これはどの国にも共通してることだと思う。
いまの時代、この世の中、教養というものは全体に行渡っているものじゃない。
それは大きな、由緒正しい家ならば、別だけど。
そういう家だったならば、男はもちろん、姫も読み書きの知識はある。
勉強熱心の人だったなら、凄く難しい書物も、読み解くことさえ出来るだろう。
それに比べ、普通の、一般的な家では、男であっても読み書き出来ない者が多い。
ただ生活していく上の術で、金銭の使い方だけは知っていたとしても。
最近では無償で、子供に読み書きを教えている人が増えている。
それでも、やっぱり習得する人間は少ない。
それが、女であれば、尚更。
わたしはそんな一般民の、下流家系の、末の娘。
当然、普通に考えれば読み書きなど、到底出来るような身分ではなかった。
けれど環境に恵まれて、学び、持ち合わせていた性格が重なって、人並み以上に知識を得た。
だから、いま、ここに居る。
自分が住む国の、お殿様が居城の一角にある、文官が仕事をする棟。
女の文官は少ない。
その中の少ないうちの一人として働いている。
自分の出来る仕事に誇りを持って、出来うる限りのことを遣り遂げようと頑張って。
何とか周りにも溶け込めて、ここの姫様達にも良い様にしてもらって。
頑張って頑張っている中、ちょっとした出逢いが、わたしを変えた。
それがいいことなのか、悪いことなのか分からない。
けれど数えで十六になった年のある日を境に、自分の中の日常は変わった。
文官の主な仕事は、国の中枢を担っている軍師様の補佐。
いろいろと雑務が多くなってくるのは致し方ないことで、それを出来る範囲内で片付けていく。
わたしが居る呉の国、ここの軍師様はみんな、凄く素晴らしい方ばかり。
下っ端な自分達にも優しくて、よく気遣ってくれる。
そんな軍師様の中に、一際若い彼が入ってきたのが、わたしが十六になる年のこと。
「陸伯言と言います」
これからよろしく、とわたしに手を差し出してきた彼。
まだまだ幼い少年の顔をしていて、でも瞳は強い。
その日からわたしは、彼の下に付く文官になった。
まだ彼が若いといっても、その年で軍師に任命されるだけあって、賢い。
だからなのか、仕事の量も多く、覚える段階を経ているため、雑務が大半を占める。
でも彼はそんな仕事を嫌な顔することなく、寧ろ楽しそうにこなしていた。
「陸遜様、こちら、終わりましたよ」
「ありがとうございます」
いまはまだ、彼専属の文官はわたしとあと一人だけ。
だから、殆どの雑務が回ってくるといっても過言じゃない。
けれどわたしもそれを楽しんでいた。
新しいことを覚えるのが好きで、知識が増えるのが嬉しい。
そう思うから、ここの文官に駄目元で仕官したのだ。
彼の執務室の扉を開けて、持っていた書簡を渡す。
するときらきらした笑顔で受け取ってくれる。
仕事を始めたときから、それは変わらない。
彼が笑顔だから、わたしも笑顔で返す。
決して作ったものじゃなく、自然とそうなるのだ。
すると腕に抱えていた書簡は、彼の手で抜き取られていく。
いつもはそれで終わるから。
「では、失礼しますね」
そう礼をして、出て行こうとした。
自分が仕事部屋として割り当てられているところには、まだまだ書簡が積んである。
次を片付けなければいけないから。
「あ、。少しじっとしてて下さい」
え?と振り返れば、近い場所に彼の顔。
突然のことに驚いて身を引こうとしたが、それより先に彼の手が伸びてきていた。
触れた先は、わたしの髪。
「動いていいですよ?」
ピシッと固まってしまっているわたしに首を傾げながら、彼は微笑んでいる。
どうやら髪に埃が付いていたらしい。
ここに来るまでに書庫へ篭っていたから、そこで付いたのだろうと思う。
あそこは、書物も多いが誇りも比例するくらい多い。
「失礼します、陸遜さま」
コンコン、と扉を叩く音と、やわらかな声で漸く我に返る。
ハッとなって、彼から身を離した。
どうぞ、と応えた彼に応じて入ってきたのは、一人の女官だ。
「では、わたしはこれで」
彼と、休憩用であろうお茶を持って入ってきた女官に頭を下げて、部屋を出た。
急ぎ足で自分の部屋へと帰る。
バタンと大きな音をさせて、部屋の扉を閉めた。
そのままズルズルと身体を床へと落とす。
何故か火照っている顔を、両手で覆った。
心なし、心臓の動きも速い。
(これ、何・・・・・・?)
その日が、いま考えれば節目だったのかもしれない。
それからというもの、何故か彼の前で普通の態度が取れなくなった。
何かが変わったわけでもなく、何かがあるわけでもなく。
周りから見れば、おかしいことこの上ないと思う。
多分、彼も訝しんでると思うけれど。
別に男に免疫がないわけじゃない。
ここに入る前は男友達などいっぱい居たし、ここも周りは男の人だらけだ。
免疫がなければ、働いてなどいれない。
じゃあ、どうして?と聞かれると自分でも分からない。
本当にあの時、何が起こったのかさえ、分からないのだから。
自分の中でだけ、微かな変化があったことは確か。
でもそれを説明しろと言われても無理。
無理なものは無理である。
どうしても自然に、普通にしていることが出来なくて、遂に彼を避けるようになってしまった。
だといっても、彼は直属の上官だ。
仕事上でも関わりがあるし、完全に逃げられるわけもない。
逃げるのも、失礼に当たると分かっている。
けれど、ギクシャクした態度を取るのも相手に不愉快だと思ったから、逃げるほうを選んだ。
仕事の受け渡しは、仲の良い―陸遜専属―女官に頼んで。
わたしのところに持ってこられる仕事も、彼女に頼むことにした。
いままでは何故か彼自らが足を運んで持ってきてくれていたのだが。
仕事内容について細かい指定があるときは、彼女の口で伝えられるか、難しいことだと言伝が一緒に挟まっていた。
そんな生活を一ヶ月二ヶ月と重ねていく。
周りに、どうしたの?と聞かれても、別に何でもないよ、と答える日々。
時折、廊下などで擦れ違うときがあっても、軽く挨拶を交わすだけ。
単純に考えても、何でもなくはない。
けれど、この自分でも分からない感情と衝動は、どうすることも出来なかった。
その生活も三ヶ月目に入ろうとしたある日、もう一人の陸遜専属文官と共にご飯を食べていた。
彼とは文官として同期で、どちらかといえば仲が良い。
そんな彼と話していて知れたこと。
「え?仕事っていつも女官伝いだったの?」
「ああ。それが普通だろ?」
確かに、言われてみればそうだ。
忙しい軍師様が、自ら仕事を持ってくることなど、陸遜以外ではなかった。
他のもっと立場が上な文官か、その軍師様に付いている女官から渡されていて。
「それだけ、が特別、ってことじゃないのか?」
声を小さくして、顔を寄せて、さり気なく手を取って彼は言う。
陸遜のときと同じくらい近いのに、彼には何も感じない。
動揺して固まりもしなくて、心臓も普通だ。
「わたしが、特別?」
「そう。そいうことじゃないのか?」
くすくす、彼は笑う。
何かを企んでいるのか、楽しそうだ。
彼はわたしより四つほど年上で、世渡りが上手く、相当な八方美人である。
だから、いつも何を考えているのか理解し兼ねるときが多い。
「いまだって、結構怖いしな」
「え?何?」
ポツリと呟かれた彼の言葉は、顔が近いのに聞き取れなかった。
だからもう少しだけ聞え易いように近寄る。
でも平気、やっぱり平気だ。
わたしはどこもおかしくない。
なのに、何故?
どうして、彼の、陸遜のときだけ?
「いや、何も。も、特別、あるんじゃないのか?」
にっこり笑っている彼は、どこか諭している感じがある。
こういうときは、兄のような感覚で、凄く頼れる存在。
「わたしの、特別―――――?」
首を傾げて、真剣に悩む。
それからご飯を食べてる間も、食べた後も、仕事をするため部屋に戻った後も、暫く悩んでいた。
転機が、もうそこに来ているとも知らず。
コンコン、と扉を叩く音がしたから、返事をした。
外から掛かる声はない。
扉が開く気配もない。
でも外に誰かが居るのは分かる。
おかしいな?と思いつつも、仕事を持った彼女が扉を開けられないのかもと思ってそちらに近寄った。
「どちらさ―――――!?」
どちらさま?と聞きながら扉を開けようとすれば、その瞬間外側から開けられる。
何が起こったのか頭が理解する前に、身体は軽く拘束されていた。
両手首を捕られて、壁へと軽く押さえ付けられている状態。
背中に感じた痛みを堪えながら、瞑っていた目を開けて前を窺えば―――
そこには真剣な顔をした陸遜が居た。
「え?へ?陸遜様・・・・・・」
「お久しぶりですね、」
確かに久しぶりだ。
こうやって近くで向き合ったことなど、一ヶ月以上前の話な気がする。
だから彼の言うことは間違っていない。
間違ってはいないけれど、笑っている顔が怖い。
「お、お久し、ぶり、です」
穏やかな会話を交わしている状態ではないのだが、相手は仮にも上官、律儀に返す。
「元気にしていましたか?」
「あ、はい」
受け答えしながらも、顔が段々赤くなっていっているのが自分でも分かる。
間近で彼の顔を見て、息が掛かるほど近くに居て。
考えるだけでのぼせてきた。
赤くなっているのが分かったのか、彼はクスッと笑った。
「」
恥ずかしくて逸らしていた視線。
名を呼ばれて、反射的に顔を上げると、何かやわらかいものが重なった。
呆然としていると、それは、ゆるり、離れていく。
「え、り、りく・・・陸そ―――――」
何が起こったのか本当に分からない。
いや、身体は分かっているかもしれないが、頭が完全に付いてきていない。
それでも彼の名を呼ぼうとしたら、またそれが塞がれた。
「特別、の意味、分かりましたか?」
「へっ!?・・・え?ぁ―――――!」
言われて、やっと気が付いた。
昨日、文官としては同期でも人生としては兄貴分の彼が言っていたこと。
その『特別』の意味。
さっき二回された、いまやっとされたことを理解した口付けが嫌じゃなかったこと。
それが、その意味を、自分のおかしかった原因を証明していた。
でも、あっさりすんなりと認めるのは何故か嫌だった。
突然こんなことをされて、許してしまうのはどうだろう。
喩え気持ちが通っていたとしても、手順は、道順はしっかりと踏まなくては。
「分かりません」
真っ直ぐに陸遜を見て、言った。
もう目を逸らすことはない。
逸らす必要など、感じない。
「分かりませんから、ちゃんと言って、教えてください」
(私にそこまで言わせるのですか?)
陸遜様、と促せば、彼は困った顔をしながらも、言った。
凄く小さな声で、聞き取れるか不安な大きさで。
それでも心臓を跳ねさせるには充分な、声音で。
「貴女が好きですよ、。私の『特別』です」
「ありがとうございます、陸遜様」
いつから自分が彼の『特別』だったのか、後から知った。
想い通う前日、同期同僚の彼と話しているのを見られているのも、教えられた。
きっと兄貴分の彼は、陸遜が見ていることを知って、やったのだろう。
そう、全てのことを後から知って、後からそうだったのだと、納得した。
いまとなっても、この感情が生まれたこと、いいことなのか悪いことなのか分からない。
だって、わたしと彼では身分が違いすぎる。
けれど、彼にも言われた通り、いまはそんなこと考えないことにした。
これから長い先、何があるかなんて、誰にも分からないから。
読み書きを覚えて、いままで読んできた書物の中にも、そういった事柄について、何も書いていなかったから。
これからは、自分の中で、知識を増やしていくとき。
何があっても受け入れる覚悟は出来ているから。
分からないことがあれば、ちゃんと声に出して、言葉にして聞けばいい。
だからこそ、こう思う。
こう、考える。
―真実なる言の葉は、想いと共に風にのせて、伝え行くものに―