心の箍を外す時
彼女が… ― 逝った ― 。
は半分が群青色に侵食された空を見上げ、小さく零した。
昼間は熱の籠った光を降り注いでいた太陽がその力を失い、静かに遠くの地へと落ちていく。
まるで、人の命が終わる時のように…。
しかし、『彼女』の墓前に佇むの瞳に零れるものはなかった。
視線の先には何も映らず、ただ茫然と意識を空に彷徨わせている。
医師とは言え、所詮は人。
私の力なんて………こんなもの。
彼女−−が病に臥したのは数ヶ月前。
今迄共に医師としての執務に勤しみ…時には笑い、時には怒りを露にしながら…励まし合い、成長してきたにとって唯一無二の親友。
その彼女が、治癒するのが難しいとされる病に罹ったのだ。
は、病と必死に戦うを励まし、治療に全力を尽くした。
時を追う毎に…次第に衰えていく彼女を目の前にしても、決して諦めなかった。
しかし…。
病の魔の手は、確実にの命を削っていったのだった…。
は力なく項垂れ、ひとつ溜息を吐いた。
大事な人を救えなかった己の無力さ。
そして。
こんな時なのに、涙を流す事すら忘れている心。
私は…自分を、恨む事しか出来ないの?
せめて心のままに泣けたら、とは思う。
やはり…医師は人の死に対して鈍感になっているのだろうか…?
結局、も…医師である自分にとってはただの患者にすぎなかったのか?
医師であるが故に苦悩する心を抱え、は再び天を仰いだ。
刹那
「…。 やはり、こちらでしたね」
背中から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
遡る事…ある日の昼下がり。
窓の隙間からは穏やかな太陽の光が注ぎ、昼食後の人々の眠りを誘う。
ここ医務室も例外ではなく…椅子に腰を掛け、薬品関係の書簡に目を通していた女医師二人もうつらうつらとしていた。
そんな中は襲ってきた睡魔を振り払うようにかぶりを振り、に声をかける。
「」
「………んー?」
半分閉じかけた瞳に抗う事もせず、気のない返事をするだったが
「ねぇ、…。 あんた、何時陸遜と祝言を挙げるの?」
親友からの思い掛けない台詞に、その意識は一気に現実へと引き戻された。
椅子から身を乗り出し、目の前でからかうような笑みを浮かべるに詰め寄る。
「ちょっ! ! いきなり何言うの!?」
「…そのまんまの意味よ。 あんた達…何時になったら片付くのかしら、って思っただけ」
訊いたらいけない事だったかしら?と卓に頬杖を付きながら更に唇の端を吊り上げる。
それを見て、すっかり狼狽する。
椅子から立ち上がり、抗議するような顔色で卓に両手を付いた。
「ちょっ、待ってよ! 勝手に話を…」
「そうですよ、殿。
お願いですから…私がはっきりと告げる前に話を進めないでください」
刹那、女同士の会話に…不意に入ってくる男の声。
その声に女二人が同時に声の方向に振り返る。
すると、外へと続く扉の前に…『渦中の人』が立っていた。
「…伯言…」
突然の出来事の連続に、は驚くどころか、却って呆気に取られてしまった。
ぽかん、と口を開けたまま扉の前の『愛しの君』を見つめる。
その『君』は、すたすたと室の中へと歩を進め、の肩に手を添えた。
そして、同じく目を見開いて口をあんぐりと開けている親友の顔との顔を交互に見やりながら言葉を放つ。
「すみません…、殿。
の顔を見ようとここを訪れたんですけど…。
丁度私の名が出てしまいましたので、声をかけるのが少々遅れました」
本当にすみませんでした、と屈託のない笑顔を見せる陸遜。
その笑顔の下に隠されている黒いものを見ないように、も同じように微笑みで返した。
しかし、は笑顔に少々黒いものを乗せると
「…陸遜。 貴方、本当は私達の会話を聞いて楽しんでたんじゃないの?」
言葉を投げながら椅子から立ち上がった。
そして
「あ…流石は殿。 解っちゃいましたか…」
と答える親友の恋人ににやり、と笑うと
「私は席を外すわ…この話の続きは後で聞かせてもらうから」
扉へと踵を返し、「じゃね!」と外へ身を躍らせた。
が自分達に気を利かせて席を外す。
それは、前から変わらない親友の行動だったが…はの後姿にちょっとした違和感を覚えていた。
何時もより、細く感じるその身体。
そして…言いようのない不安。
その違和感が…医師としての『勘』だったのだと理解したのは…。
既に、全てが終わってしまった後だった……………。
「…伯言…」
どうしてここに?とが天から視線を落とし、力ない瞳を陸遜に向けた。
陸遜はその視線を逸らす事なくしっかりと見つめ返すと、の肩に手をかけながら言う。
「…お父上がお呼びです。 宵の執務の時間はとうに過ぎている、とお怒りですよ」
「…いいの」
…だって。
私が一番助けたかった命は…もうここには、ないから。
は項垂れ、小さくかぶりを振りながら零した。
の…親友の命を救うために。
私は医師生命全てを賭けた。
それが…このような形で終わってしまった………。
私は…。
「…私は…。 もう、医師を続けられない」
顔を上げる事もせずに己の唇を噛み締める。
それを見て陸遜は肩に添えていた手に力を籠め、軽く揺する。
「…貴女の気持ちは解ります。 ですが…今、貴女の力を…貴女の助けが必要な方が居る事を忘れてはなりません」
しかし、は肩を揺すられるがままで全く顔を上げようとしない。
瞳を逃げるようにぎゅっと閉じると、途切れがちに言葉を地に落とす。
「忘れてない…けど。 身体が、動かないの…。 怖いのよ…」
これまで…たくさんの命を救ってきた。
この、手で。
だが…治療も虚しく、散ってしまった命も数知れず存在する。
此度の、のように…。
この先、また同じように失っていく命を見なければならないと思うと…。
の心は悲鳴を上げていた。
大事な人を、救う事が出来なかった。
そして、人を助ける気力のなくなった今の私は…医師失格だ、と。
暫くの間、この場には静寂が訪れていたが…今迄真摯な瞳での姿を見つめていた陸遜がひとつ小さく息を吐き、動いた。
肩を掴んでいた手を離し、そのままの頬に移すと…の顔を覗き込む。
「…私が、ずっと傍に居ます。
殿の分も…愛する貴女と共に往きます。
だから…」
怖がらないで、と微笑みかける陸遜。
愛する人の気持ちが…手を、頬を介して伝わってくる。
そして、それが悲鳴を上げ続ける心を優しく包み込み、が心の中にかけていた筈の箍を音を立てて外した。
悲鳴が…心の叫びが…。
溢れて、くる…。
「私は…と誓ったの。
『これからも…この命ある限りたくさんの命を救っていこう』って。
だけど…。
もう、はここに居ないの!
この先、一人でこの誓いを守り抜く自信がないの!
私は…命を救う術を持ってる。
これまでも、たくさんの命を助けてきた。
でも………!
ねぇ、伯言…。
私…どうしたら、いい…?
伯言………。
私を………助けてよ………っ」
『医師』という箍を外したの瞳からは何時しか涙が零れていた。
その大粒の雫は…今迄溜め込んでいた心の叫びを全て洗い流すように次々と溢れてくる。
陸遜の胸にしがみ付き、泣きじゃくる姿は…彼が今迄見る事のなかったの『弱さ』だった。
どんな時でも…柔らかい笑顔で自分を支えてくれていた、。
その心の中に…こんな『弱さ』が隠れていた、とは…。
陸遜は気持ちのままに、を己の腕の中に収めた。
そして…暫くそのままでの涙から伝わってくる気持ちを噛み締めるように受け取ると
「貴女の心、今全て解りました。 今迄、我慢していたんですね…」
すみませんでした、とに言い聞かせるように呟いた。
そして、しゃくり上げながら見上げてくる涙だらけの顔を見つめると言葉を続ける。
「…。
貴女を、一人にはさせません。
この先…この命ある限り、貴女の全てを…私が護ります。
貴女の心が…『弱さ』に陥っても、私が必ず救い出します。
このような未熟者では…頼りないかもしれませんが…」
それでも構いませんか?と小首を傾げながら問う陸遜に。
ようやく落ち着いたのか…は涙でぐしゃぐしゃの顔に笑顔を乗せる事で答える。
己の心を解放する。
これまで、陸遜にさえも曝け出す事を恐れていた…心。
しかし、一度解放したら意外に楽になった。
その事に驚き、ふっと微かに笑う。
改めて、包み込んでくる腕の持ち主に心から感謝したくなった。
この人を…愛してよかった、と。
「訊くまでも、ないわ。 …貴方じゃなきゃ嫌だもん」
他の人にはとてもじゃないけど…こんな姿見せられないもの、と軽く笑い声を上げながらは言葉を放った。
それを見て、陸遜が「解りました」と微笑みを浮かべ、一つ頷いた。
そして…笑顔の戻ったの唇に口付けを落とすと、片手での頬に伝う涙を優しく拭う。
「ならば…。 これからは殿のためにも、共に精一杯生きなくてはならないですね」
「そうね…。 が成し得なかった『願い』を、私達が引き継がなきゃ!」
「その意気です! …それでは、行きましょう!」
「………うん!」
陸遜の力強い手をしっかりと握り返し、導かれながら走り出す。
宵の訪れによって冷え始めた風が火照った頬に心地よく当たる。
は走りながらふと天を仰ぐ。
そして。
そこに居るだろう…唯一無二の親友に笑顔で拳を突き上げた。
貴女の為にも、頑張るわ…と。
劇終。
アトガキ
お久し振りです、りっくんです。
いや…私が『りっくん』てワケではなく(汗
…久し振りにりっくん夢を書いたという感じです。
この作品を仕上げて最初に思ったこと。
『また人を殺めてしまった…』 orz
今度は親友ですよ。
しかも。
「自分は鬼畜だぁい!」と叫びながらキーを叩きまくった挙句がこれです(←酷っ!
今迄強い軍医ちゃんしか書いていなかった感のある私が今回、弱い部分を曝け出す事に挑戦いたしました。
…チャレンジャー続行中!?
そして…強くヒロインを包み込むオトナなりっくんも久し振りに書いた気がします。
相変わらず白く、甘いですが(砂糖かっ!
少しでも楽しんでいただけたら幸いですw
ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!
2007.7.7 飛鳥 拝
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