天を仰いだまま深く息を吸い込んだ。
 すると――



 「これは随分と気持ちがよさそうだな。 …鍛錬は終わったのか? よ」



 落葉を踏みしめる音と共に張りのある声が背中に響いた。
 刹那、開放的だった身体が一瞬びくっと震え、僅かに強張る。
 「は、はい殿。 ついさっき終わって………ここで少し休んでました」
 「そうか…突然話しかけてすまなかったな」
 「いえっ…」
 曹操から綴られる侘びの言葉に、軽い答えしか返せない
 その心の中に棲むは………殿への敬愛と、ほんの少しの恐怖。



 にとってこの君主との間には、どうしても超えられない何かが存在していた。













 あの日――



 自分の居た村落が襲われ、一人ぼっちになったは…ここ曹魏の将兵に助けられ、軍へと仕官した。
 拾ったとも言うべきこの命を、無駄にしないために。
 それから数日の間はがむしゃらに日々の鍛錬や医師の知識を学ぶ事に時間を費やしていた。
 そして、漸く心に余裕の出来た日――曹魏の君主と初めて顔を合わせたのだった――。







 「、この先に殿が居る。 …くれぐれも粗相のないようにな」
 「了解!」



 緊張の面持ちで念を押す隣の兵とは対照的に、満面の笑顔で返す
 その表情からは彼女の人となりが窺える。
 持ち前の明るさ、前向きな姿勢、そして心にある確固たる意志。
 それが、見た目小さく見える彼女の身体を大きく見せていた。

 「まぁ、お前なら殿と対等に話が出来そうだな」
 自分とは違い、緊張の『き』の字すら見せないに連れの兵が苦笑を浮かべながら盛大な溜息を吐く。



 その彼女の視線は、既に扉の向こうに居る君主へと向けられていた――。







 しかし、の威勢のよさはここまでだった。
 曹魏の君主が座る玉座に近付く一歩毎に強くなっていく威圧感。
 それは、今迄――そう、村を荒らした山賊から感じたものよりも強く…に抗い難い恐怖を植えつけていく。



 この人は、今迄どれだけの人を殺して来たんだろう………?



 刹那、昨日のように思い出される惨劇。
 山賊の刃にかかる村の仲間…あの時感じた戦慄に近いものがの心に襲い掛かり、吐き気を誘った。
 喉元を押さえ、必死にこみ上げてくるものを堪える。
 すると、首を垂れたきり動かないで居るに低い男の声がかかった。



 「おぬしがあの村ただ一人の生き残りか、よ」
 「は、はい」
 曹操の言葉に返事を返すのもままならない。
 今はただ、この場から直ぐにでも立ち去りたいと思うばかりだった。
 しかし、君主はそれを知ってか知らぬか………更なる言葉をに投げつける。
 「おぬしは何故、ここへ来た?」
 「そ、それは…――っ!」
 は驚いた。
 今迄玉座に居た筈の曹操が何時の間にか傍にまで近付き、事もあろうか自分の肩に手を添えているではないか。
 迫り来る恐怖に抗いながら恐る恐る顔を上げると、目の前の君主は…玉座から自分を見下ろしていた時と雰囲気が違い、口元からは僅かな笑みすら零れている。
 それはこちらに警戒させまいと自らが威圧感を封じているようにも見えた。
 相手の様子を見ながら自在に自分を操る男、曹操。
 彼女はその中に君主の君主たる所以を感じ、こみ上げていた吐き気も忘れて呆けた表情を曹操に向ける。
 「あ、あのっ――」
 「方々から話は聞いておる。 しかしあれだけ辛い目に遭いながら、何故おぬしは軍へと身を投じるのだ?」
 「それは――」



 ボクの心の中には、確かな答えがある。
 だけど…
 今迄たくさんの苦悩と戦ってきた君主にとって、ボクの想いはどれだけの重さを持っているんだろう――?



 言葉の続きが上手く紡げないと、娘の言葉を待つ曹操。
 二人の間には緊張感がぴんと張り詰め、暫し重い空気に包まれる。
 しかし――



 「己の信念は、己にしか計り得ぬ」



 刹那、曹操のこの言葉では心にある確かな答えが形になっていくような気がした。
 意を決したようにひとつ大きく頷き、再び顔を上げる。
 その表情には、最早一糸の乱れもない。
 の様子を傍で見ていた曹操は、きりりと引き締まった表情を確かめるように一瞥すると、すっと玉座へと踵を返した。







 「改めておぬしに訊こう。 …何故、我が軍へ来たのだ?」
 玉座に身を沈めて居住まいを正すと、曹操は再び口を開いた。
 今やっと絡み合う二つの視線。
 は心の底で未だ燻る恐怖を振り払うかの如く拳を握り締めながら君主の顔を見据えると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
 「ボクは…今あるこの命を無駄にしたくなかった、それだけです」
 「ほぅ。 ならば、おぬしはその選択が命を削る事になっても構わないと申すか」
 「…はっはい、後悔はしません! これがボクの信念…ですから」
 曹操の畳み掛けるような問いに必死に返す
 しかしその決意は揺るがず、瞳は逸らす事なく真っ直ぐと君主に向けられていた。













 それは…依然君主に畏怖を抱いていた、とある日の夕暮れの事――



 は視界いっぱい広がる光景に暫し呆気に取られていた。



 普段の君主からは到底想像もつかない姿――



 曹操は、小さな身体を大きく動かしながらじゃれつく仔猫と共に居た。
 足元に擦り寄る猫の頭を撫でる彼の表情は何処か慈愛に満ちている。
 ある意味異様な光景に誘われ、の足は知らず知らずのうちに曹操の方へと向かっていた。





 「…可愛い仔猫ですね、殿」
 「うむ。 …以前、何処からか迷い込んで来たのだ」
 緊張の面持ちで話しかけるに、顔を仔猫に向けたまま答える曹操。
 刹那、その口元から慈愛とは違う笑みが零れている事にが気付く。
 「何がそんなに可笑しいんですか?」
 訝しげな表情を顔に貼り付け、その場にしゃがみ込んだままの君主に語りかけた。
 すると――



 「こやつ…誰かに似ておると思っておったが、たった今解った。 それは…、おぬしだ」
 「はいぃ!?」



 漸く振り返ったと思えば考えも及ばない台詞を吐く曹操には目を丸くして驚いた。
 しかしぱちくりと瞳を瞬かせるを余所に、目の前の君主は笑みを崩さずに言葉を続ける。
 「実はな、。 こやつ、こう見えても始めは小さな身体を更に小さく固くしたまま動こうともしなかったのだ」
 「そ、そうなんですか?」
 「うむ。 あの姿を思い出すと、初めて会った時のおぬしが丁度重なる」
 「ぅえ!?」



 なっ、何だって………!?



 からかわれた、とは思った。
 しかし、彼女の中には不思議と怒りが込み上げて来なかった。



 ――この時間が楽しい、と思ったのだ。



 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ殿! その言い方、幾らなんでも酷すぎます!」
 は笑顔ながらも両の拳を握り締め、振り上げると…避けられるのを承知で依然膝を付いたままの君主に飛び掛かる。
 そして
 「はは…そのようにムキにならんでもよかろう」
 の拳を難なく受け止めながら軽い調子で笑い出す君主。





 それは、傍から見れば至極楽しげな光景だった――。







 「殿、もしかしてその猫…飼ってるんですか?」
 「うむ。 誰にも言っておらんがな」
 「でも………ボク、知っちゃいましたよ、いいんですか?」
 「まぁ、よかろう。 だがこれはわしと、二人だけの秘密だ…よいな?」



 改めて叩きつけられる意外な事実とひょんな事で生まれた約束に、がぷっと吹き出す。
 そして、君主に視線を合わせると…笑いながらもしっかりと、応えた。



 「はい! ボクと殿、二人だけの秘密ですねっ!」













 二人、遥かに高い空を見上げる――その場は暫し沈黙に支配されていた。
 陽が傾き冷たくなり始めた風が一陣、微妙に距離の開いた二人の間を嘲笑うかのように通り過ぎる。
 しかし、互いの表情には僅かな笑みが零れ、君主の足元には…何時から居たのか、勝手気ままに遊びながら「にゃぁ」と鳴く仔猫が居た。





 「よ。 わしの事が未だ怖いか」



 眩しく広がる青に顔を向けたまま、曹操が漸く話の口火を切った。
 その視線は、の思うところよりも遥かに遠くを見据えているように見える。



 この人は君主で、本当はボクが気軽に話しちゃいけない人なんだ。
 だけど――



 「はい、怖いです。 ですが…今は同時に違うものも感じます」



 自分の言葉を噛み締めるように語るに、刹那君主が笑いながら謎解きのような言葉を返す。
 「はは、それはわしが変わったのか…はたまたおぬしが変わったのか」
 「………解りません」
 「それは、互いだろうよ。 時が経てば人も変わる…そうではないか?」
 「そういうものでしょうか………」
 簡単な言葉を返したきり、思案に更け始める
 その心には、先程まで感じていたものの他に疑問が加わっていた。



 殿の言いたい事はとてもよく解る。
 だけど、それをどうしてボクに?

 殿は、ボクに何を望んでいるんだ――?



 刹那――



 「…よ、わしとの間に壁を意識する事はない」



 の思案を遮るような君主の言葉が肩に触れた手と共に与えられた。
 突然の事に再びびくっと身体が跳ねる。
 しかし、曹操の流れるように続く言葉に………何時しか目前に存在していた何かが消えていくようには感じた。



 「心のままに生きよ、
 本質を隠してしまえば、己の信念も完全には貫けん。

 試しに普段通りの態度をわしに取ってみよ――さすればもっと怖くなくなるやも知れんぞ」







 ――ボクらしくない。

 記憶にある日々を思い出すと…今迄曹操に取っていた態度が滑稽に思えた。
 そんな自分が可笑しくなって、自然と笑いがこみ上げてくる。

 は初めて、君主の前で声を高らかに大笑いした。



 「あははっ! 殿には全てお見通しだったんだね! ありがとう、殿!」







 ――自ら作り出していた君主と自分の間の壁が、今――















 「――わしの覇道、その目で確かめてみたいと思うか?」

 彼方に広がる地平線に手を差し伸べながら尋ねる殿。





 ――貴方には、見えるのかな?



           ボクの往く先にある、光も――。





 「うん! だからボクはここに居るんだ」







               ――壁を、越えて――










 劇終。



 アトガキ

 ども、ヘタレ管理人です(汗)。
 此度はソソ様夢第2弾を投下いたしまっすーv

 えー、このネタはですね…実は1年以上前のものです(ぇ
 お相手は決まっていたんですが、このネタに合うヒロインが見当たらなくてですね;;
 危うくフォルダの中で腐らせる事になりそうでした。
 それがボクっ子ヒロインの登場で『これだ!』と。

 いやぁ…ネタは鮮度が第一、と言ってはいましたが…
 時には熟成させるのも悪くないんですね(をい!

 といったわけで…久し振りに企画以外のマトモな?ブツを完成させました。
 ちょっと恋愛要素がなくて些か地味ぃですが…
 少しでも楽しんでいただけると幸いですv

 ここまでお読みくださった皆様と………
 熟成させたネタにいい隠し味を加えてくださった情報屋に!
 厚く、厚く感謝します! ありがとうございました!

 2008.12.04     飛鳥 拝


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