黒糸の海










 「…そろそろ戻るわ」
 はこう言うと身を起こして床から滑り降りた。
 散らばっている服を徐に引っ掴み、「あぁ…」と夢うつつに生返事をする男に背を向けながら扉へと踵を返す。
 そして。
 慣れた動作で素早く服を身に着け、廊下へと身を進める前に振り返ると…既に寝息を立て始めた男を冷ややかな瞳で一瞥した。

 事が終われば、女は用済みなのよ―。

 何時か聞いた言葉がの心を過り、苛んでいく。
 やはり、この人もそうだった…。
 身体が繋がれば、心も繋がるなんて…所詮、夢物語にしか過ぎないのね。
 男と交わる度に思い知らされる現実。
 廊下を自室へと向かい、歩きながらはゆるゆるとかぶりを振った。
 たった一人、この軍に身を置いている己の中にある心細さ。
 父の居ない寂しさ。
 それらを紛らわせるために彼女が選んだのは―。

 男から齎される、芯まで蕩けるような快楽。
 心も頭も真っ白になれる、一時の情交―。

 しかし。
 つかの間の情に逃げたとしても、後に残るのは何時も同じ。
 が忌み嫌っている筈の母が吐いた、あの虚しい一言だけだった…。







 は母親が嫌いだった。
 別宅にて勉強や剣の稽古を終えて家に戻ると、そこには何時も違う男が居た。
 夕餉の後、子供が寝付くのを見計らって男と扉の向こうに消える母。
 その母が部屋の中で男と二人っきりで何をしているかなんて、分別のつく歳になれば自ずと解ってくる。
 部屋から聞こえる衣擦れの音、男女の喉から漏れる艶のある吐息。
 そして、母の目を盗んで扉の隙間から覗き見た母の『仕事』。
 は「やっぱり…」と納得すると同時に、同じ女である母に吐き気に近い嫌悪感を覚えた。
 そして、十五の歳を迎えたは…これを機に家を飛び出し、この軍に仕官したのだった。
 まるで、突きつけられた事実から自らを遠ざけるように―。



 母上は…自分の身体を売り物にしている。

 だから、私には父上が ……… 居ないんだ。







 …母上と同じね。

 先程身に纏ったばかりの服を脱ぎながら、は自嘲を含んだ笑いを零した。
 金子は貰っていないけれど…男の慰み者になっている事には変わりない。

 性交を終え、満たされるのは結局男だけ。
 私の心が満たされる事はない…。
 だけど…。

 は重い腕を挙げ、己の頭に手を添えて髪をかきあげた。
 宵闇に溶け入りそうな程黒く、艶やかなそれはの手の動きに合わせて背中を無造作に流れる。
 この黒糸の髪は、母から譲り受けたものの中で、唯一好きなもの。
 紐で一つに結っていても背中で揺れ、靡く様子は宵の海を彷彿させる。
 何時か…褥で誰かが言った。
 「黒糸の海を漂っているみたいだ」と。

 そう…私は黒糸の海を持つ闇、なのかも知れない。

 ふ…ともう一度自嘲気味に笑う。
 そして、未だ身体中にある男の名残を洗い流すべく、湯殿へと身を躍らせた。













 女は宵になるとその表情を変えると言うが…。
 まさか、あいつが…。

 馬超は一緒に稽古をしている兵達の言葉が信じられなかった。
 鍛錬場の片隅で一心不乱に剣を振るうの姿を頭の中に捉え、彼らの口から語られる話を不得要領とした表情で聞いている。
 「…それは、真の話なのか?」
 「推測だけでここまで詳しい話はできませんよ、旦那。 実際俺も彼女のお世話になりましたからね」
 はは、と笑いながら馬超の猜疑心溢れた問いにさらりと軽く返す兵士。
 彼らの会話を要約すると―。

 気が向きさえすれば、彼女は誰にでも身体を開いてくれるらしい―。

 「俺も、最初はそんな事が通用するのか、と思いましたよ」
 兵士がかぶりを振りながら言い訳じみた言葉を放った。
 しかし。
 との情事は女官に手を出すより簡単で、後腐れが全くと言っていい程なかった。
 男が他の女達にこのような話をするわけがなく、勿論自身からも口外される事はない。
 それが幸いしてか…の気紛れな行動は大事に至っていない。
 目の前で驚き、口をぱくぱくさせている馬超の心中を除いては―。







 がそんな奴だったとは、とてもじゃないが考えられん―。
 先程、兵達から聞かされた話に困惑した頭の中で馬超は思いを巡らせる。





          





 あの日。
 数多くの志願者から選抜された武将の中に勇ましくも美しい女が居る、との噂を彼の護衛兵から聞きつけたのはいいが…それから戦の連続でその女の顔を見る事が叶わずに早二年の月日が経っていた。
 その噂話など、とうに記憶の隅に追い遣られていたのだが…。
 珍しく朝早く起き、眠りにより鈍った身体を奮い立たせようと鍛錬場へと赴いた馬超は…早朝の眩しい陽光に負けない程の一閃を剣から放つ一人の女の姿を捉えた。
 まるで剣舞のようにしなやかな動きを見せているが、一撃を繰り出す剣の切っ先は鋭く、触れるものを間違いなく黄泉へと誘う事が出来そうだ。
 そして、彼女の周りを取り巻くように靡く、虚無の闇を思わせるような…長き黒糸の髪。

 綺麗だ…。

 馬超の視線は暫し女の姿に釘付けとなっていたが、女が剣を振るうのを止めた事ではっと我に返る。
 女は膝に手を付いて一つ大きく息を吐くと、その視線の先に居る馬超の姿を捉えた。
 徐に剣を鞘に収め、馬超の元へと歩を進める。
 その出で立ちから、彼女がかつて噂の的になっていた女だと理解し得た。

 名は確か…、と言ったか。

 馬超はかぶりを振り、改めて女の姿を視界に入れる。
 すると。
 「おはよう…? ううん…ここは初めまして、と言った方が正解かな」
 目の前に立った女が自身の頬に流れる汗を袖で拭い、徐に口を開いた。
 よ…宜しく、と軽く拱手しながら顔に微笑みを浮かべる。
 この、蜀軍の五虎将と謳われる大将軍を目の前にしても臆する事なく笑顔を見せる彼女の姿に馬超は改めて納得する。
 先程見せ付けられた舞のような剣撃も然り、今はっきり目の当たりにする彼女の黒糸の髪と極々自然な笑顔も然り。
 そして、細い体躯を包み込むように纏っている軽装の鎧が彼女にこの上なく似合っている。

 …成程、あの噂は強ち間違いではなかったな。

 「あぁ。 初めて話をするな…俺は」
 「錦馬超様、でしょう?」
 「はは…『錦』は余計だ、。 馬超で構わん」
 「ふふ…了解。 改めて宜しくね…馬超」
 「あぁ…宜しく頼む」

 の間髪入れない切りかえしに、自然と笑いがこみ上げてきた。
 初対面の女にここまで和まされるとは、と馬超は少々驚く。
 それ程に…今の彼女には何処ぞの姫と見紛うような女らしい柔らかさが備わっていた。



 それから、馬超は鍛錬に赴くと真っ先にの姿を探すようになった。
 そして、顔を合わせると…途切れる事なく幾多の話をした。
 彼女は父親の居ない自分の身の上を恨んでいるだろうに、それを億尾にも出さず明るく振舞っている。
 時には少年のような表情を浮かべながらも、常に思った事を真っ直ぐにぶつけてくる
 その屈託のない笑顔に、何度も和まされていた。
 そして、時には本気に近い手合わせも挑まれ、困惑しながらもそれを受ける。
 手合わせの度に改めて彼女の強さを実感する馬超だったが、同時に心の中で何かが大きくなっていくのも感じていた。

 それがへの想いだと気付くまでに、そう大した時間は要さなかった―。





          





 …やはり、信じられん。
 馬超は小さく独り言を零しながらかぶりを振る。
 しかし、そんな彼の訝しげな様子を余所に兵士達の不躾な話が更に続く。
 「彼女が相手だと、闇を抱いているみたいだと言うが」
 「あぁ。 あの長く黒い髪が曲者だ…黒糸の海を漂っているような錯覚に陥る」
 「…それは癖になり」

 「…止めろ」

 話が一層の盛り上がりを見せ始めた刹那、俯いていた馬超の喉から低い声が搾り出された。
 その声からは怒りと僅かな戸惑いが感じられる。
 彼女に対して親愛の情を抱いていた彼の心中が穏やかでないのは誰から見ても明らかだった。
 しかし、制された兵士はそれに臆する事なく馬超の歪んだ表情を見据えると、やれやれと両手を挙げながら呆れたような言葉を放つ。
 「全く…一騎当千の伊達男が、女の素性を見抜けないとは…」
 「何ぃ? どういう意味だ!?」
 「そのままの意味ですよ、旦那。 何なら…旦那も一度誘ってみたら如何です? あれで中々具合がいいんですよ」

 「…だから、止めろと言っているだろう!」

 何時の間にか馬超の左手は下卑た笑みを浮かべた兵士の喉元を掴み、それ以上声を出させまいとするかのように締め上げていた。
 兵士は苦悶の表情を面に浮かべ、脚は宙を彷徨う。
 「…た…たすけ…」と己が発した言葉を悔いるように、そして懇願するように声を絞り出すその顔からみるみる血の気が引いていく。
 刹那、馬超は己が正しき義にそぐわぬ事態を引き起こそうとしている事にはたと気付き、咄嗟に兵士を放した。
 兵士の身体がどさりと尻から地に崩れ「ひ、ひぃ!!」と身体を跳ね上げると、逃げるようにそそくさとその場を後にする兵士達。
 その背中を見据えながら表情を僅かに緩め、大きく息を吐く。

 ……。

 突然、目の前に突きつけられた…噂でない、現実。
 しかし。
 馬超には、彼女の行動の中に隠された 『心』 を僅かながら感じ取っていた。
 何故、俺に隠す…?
 お前にとって俺は、何でも話せる相手ではなかったのか?
 馬超の頭の中には疑問が渦巻いていた。
 だが、同時に男の芯を痺れさせるような…不謹慎な衝動が走る。



 …
 ………俺は、お前を………。



知らず知らずのうち、馬超の足は一路の元へと動いていた―。













 は、自室に突如訪れた客人に目を見開き、驚いた。
 何故、今の時分に馬超がここへ…?
 今は宵。
 全てが静まっていると言っていい程、そこには僅かな灯りだけが存在する闇が広がっている。
 湯浴みを終え、重たくなった肢体を床に横たえていたはびくっと肩を竦めながら飛び起きた。
 そして、扉の方へと視線を向けるが…この闇の中では表情までは捉えられない。
 しかし、近付いてくる足音が馬超の心中を物語っていた。
 …とうとう、知られてしまった。
 の心がゆっくりと底へ沈んでいく。

 ―それは、自分勝手な望みだった。
 
 寂しさから逃れるように、刹那の快楽に身を委ねていた私。
 こんな私を、彼にだけは知られたくなかった―。

 今更、後悔しても遅いのは解っている。
 しかし、は思わずにはいられなかった。
 …もう少し早く、この想いに気付いていれば、と。
 俯き、かぶりを振りながら思いを巡らせると、今でも鮮明に思い出される数々の出来事。
 馬超の前でだけは、本当の自分で居られた―。
 こみ上げてくる激情にぎゅっと目を瞑って抵抗する。
 一縷の望みが絶たれた彼女は今、一つだけ、悟った。



 ―もう、元には戻れない―。







 の腕が床の脇に立った馬超の手によって拘束される。
 「…
 喉の奥から搾り出すような馬超の言葉には微妙な表情で返す。
 …今更、どんな事を言っても…取り繕うのは不可能だろう。
 彼は、知ってしまった。
 私が、簡単に男を受け入れるような、ふしだらな女だと。

 どうせ、元に戻れないのなら…。

 「…痛いわ、馬超」
 感情のない声を発し、依然手の力を緩めない馬超を拒むべく己の腕に力を入れ、心の奥底を支配する激情を無理矢理押し込んだ。
 そして、自分を蔑むような笑みを乗せて馬超の顔を見上げると、独り言のような言葉を連ねる。

 「あれは…私がやりたいから、やってるだけの事。
 あの人達から聞いたんでしょう? 私が淫らな女だって。
 幻滅した? それとも怒ってる?
 …そうよね。
 こんな最低な女、何処を捜しても他には居ないもの。
 一時の快楽に、逃げる女なんて―」

 「止めろ」
 不意に、馬超の低い声がの言葉を遮った。
 腕を掴む手に別な力が加わり、ぐらりと身体が傾くと考える間もなく床に組み敷かれる。
 見慣れた天井が違った形で再び視界に飛び込み、男が 『黒糸の海』 と例えたように長い髪が床いっぱいに広がる。
 そう…そういう事。
 は瞬間、思い至った。
 激情に抗っていた心が次第に冷めたものへと変わっていく。
 「…そう、結局貴方も他の男達と同じ事をするのね」
 冷えた心のままに吐き捨てる
 しかし。
 眼下に広がる黒糸の海を見下ろす馬超が発した言葉はの想像を大きく覆すものだった。

 「否。 俺は…今の、お前の闇に漂うつもりはない。 逃げているだけのお前を抱いても意味はないからな」
 「………?」

 …何が言いたいの?
 馬超の裏腹な行動と言葉に、の心が混乱し始める。
 女を床に押し倒しておいて、抱かないなんて―。
 「どうして? 馬超…。 貴方って、意気地なしなの? それとも…私がこんなだから、萎えちゃった?」
 言葉を空に吐き捨てながら、自嘲を含んだ笑いが零れた。
 男が本能で動かないなんて。
 …据え膳を食わないのは男の恥、じゃないの?
 しかし。
 今迄、母に植え付けられた男の本質が…今の馬超を見ていると違うように感じる。
 己を拘束する腕にも、見下ろす視線にも…何処か暖かいものを含んでいるように思えるのは気のせいか。
 すると、微かな笑い声を制するように馬超の声が上から降りかかった。
 「いい加減、本性を表せ…。 俺は、お前の本当の心ごと抱きたい」

 …どういう意味?
 本当の、心…?
 今、ここに居る私は…本当の私じゃない、って事?

 ………!

 馬超の言葉に、は驚きではっと息を呑んだ。
 確かに、今の彼女は本心を押し殺している。
 それすらも、馬超は見抜いてるというのか…?
 刹那、そんなを余所に、驚愕の表情を浮かべる顔を見下ろす馬超が口角を僅かに吊り上げた。
 そして、その口元から更に心を貫くような言葉が続く。

 「いいか、
 昼のお前も、宵のお前も、紛れもなくお前自身だ。
 しかしな。
 好きな女の本質が見抜けない程、俺は馬鹿ではない。
 兵達は宵のお前の方が本質だ、と言っていたが、俺は惑わされんぞ」

 この言葉はにとって止めの一撃だった。
 馬超が、私の事を…?
 何よりも信じられない現実が、目の前に叩きつけられた。
 一方的だと思っていたこの気持ちが、繋がっていただなんて…。
 驚きと共に、心が奥底に押し込んだ筈の激情に支配され始めるが、今度は抵抗しなかった…いや、出来なかった。
 心を逆らう事なく、素直に受け入れる。
 すると、先程迄負の方向へと向かっていたものが次々と消え去っていった。
 父の居ない寂しさも、「もう戻れない」という哀しさも、それらから逃げていた自分自身さえも…。
 知らず知らずのうちに零れ始めた熱いものが黒糸の海に溶け、流れていく。
 「馬超…貴方が、好き」
 今は、心のままに言葉がついて出てくる。
 は漸く気付いた。
 寂しさや哀しさは、逃げるものではなく…違うもので埋めるものだという事を。
 そして、彼女の心が闇から解放されていく…。

 涙に濡れた瞳が愛しい人の姿を捉えると、見下ろす顔が更に近付いた―。





 「ねぇ、馬超」
 「何だ」
 「…心の繋がった情交って、どんな感じ?」
 「…口で言っても解らん。 …これから、じっくり…時間をかけて教えてやる。 この 『黒糸の海』 に溺れながら、な」
 心が戻ったの率直な問いに少々戸惑いながら答えを返し、馬超がの髪を梳く。
 くすぐったいけど、心地いい感触―。
 は拘束が解かれた腕を馬超の首に回すと、くすりと小さく微笑った。





 「溺れるだけでは駄目。

      …私も、貴方に 溺れさせて」










劇終。






アトガキ

おっまたせしましたっ!(←何気にテンションUP
二万打御礼企画第1弾夢ですっ♪

しかし…。
奏さん、すみません…こんなんで。 orz
今回、『馬超を黒で』という指定を戴いたんですが…。
ダークなネタを書くのはベタだなぁ、と…ちょいと捻りました。

奏さん、此度は素晴らしくも難しいリクエストをありがとうございました!(←自業自得
こんなもので宜しかったらお持ち帰りください! orz

詳しい裏話は日記にて書く予定です。

ここまでお付き合いくださってありがとうございました。


2007.11.17   御巫飛鳥 拝


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