amaoto










 雨は天から降り注ぎ、全てのものを潤す。
 そして、地に落ちた雫たちが不浄なるものを洗い清めるように新しい流れを作っていく。
 近頃続いていた日照りですっかり乾いていた土地にとってはまさに天からの恵み、我々を豊かさへ導く序章である。
 しかし
 「雨、か…」
 ぽつりと零すの表情は苛立ちを隠せないでいた。
 漸く訪れた雨は、人にとっても非常にありがたく喜ばしい事だと彼女自身も解っている。

 解ってはいるけど…。

 の心の中には、この雲に覆われた灰色の空ような靄があった。
 それは、他の人間であるならば自分以外のものに曝け出す事で払い除ける事が出来るかも知れない。
 だが、彼女にとっては口で言うほど容易な事ではなかった。
 活発に振舞うその裏で…曝け出すのが怖い、という思いが燻っている。

 敵わない―。
 この、数多の雫が地を容赦なく打ち付ける音が…
 私の神経を、逆撫でる…。

 時刻は昼を指しているにも関わらず掛け布を被り、己の耳を塞いだ。
 それでも、雨垂れの音はの聴覚はおろか、封印したいとまで思う記憶をも刺激していく。

 やめて。
 私の心を、あの時へ…連れて行かないで。
 これ以上、思い出させないで―。

 しかし、その願いは虚しく空を彷徨い…の意識が降り頻る雨音に誘われるように奥底へ沈んでいった。













 大事には何時も雨が付き纏っている、ような気がする。

 そう、あの時も。
 雨が地を穿つように降っていた―。







 今は戦もなく、この地を支配する群雄達も疲れたのか周りの動向を窺っているのか…何事も起こさず、息を潜めている。
 ほんのつかの間だろう、偽りの平穏。
 その中、私は孫呉の大都督から数日間の暇を与えられた。
 「、お前も故郷に大切な者を残しているのだろう? …元気な顔を見せて来るといい」
 こう言い放った大都督の視線がからかうように光ったのが少々気にはなったが、私は嬉しかった。
 皆に会える。 そして…。



 大切な者―。
 故郷へ向かって馬を駆りながら想いを巡らす。
 孤児だった私を救い、ここまで育ててくれた…第二の故郷。
 生まれた時期も両親の顔も…自分の名前さえも覚えていない程に、拾われた時の私は幼かった。
 そんな私にとって、この第二の故郷こそが正真正銘、本当の故郷だ。
 感謝し尽くしてもしきれない。
 この背中に、今直ぐ羽が生えてくれないかしら…と些か可笑しい事まで思ってしまう。

 孤児だったにも関わらず周りの目はとても暖かかった。
 そして、その暖かい目の中に…彼は居た。
 私はやがて、彼を愛し…彼も同じように私を愛してくれた。
 「乱世が終わって、平和になったら…一緒になろう」
 大切な人との約束が、どれだけ私の力になっている事か…。



 しかし。
 私を待つ彼の腕に抱かれる…その瞬間を心待ちにしていた私に、待っていたのは…

 消せるものなら綺麗に消してしまいたい思い出と、心が奥底へ沈むような絶望だった―。





 慌てて設えたのだろう…私の帰郷を祝う宴。
 幾年かの時が流れても、皆の暖かさには変わりがなかった。
 嬉しいと思うと同時に、改まった感謝の気持ちが溢れてくる。
 次々に降りかかる 「お帰りなさい、」 の言葉が、とても心地いい。
 しかし…受け答えする私の視線は場内を彷徨い、心から 「お帰りなさい」 と一番言って欲しい大切な人を探す。

 だが…その宴に、彼の姿はなかった。



 私は主賓であるのにも構わず酒宴を中座し、彼の家へと急いだ。
 もしかしたら…彼の方から話しに来てくれるまで待っていればよかったのかも知れない。
 そうすれば、あんなに腹を立てる事はなかっただろう。
 ………醜い、黒く澱んだ自分に出会うこともなかった………。

 先程まで星の光が眩しいほど瞬いていた空が、暗雲に覆われ始めていた―。



 私が愛しいと思う彼の隣…私が居る筈の場所に、違う女が居た。
 私の心に…深い悲しみと共に、怒りが沸き起こる。
 離れていても、これ程までに想っていたのに。
 貴方との約束を胸に、今迄戦っていたのに………。
 何故裏切ったんだと訴える私に…彼は私を諭すように、そして心の憤りを吐き出すように、云った。
 足首から先のない脚と、頬のこけた、痩せ細った顔を私に向けながら―。

 「俺が一番辛い時に…お前は居なかった。
      お前は結局、俺よりも…戦を、軍を、選んだんだ―! 」

 自分自身の心に混沌が訪れたのを知らせるように、暗雲立ち込める空から大粒の雨が降ってきた―。



 雨の音が耳障りだ。
 彼の、言葉が…聞こえない。
 彼女が涙を湛えた瞳で、私に何やら言っているけど…雨垂れの音に邪魔される。
 私は全ての音に抗うように耳を塞ぎながら、思いのままに叫び続けた。

 「
裏切り者!
 こんな女…人の弱みに付け込んだ、ただの泥棒猫じゃない!
 憎らしい! アンタ達なんか、いなくなればいい…っ!


私の手は、何時の間にか…………………。





 後から考えれば、当然の結末だった。
 孫呉に仕官する事がこの村落を護り、ここに住む者…大切な人を護る事になり得るだろう、と思った。
 しかし。
 暖かく見送ってくれた筈の彼は、愛する者を危険に晒したくないと思っていた。
 いや…離れないで、傍で支えていて欲しかったんだ。
 隣に居る彼女は、それを…彼の欲求の全て満たす事が出来た。
 ただ、それだけの事―。

 雨の音を理由にして、私は彼らの真意に聞く耳を持たなかった―。
 愛する人の幸せを望むのが一番の愛の形だ、と解ってはいたけど…私はそれを憎しみにしか変えられなかった。
 醜さを奥底に隠していた、私の心…。
 そんな自分に、突如嫌気が差す。



 私は…絶望と、喪失感を抱いたまま軍へ戻った。
 そして、醜い心が再び現れないように…本当の自分を、封印した。



 こんな気持ちになるのなら…。

 もう、二度と、恋などしない―。













 激しく降り続ける雨は、当分止みそうにない。
 は諦めたようにゆるゆると起き上がり、誰に聞かせるでもなく大きく溜息を吐いた。

 封印したいのに、心は私を悪戯に弄ぶ。
 もう恋などしない、と決めたのに…貴方の所為でその誓いはあっさりと崩された―。



 が苦悩するもう一つの原因。
 それは、彼女自身が言う 『貴方』 の存在だった。
 孫呉で屈指の知将、陸遜。
 彼はよりも遅く仕官した、言わば後輩。
 しかし、初対面から二人は不思議と息が合った。
 陸遜の初陣にが従軍した時、初めての連携にも関わらず彼らの策だけで敵軍を壊滅させたという、伝説的な大偉業を成し遂げている。
 そして、戦を離れても、一緒に居る事が多かった。
 陸遜の執務に支障が出るのでは…と思われる程、彼らの親密度は日増しに強くなっていく。
 それ故、二人は恋仲かと囁かれる事が無きにしも非ず。
 だが、周りの好奇心を余所に…二人の仲にそれ以上の進展は見られなかった。



 私には、人を好きになる資格なんかない。
 この心に、醜いものが棲み付いている限り―。

 焦がれる気持ちを振り払いたい、という思いのままかぶりを振るが…人の気持ちはそう簡単に覆らない。
 考えたくないのに、考えてしまう。
 思い慕う心と、封印したい心。
 二つの想いの狭間で、は漸く息をしている状態だった。
 辛い。
 苦しい。
 だけど、貴方と一緒に居たい。
 貴方と話をしている間だけ、私は素直になれるような気がするから…。



 何時しか心から溢れてくる何かと共に、の瞳から雫が落ちた。

 駄目だ、やはりこの想いを封印する事なんか出来やしない。
 …。
 せめて、この雨が私の中の澱んだ醜さを洗い流してくれるのなら………。

 零れ出した涙を隠し…心の中を洗い清める。
 その二つの目的を成すために…は徐に立ち上がり踵を返すと、今は嵐と見紛う程の豪雨のために誰も居ない中庭へと身を躍らせた。





 数多の雫が地を容赦なく打ち付ける。
 何時もなら専門の職人の手によって整地されている中庭も、見る影もなく水溜りの宝庫となっていた。
 その水溜りの一つが、違うもので形を変える。
 は中庭に降り立つと、両手を広げて灰色に支配される天を仰ぎ、絶え間なく降り注ぐ雨にその身を晒した。
 すると。
 雨は、が思ったよりずっと優しかった。
 肌に当たる雫の温度は冷たいけれど、心の中で燻っている思いを洗い流すというより、頑なになっていた自分を包み込んで解していく。
 それは素直な…本当の自分が漸く長い旅から帰って来たようで。

 「うっ………うわぁぁぁぁぁ!!!」

 雨の優しさに心をも打たれたのか…は今迄奥底に押し込んでいた心の全てを曝け出し、声を上げて泣いた。













 「そうですか…今迄、散々無理をしていたんですね、
 薄々とは感じていましたが、との話を真摯に聞いていた陸遜から返された言葉に、は寒さと涙の流しすぎで出てきた洟をすすりながら頷いた。
 無理をしてまで、心を押し殺しても…心の強さは変わらない。
 思い掛けない形でもたらされた、失恋だったけれど…優しい雨に打たれた今なら、それすらも前へ進むための試練だったんだと思える。
 強がりかも知れないけどね、と言いながら…全てを話してすっきりしたのか、は少々自嘲を含んだ笑みを零した。







 先程から激しく降り出した雨。
 刹那、陸遜の心に嫌な予感が過った。
 「私、雨が大っ嫌いなの。 …過去を思い出してしまうから」
 以前、自身から聞いた言葉。
 その時は深く追求しなかったが…彼女が雨音を聞く度に情緒不安定になる事から、余程の事があったのだろうと思った。
 他人に全てを見せていない事は、彼には簡単に解り得ることだったが。
 の、過去を…全てを知りたい―。
 陸遜の心が好奇心に近い想いに支配され、それが恋慕だという事に逸早く気付いた。
 しかし、彼女は自分より早くこの軍に仕官しており、歳も自分より上だ。
 私には、貴女の心の中に入り込む資格があるのでしょうか…。
 思い悩み、踏み留まっている矢先に感じた、嫌な予感。
 瞬間、陸遜は今迄悩んでいた心を置いてきぼりにするように…予感のまま、の許へと足を向けていた。



 程なく…雨空の下で天を仰ぎながら佇むの姿を見つけた。
 「…?」
 雨に濡れるのにも構わず、中庭に降り立つと徐に名を呼ぶ。
 しかし。
 に近付き、肩に手をかけようとした陸遜の手が…一瞬、直前でぴたりと止まった。

 …が、泣いている…。

 雨垂れの音で、近くに来るまで気付かなかった。
 今迄聞いた事もなかったの哭泣。
 刹那、陸遜は己が身に纏っていた外套をさっと脱ぐとに着せ、泣き叫ぶ彼女を殆ど強制的に部屋へと引き込んだのだった。
 彼女の口から、涙の意味を聞くために―。







 「強がりでいいじゃないですか、。 変に気取らなくとも…心のまま、そのままがいいんですよ」
 私にとってもですが、と唇の間から白い歯を見せながら言葉をかける陸遜。
 それに、も表情を同じような笑顔に変える。

 そう。
 無理をして強くなる必要なんか、何処にもない。

 「必要なのは、自分を全て受け入れてくれる…大切な存在、なのよね? 伯言」
 漸く解ったわ、と雨に濡れた手拭いを絞りながらわざと相手に聞こえるように言い放つ
 かつて、愛した人と過ごした日々を振り返る。
 結末は…決して自分が望んだものではなかったが、そこには過去を鮮やかに色付ける輝かしい思い出が確かにあった。
 危うく、その美しい過去まで否定するところだった。
 は過去を心の底へと大事にしまうように一瞬だけ目を閉じたが、直ぐに見開いた。
 視線の先には、自分のこれからを新しく彩ってくれるだろう人が困惑した表情で自分を見つめている。
 「…。 大切な存在って、あの…」
 彼は、何を惑っているのだろう。
 今の私にとって、大切な存在だと思える人は…貴方しかいないのに………。
 困惑を面に浮かべる、可愛らしい人ににこりと微笑みながら…
 「伯言。 貴方、策士なんだから…少しは自分で考えなさい」
 顔を近付け、陸遜の高く聳える鼻の頭を指先でぴん、と弾いた。



 本当は、解っていた。
 だから、現在も未来も、過去でさえも…同じ時間を共有したいと思うんだと。
 今、漸くその想いが一つになった。



 私も、あなたにとって大切な存在なんだ―。







 「…
 「ん?」
 「実は…私も雨が嫌いだったんですよ、知ってましたか?」
 …但し、音、ではなく…雨そのものですが。
 陸遜からの、思い掛けない告白。
 私は一瞬だけ訝しげな顔をし、直ぐに表情を元の柔らかい笑顔に戻した。
 知っている…というか、なんとなく察しがつくけど…。
 「えっ…なんで?」
 訊いてみる。
 すると、目の前の可愛い人が頬に笑窪を作り、微かに声を上げて笑った。

 「はは…なんとなく解っているでしょう?
 雨の日は…折角火矢を射掛けても、直ぐに消えてしまいますからね」

 得意の火計が成功し難い…だから嫌いなんです、と僅かに頬を膨らませて抗議するように言い放った。
 その微妙な仕草が可愛らしい、と思いながら可笑しさがこみ上げてくる。
 声を上げて笑い出す私を、伯言は軽く不貞腐れながらも抱きしめてくれた―。










 人は皆、様々な想いを抱えて生きている。

 …時には辛さや悲しみで心を支配される事もあるだろう。

 しかし。

 それすらも包み込むような…幸せ、喜びを感じる事が出来るからこそ―。

 人は、強く生きていける………。







劇終。





アトガキ

大変長らくお待たせいたしました。
二万打御礼企画第3弾(最終)夢ですっ♪
なんとか…年内にコンプリートできましたよっ!(←充実感)

此度の指定は『陸遜で水色』
…普段の彼とは全く違うイメイジですね。
今回のテーマは『強さとは?』
小技などを加えた結果、少々長くなった感がします(汗
反転台詞は…書いていてあまりにも嫌な気持ちになったんで。
そして…彼女の手は………!?
(これは読者の皆様のご想像にお任せしますw)

ともさん、此度は素敵な…それでいて楽しい(ぇ!?)リクエストをありがとうございました!
お気に召しましたら、お持ち帰りくださいねw

(詳しい裏話は日記で書く予定です)

ここまでお付き合いくださってありがとうございました!


2007.12.29 御巫飛鳥 拝


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