--- Hide and seek ---
が、我が背後に回って来ていたのは知っていた。
並みの男ではない。日々、死が隣り合わせの戦場で、片頬すらも歪ませずに馬上に居る武
人である。
その上、此処は血肉と脂で溢れる戦地ではなく。
相手は敵どころか、愛し人なわけで。
そんなわけで、張文遠は相手が抜き足、差し足で近寄ってきたのを察しても微動だにせず、
書簡に目を落としていたのだが。
不意に、視界が暗くなった。
「だぁれだ?」
目蓋を覆う、あたたかな感触と。
恋人の匂い。
「殿であろう」
「…分かっちゃったの?!」
つまらない!と恋人は喚いた。
ちなみに、脚をバタバタさせているので、張遼は眉を上げてはしたなき真似はお止めなされ、
とだけ言った。
「張遼様はちっとも、驚かないんだもの!つまんないよ!」
「…驚いたが」
「……そんな冷静に言われても、全然説得力がない…」
知っているのだろうか。
は、彼の鼓動を聞いただろうか。
彼女の温もりと、匂いを感じて音を立てた、彼の動悸を知っているのだろうか。
「ねえ、張遼様」
「何か」
じっとを見つめると、彼女は困ったように頭を掻いた。
「張遼様って、全然、焦ったり、慌てたりしないんだね…」
「そうであろうか」
「ねえ」
たまには奥歯が見えるくらい笑ったり、怒ったりした方が良いよと言いつつ、は張遼の
頬をつねった。
こそばゆくて、その手をやんわりと外すと、彼女は一瞬怒ったように頬を膨らませ、そして。
瞬時に、わくわくするような、子供のような色を、その小さな顔に浮かべた。
「ねえ!」
「何か?」
隠れんぼ、しない?
その言葉に、今度こそ張遼は呆気に取られた。
***
忙しくないでしょ、今。
はそう言い放つと、しぶる張遼の手を引っ張って、彼の居室から外に出た。
「どっちが鬼になる?」
もう、楽しくて楽しくてたまりません、と言うように目をきらきらさせ、が口早に言い募る。
張遼は首を傾げるしかなかった。
「鬼……?」
「そう、鬼」
「……?」
「…もしかして」
はきょとり、と目を丸くした。
「もしかして、張遼様、隠れんぼ、した事がないの?」
ない、と告げると、彼女の目が更に、まん丸くなった。
「嘘!」
「嘘は言っておらぬ」
「え、ええ?!隠れんぼ、した事がないの?じゃ、じゃあ、手つなぎ鬼は?達磨さんが転ん
だ、は?」
人外の言葉の羅列。
かすかに頭痛がする、と思った張遼だったが、それはも同じだったようだ。
暫しの間、うぅ、と頭を抱えていたが。
「隠れんぼ、ってね」
ようやく、は虚脱から立ち直り、縷々張遼に『隠れんぼ』の説明をし始めた。
「数を数えている間、目を開けてはいけないのか」
「それじゃ、隠れる意味がないじゃない!目を閉じて、ちゃんと数を数えるんだよ?」
「……という事は、私が鬼か」
「そう!」
早く、早く目を閉じて、張遼様。
そう言って足踏みをしているを見て、彼は仕方なく目を閉じた。
馬鹿らしい、と思わないと言えば嘘になる。
こんな事をしている時間があったら、他にやるべき事は山のようにある筈だ。
だが、張遼は言われたように目を閉じたし、数も数え出した。
面倒くさい、どうしてこんな児戯を、と吐き捨てる事もせずに。
***
目を開けると、さわさわと春の風が頬をなぶっていくのが分かった。
決して広くはない張遼の家屋敷だが、歩いて数歩で全敷地内を踏破出来るわけではない。
客間も何室かあるし、中庭も規模は小さいがが隠れやすそうな植え込みやら、石の影
なども備えている。
張遼は苦笑いした。
まさか、自宅で潜んでいる敵兵を見付けるが如くな遊戯を始めるとは、思ってもみなかった。
大股で庭を横切り、部屋を覗いてみる。
先程まで彼が座っていた椅子の下にも、書棚の後ろにも、気配は何もない。
は、張遼が片手でも持ち上がるのではないかと思うほどな小ささだから、簡単にどんな
隙間でも入り込んでしまうだろう。
彼は舌打ちした。
廊下の隅、庭木の影、灯篭、池の畔。
躑躅の茂みの中にも、は居なかった。
張遼は、ほぅ、と息を吐いて天を見上げた。
こんな遊びはした事がない。
物心つく頃から、彼が手にしたのは遊戯の道具などではなく、手習いの筆であり、また人を
充分に殺傷出来る力を持つ凶器であった。
のんびりと遊んだ記憶もない。また、それを厭う思いも後悔もした事がない。
武を極める、それしか彼の頭にはなかったからだ。
だが。
(隠れんぼ、とは……割合に、心臓に悪い遊びだ)
張遼はそう思った。
が消えた。
そう錯覚して恐懼しそうになる己を宥め、張遼は足早に庭を抜けて母屋に入った。
客間、自室、炊事場、巡り巡ってもの姿はどこにもない。
次第に、彼の心臓が早く脈を打ち出した。
真面目くさった顔貌を、僅かに強張らせて大股歩きをする主人を、下僕も侍女も不思議そうに
見ている。
(殿……何処に?)
庭の木々に気紛れにやって来た目白が、呑気にさえずり出す。
だが、張遼の鼓膜はそれを拾わない。
心臓の音だけが大きく感じられた。
時々、には急に消えてしまうのではないかと張遼に思わせるような雰囲気があった。
彼女と出会ったのは、未だ張遼が呂布と行動を共にしていた、ある冬の朝だった。
徐州で行軍中、道端に行き倒れていた母親と思しき女の死体に取り縋り、この小さい身体の
何処からそんな力が、と思える程の大声で泣き叫んでいた。それが、だったのだ。
哀れな、とその時その場に居合わせた貂蝉が彼女を拾った。
もともと、顔立ちは悪くない娘だった。
貂蝉に引き取られた事で、麗質も磨かれたらしい。
開けっぴろげで奔放な性癖までは矯正されなかったようであるが。
呂布も、貂蝉も既にこの世の人ではない。
だが、時折は夢見がちにこう呟くのだ。
昨夜、貂蝉様の夢を、見たの。
私、もしかしたら貂蝉様に呼ばれているのかも知れない。
そんな言葉を聞くたび、張遼は故人を呪う。
連れて行くな、と。
九泉の下に、を連れて行くな。彼女は、渡さないと。
が貂蝉に、思慕と言い習わすのも生温いほどの想いを抱いているのは知っている。
命の恩人であり、同性として喩えようもない憧憬の対象である事も。
でも。
(今、この世に殿と共にあるは私だ、貂蝉殿)
この腕に抱いていても、何をしていても、張遼は不安が心の何処かを浸食しているのを感じず
にはいられない。
消えてしまう。
しっかりと、繋ぎ止めておかないと……油断していると、連れて行かれてしまう。
小さな、可愛い愛し人をさらわれてしまう。
張遼が新たな主と戴いた曹操の下で、彼は獅子奮迅の活躍をして見せた。
そうでもしないと、この国では手指から零れ出る砂の如くに打ち捨てられてしまうから。
一瞬たりとも気の抜けない、この世を生き抜く為には、衒いも、誤魔化しも、小細工の何一つも
必要のない相手……心を通わせる相手が、必要なのだ。が、必要なのだ。
何処だ。
英連殿、何処に……。
逸る気持ちとは裏腹に、目当てのひとの姿は、何処にもなかった。
「旦那様、ど、どうされたので?」
そう、声を掛けられたが、張遼には聞こえなかった。
今や、足並みは駆け足ほど。
吐く息も、野分の如く。
部屋の扉を片っ端から開け放ち、の姿を探す。気配を、求める。
彼女の部屋も、彼自身の部屋も、侍女の部屋まで足を踏み入れた。
が、消えてしまった。
隠れんぼ、どころか本当に消えてしまった……立ち尽くした張遼の背中を、おそるおそる家人が
見やる。
いつも不安だった。
きつく、きつく…が痛い!と抗議をする程にきつく抱いていても、腕からすり抜けていってし
まう気がして。
張遼は武人だ。
骨の髄まで、戦う男だ。
それはこの国の誰もが認め、張遼自身も疑った事はない『事実』である。
だが。
だが、その髄の、一番真奥にあるのは…核となるのは、そう……。
呆けたように部屋の真ん中に突っ立っていた張遼は、は、とした。
足下。
彼の足が踏みしめている床下に、気配を感じた。
「だ、旦那様!」
恐々と見守っていた侍女の一人が、仰天したように口を手で覆う。
やおら、張遼は壁に立て掛けてあった己の鉤鎌刀を床に向かって突き立てた。
木の裂ける音に続いて、ひゃあ!という悲鳴が上がった。
剥いだ床の下で、腰を抜かしたように這い蹲っているの姿を見止め、張遼は肩から力を、
抜いた。
***
「もう、乱暴だなあ」
長時間ではないにせよ、地べたに潜んでいたせいでの服は泥だらけであった。
数日前に長雨が続いたので、余計に酷い有様である。
それを横目で眺めながら、張遼は家人に湯を持ってくるように、と告げた。
「それに、見付けたらちゃんと、見―付けた、って言わなきゃ、駄目なんだよっ」
「それが、この遊戯の流儀か」
「そう」
張遼が後先考えずに床を断ち割ったお陰で、の二の腕に木っ端となった木屑の直撃によ
る、浅い傷が出来ていた。
張遼はまるで品物の疵を確かめるような簪職人のような面持ちでその手を取る。
「浅薄な事をされては困る、殿」
「だって…張遼様、全然私を見付けてくれないんだもん……」
私の方が、不安になっちゃったよ、とむくれる相手に、怒りも削がれていく。
見付けた暁には、思いきりどやしつけようと思っていたのだが。
「隠れんぼ、とは、なかなか悪趣味な遊びだ」
「そう?」
「二度とやらぬ」
それでも、きつめの口調になった張遼に、しゅん、とは肩を落とした。
「だって……」
「だって?」
「……最近、張遼様…忙しそうだし………いつも、難しい顔、してるし……」
「この顔は生まれついてのもの故、変えようがない」
そうじゃないよ!とは更に膨れた。
「私、私が出来る事はこれくらいしか、ないもん……」
「殿?」
「ヤなの!」
「……何が」
「だって…だって!私が出来る事って、こういう風に張遼様の気を、少しでも晴らしてあげる事し
か、ないもん!」
顔を真っ赤にして、目を潤ませて、は喚く。
「私っ!頭も良くないし、お金持ちでもないし、戦う事も出来ないしっ!美人でもないし、親も居な
いし、乞食みたいな暮らししてたしっ!」
「……殿…」
「役立たずの自分が…ヤなの…!」
ほろり、との目から涙が落ちた。
「少しでも……少しでも、私が此処にいる理由が欲しいの!」
知っているのだろうか。
は、知っているのだろうか。
張遼が、どんなに彼女を好きか、知っているだろうか。
その、計算も打算も何もない笑顔に、言葉に、どれだけ救われているか、知っているのだろうか。
誰だ、とふざけて触れてくる指の形、温もり、化粧気のない身体から溢れる香りに、その存在に、
いつも惑うほど焦がれている事を、知っているのだろうか。
いつも、を失わなくて済むように、と願っている心の声を、知っているのだろうか……。
「殿」
張遼は、笑みを浮かべようとし、ようやくそれに近いようなものを口の端に載せる事に成功した。
腕を伸ばして、を抱き取った。
「鬼は、何と言うのか」
「……鬼、って……」
探していた者を見付けた時、何と言うのか。そう訊くと、涙を瞳に張り付かせたままは答え
た。
「見付けた、って……言うんだよ」
「承知した」
張遼はひょい、とを抱き上げた。再び、色気のない叫びを彼女は上げる。
「どっ!泥が付いちゃう!張遼様!」
「構わぬ」
どうせ、衣服などこれより脱ぐ心算故。
そう囁くと。
腕の中の愛し人は、耳どころか髪の生え際まで真っ赤になった。
「ひ…昼間、だよ?張遼様……」
「知っているが」
「あっ…明るいよ……!」
「それも、承知の上」
小さな身体を寝台の上に押し伏せ、首筋に顔を埋めると、掠れた声をは上げた。
「だめ……」
「何が」
「うっ…は、恥ずかしいよ……!」
「そうか」
「そ、そうかって…あ!」
「沢山、恥ずかしがれば宜しい」
私は、殿のその顔がとても好みだ。
その言葉に、は一瞬硬直したが、裾を割って侵入してくる無骨な指先にのけぞった。
「あ……い、や……」
「随分と、殿は濡れやすくなった」
「ばっ……ばかっ…!」
「もう、準備は宜しいようだ」
「あ、あ……っ!ま、待っ、て…だめ……!」
「それは、承知しかねる」
何故なら。
私は、『鬼』故。
こうして、逃げようとする相手をしっかりと捕まえておくのが役目の鬼故、な。
ほくそ笑むようにそれだけ告げ、片脚を肩に引っかけて押し入ってきた張遼の昂ぶりに、は
唇を震わせ、彼の背中に縋り付く。
知っているだろうか。
は、知っているだろうか。
こんな時だけ、武人でも、曹操麾下の将である事も捨て、ただの人間、一人の男になれる自分
自身を、張遼が何物にも代え難い物だと信じている事を。
その血肉に隠された、骨の髄まで武人というその鎧を剥げば、温もりを分け合いたい、愛し合い
たいと願うただの男なのだ、という事を。
決して自分の傍から離さない、と言うようにひと突き、ひと突きするごとに、消え入りそうに声を
上げるを、誰よりも、誰よりも愛している事を……。
汗に濡れ光るの耳朶に唇を寄せ、一言、張遼は言葉を贈った。
見付けた。
そう言うと、彼女は一瞬、泣き笑いのような色を、快楽を凝縮させたその顔に上せたのだった。
*** あとがき ***
3万Hit御礼の第一弾、張遼夢です。
飛鳥様よりのリクエスト。
文遠殿で微エロを書いてみました。微エロ……なのかこれ…。
突っ込み所満載の話になりました。
床下を破壊しちゃ駄目だよ山田様、主人公に武器が当たったらどうする、とか、ちゃんと気
持ちは伝えないと駄目だよとか。
そしてシメの中途半端なエロも突っ込みポイントかも(笑)えー……。
そして何より、古代の中国にダルマさんが転んだはないだろう、と。
数え上げたらキリがありません。すいません…。
でも、リク頂いてとっても楽しく書けました。
今までの最短記録を更新、という勢いでカタカタ打って参りました。
乗るとこんなに熱が籠もって書けるものだなあ、と。久しく忘れていました、こういう感覚。
飛鳥様には感謝、感謝でございます。ありがとうございました。貰って下さったら本望です。
そして、これを読んで下さった方々に、心からの謝意を奉じます。
少しでも楽しんで下さる事を、切に願いつつ。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。
新城まや 拝
↓ここからは管理人のアトガキです↓
うぎゃぁ!(いきなりっ!?
こんな素晴らしい夢をいただいても宜しいのでしょうかっ!
本当に悶えました。
彼の不器用さ、エロさに私の精神がノックアウトですよ!姉さん!(何
新城さんの描く世界にどんどん引き込まれて…トドメの場面に私の霊気が逆噴射!
血の海に溺れかけて、ようやく帰還しました。
しかし。
リクエストしてから僅か2日?
このスピードの速さに感服!
てか。
貴女は天才です!
その文才をスランプ中の私に分けてくだs(殴
新城さん。
此度は30000HITおめでとうございます!
そして、素敵な夢をありがとうございました!
私、瑞樹一生涯の宝物にいたします!
2007.3.16 御巫飛鳥 拝礼
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