狂気と愛情の狭間で





 じっと、手を見る。

 指先を伸ばし、爪から関節に続く肌膚を眺める。

 「…不思議ですね」

 陸遜のその言葉に、が、え?と間抜け声を出す。

 「…何が、ですか…?」

 「…人間というものは、不思議だと思って」

 この、男にしては色が白いと思われるであろう肌の下に血管が通り、意志に沿って手が動く。脚も動く。

それがとてつもなく不思議なのだ、と陸遜は言った。

 「……あたしゃ、陸遜様の頭の中身の方が不思議に思えますよ…」

 「の脳味噌の中身は、きっと豆腐で出来ているのですね…」

 「……酷いですよ、それ」

 「そうですか?」

 私ほど、あなたに優しい男はいないでしょう?そう言うと、の耳朶が紅く染まった。

 健康的な、血の色だ。

 それを見るたび、いつも陸遜は思うのだ。

 生きている、というのは不可思議だ。

 この、耳の下の血管をほんの一太刀、掠めて斬ればは冷たくなる。

 二度と自分に語りかけなくなる。見つめなくなる。抱かれなくなる。それが、とても不思議だ。現実味がない。

 「生きている……のでしょうね」

 「そうですよ?」

 「私も、あなたも…」

 陸遜様、疲れてるんですよ。そんな事を言い出すなんて。

 のその言葉に、彼女の膝の上に頭を預けながら、陸遜はそうかもしれないな、とぼんやり思っていた。

 呂蒙がこの世を去り、ほんの未熟な……成人の儀を終えてほんの少ししか経たぬ自分が呉軍の軍師になった。

 その重圧は、それと気付かぬうちに自分の心を蝕んでいるのだろうか。

 雨が、長い年月を掛けて岩石をじわじわと浸食していくかのように。

 「…少し、眠った方が良いですよ?陸遜様」

 「……では、あなたが寝かしつけてくれますか?」

 ぶっ、と頭上で色気のない声が、した。

 「コワ。陸遜様がそんなコト言うなんて」

 「…明日、書庫の整理を一人でしたいですか?」

 あの膨大な資料を綺麗に片付けますか?何でしたら今にでも、と言いさす上官に、は唇を尖らせた。

 「分かりましたよ…で?子守歌でも、歌いましょうか?」

 「音痴のあなたに歌われたら、十日は不眠に悩まされます、私は」

 見なくても、が見事な膨れっ面をしたのが陸遜には分かった。くすくす、笑いながら彼は起き上がる。

 「…ばかですね…は……」

 「そん……な事は…ない、ですよ…」

 「夜に私とあなたがする事なんて……決まっているでしょう……?」

 眠る為に、する事といったら。

 これしか、ないではないか。

 そう言い、唆すように……誘うように、陸遜はに淫らな相談を持ちかける。

 お互いの呼吸を乱し、声を上げ、肌が汗ばむまで。

 心拍数が上がり、目が眩み、理性が飛び………二人だけの、二人しか知らない場所に辿り着くまで。

 夜が、白むまで。

 今の陸遜には、安寧と呼べる睡眠に到達するには、これしか手段がないのだ。

 二人だけの、二人しか知らない真夜中の密談。月しか垣間見られぬ、かそけき蜜事。

 そう、これしかない。

 何もかも忘れて眠るには、これしかない。

 「……陸遜様」

 お決まりの、生命の種を吐き出す所作は、『お決まり』なのにどうかすると癖になる。

 味を占めるとどうしてもそれに手を出さずにはいられないような。麻薬のような。

 汗が引いたお互いの皮膚が触れ合う、ただそれだけで心地良いと自分が感じるなんて。

 そう思い、目を細めながら、陸遜は仰向けに転がった。

 「……風邪、引いちゃいますよ……陸遜様…」

 自分に組み敷かれていた時とは違う、いつもののぼそぼそとした、色気のない声を聞いていると、不思議に心が落ち着いてくる。陸遜はくすり、と笑った。

 「このままで……いいですよ…」

 「…な、なんか着て下さいよ恥ずかしい……」

 「睦事の後に、そうゴソゴソされる方がよっぽど、恥ずかしいです」

 「そ、そうは言ってもですね……」

 「……動くと」

 敷布が、汚れますよ?その陸遜の悪戯っぽい言葉に、はぎろっ、と彼を睨んだ。

 「…だ、誰のせいですか!そうなるのは!」

 「私一人のせいだとでも?」 

 ひぃ、と意味不明な声を上げ、『後始末』をしようとする無粋な恋人の腰を捕まえ、問答無用で陸遜は

彼女を横にさせた。

 「…いいから…………おいで」

 「うう…あ、明日も早いじゃないですか、あたし達」

 そうだった。

 そのの言葉で、陸遜は鉛を我が胸に押し込まれた気分になった。

 明日は、君主と臣下達を前に、口を酸っぱくして説明しなければならないのだ。

 どうすれば、勝つか。

 どのような手を講じれば、敵を撃滅出来るか、と。

 (気が重いですが……仕方が、ないでしょうね)

 ひとつに纏めたままの、素っ気もないの黒髪を指先で弄びながら、陸遜は明日の軍議は荒れるだろうな、と思っていた。

 蜀は、本気だ。

 本気で、呉を潰す気だ。

 忘我に目を覆われた大徳の、報復と称すにも生温い殺戮がやって来る。

 「…やっぱり……あの計は、朱然様にお任せになるのですか?」

 「おそらく。そうなるでしょうね…」

 「…大丈夫でしょうか…」

 「…甘寧殿が、それこそ死ぬ気で朱然殿を守るでしょうよ」

 それより、と陸遜は目を据わらせた。

 「せっかく……佳い心持ちになっていたのに、あなたというひとは…」

 「う…あ、だって…」

 「…仕事の話など。此処で…閨で聞きたくもない。止めて下さい」

 今だけは。

 そう、今だけは……。

 生きている、という事を実感させて欲しい。

 あなたのこの熱も、吐息も、匂いも、味も、すべて、この世のものだという事を、思い知らせて欲しい…

そう呟いた陸遜に、は言いにくそうに答えた。

 「あのぅ…」

 「…何ですか…?」

 「…う、あ、いや…何でもないです」

 「そうやってわざと気を持たせるのですか。何です、一体」

 もしかして。

 ややこでも、出来ました?と、嬉しそうに訊いてきた上官兼恋人を、彼女は奇声を上げて制す。

 「なっっっにを言ってるんですかっっ!ちゃいますよっ!!」

 「はいはい。だから何です」

 あたしを、朱然様の護衛に。

 鼓膜に届いたその言葉の羅列に、陸遜はの肌に旅立たせていた指を、ぴたり、と止めた。

 「…何故?」

 「……何故って…」

 火計という大役を担う部隊には、少数でも精鋭の兵が必要になってくる。

 は女ながら、素晴らしい槍の名手だった。

 そんな彼女が、重圧と危険に晒される隊の保守を務める事は、さして不自然ではないだろう。

 彼女も、おそらくそういう考えから言ったものと思われた。

 陸遜の護衛武将であるが、彼に命じられて火計の任を与えられた朱然の守護に当たる。

 それはおかしな事ではない。

 だが。

 「…死ぬ気ですか」

 「違いますよ、ただあたしは」

 「……何を考えているのですか?」

 静かに、陸遜は詰めた。

 の、剥き出しの肌が、かすかに粟立つ。

 「どうしてそんな事を?」

 「ど…どうしてって」

 そんなに死に急ぎたいなら。

 今、私がそうして差し上げましょうか。

 その陸遜の言葉は穏やかで、優しげでさえある。

 だから、恐らく聞く者は、陸遜の冗談かと思って半笑いをするだろう……誰も知らない陸遜の『顔』を、骨の髄にまで刻まれたこの以外は。

 の表情が、陸遜のその穏和で剣呑な言葉を聞き、色をなくす。

 「……そ、それは…」

 「そんなに死にたいなら、この場で、殺してあげましょうか」

 頭が悪くて、がさつで、大女のが、陸遜は初めは疎ましかった。

 あんな女はどうなってもいい、死のうが怪我をしようが、自分には関わりのない事。

 そう思っていた相手を、今、陸遜は心の底から愛している。

 半身として、求めている。

 出来る事なら、動けぬように手足を斬り落とし、目もくり抜いて自分以外の気配を探れぬよう……何も見えないようにし、首に鎖を付けて自分の閨にだけに棲まわせたいと思えるほどに。

 いっそのこと、この手に掛けてしまいたいと思えるほどに。

 「…り…陸遜、様……」

 「…どうして、そんな事を言い出すのですか…?」

 ほそい、ほそいの首。

 ほんの一太刀、掠めて斬ればこときれるであろう、弱々しい生命の流れを宿す首筋を、陸遜は掴んだ。

 「…そんな…事は、させません…」

 「う…ぁっ…?り、陸遜さ……っ…」

 「そんなに戦いたいのですか?そんなに死に急ぎたいのですか?そんなに私から離れたいのですか?そんなに私から………私から逃げたいのですか!」

 強かった父も。

 優しかった母も。

 憧憬の全てであった周喩も。

 自分を導いてくれた呂蒙も。

 みんな…みんな、去っていった。

 そしてまた…でさえも………?!

 そんな事は嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ………!

 「……っ……」

 ふ、と。

 頬に、何かが触れた。

 あたたかい、あたたかい、何かが。

 の、手だった。

 首を絞められても尚、そっと触れてくるの手だった。

 (………あ!)

 力が、抜けた。

 ごほごほ、とは俯せになって咳きこむ。

 その白い、しみ一つない背中を、陸遜は呆然として見つめていた。

 何をした?

 今自分は何を………。

 「…も、う…!陸遜様ってば……ぼ、ぼ、暴力反対ですよ……」

 「……」

 は真っ赤な顔でげへげへと咳をして、こらっ、と言うように軽く陸遜の額をぴしゃっ、と張った。

 「もう!痕、付いちゃったらどうすんですか!シャレになんないですよっ!」

 「……、私は……」

 「加減、ってもんを知らないんですかアナタ様は」

 ぷりぷりしてそう言い、はあー苦しかった、と首を撫でた。

 そこに、陸遜の激情をしっかりと、残して。

 「あたし、半端な気持ちで言ったんじゃないですよ」

 それを、彼女はけろり、とした顔で言った。

 先程の無体には何も触れず。

 まるで、この部屋で陸遜を相手に雑談をしているような、いつもの様子で。

 「……許可、出来ません」

 「どうして」

 朱然は、玉砕覚悟と笑っていた。

 孫呉の為に死ぬるは本望。陸遜殿、どうか私に名誉をお与え下さい、と。

 そんな、吹き出すくらいの愚直な男の護衛など、させられるか。

 せいぜい、盾代わりにさせられるのがおちだ。

 大事な、大事な、愛しい人を死地に追いやる、など!そんな事は出来ない!

 「大丈夫ですよ」

 「何が…ですか!」

 「あたし、死にませんから」

 「どうして…!」

 思わず、かっ、となって叫んだ陸遜の唇に。

 は、そっと指先を当てた。

 先程の彼の狂乱を一瞬で冷ました、あたたかい指先を。

 「死にません」

 「!冗談を…」

 「冗談じゃないですよ?」

 くすり、とは笑った。

 「陸遜様も前に言ってたじゃないですか……は、槍で突こうが崖から突き落とそうが死にません、って…頑丈なだけが取り柄なんです、って……ね?」

 「……嫌です」

 「駄々をこねないで。ね?それに」

 陸遜の部隊からも、そういう危険な任務を背負う人間も、出さねばならない。

 それをはきっぱりとした口調で言っていた。

 「自分達だけ、安全な場所で高見の見物、なんて出来ないでしょう?あたしが、行きますから」

 「……」

 「だから…ね?」

 あたしを、行かせて下さい。

 朱然様の所へ。火計を成功させる為に。

 あたし達の未来を、明るく照らす為に。

 「あたし、死にに行くんじゃありません。陸遜様の、力になりに行くんですよ?」  

 知ってます?陸遜様。そう言って、彼女は彼の胸にもたれた。

 「夷陵、ってね、この時期半端なく寒いらしいですよ?だから……あったかくなりに行きましょ。一発、派手にどかーん、と火を起こして!ね?」

 「……それは…さぞかし、大がかりなものでないと暖まらないでしょうね…」

 「でしょ?」

 を、引き留める事は出来ない。

 それを、陸遜は感じた。彼女は言い出したら聞かないひとだから。

 行かせたくない。生存率は低すぎるほど低い。敵の懐深くに入り込むのだ、当然だろう。

 だが。

 「…約束、してくれますか……」

 必ず、生きて帰ると。

 必ず、笑顔で自分の許に帰ってくると。そう言うと、はにっこりと、笑った。

 陸遜の惑いを、恐れを、逡巡を、狂気を……すべて、包み込むその笑顔のまま、答えた。

 「ええ。お約束、致します」

 「ばかな失策をして、怪我などしたら許しませんからね」

 「しませんよ!」

 「……約束、しますね?」

 「はい」

 では。

 あなたがまずする事は、ただひとつ。

 「…私を、暖めて下さい」

 「……う、そう来ますか…」

 「すっかり、冷えてしまいました」

 「あ、ちょっ……な、にを……」

 「暖かくして……いえ…私を熱く……して下さい………」

 あなたの、中で。

 いつものように。

 そう言って、陸遜はを押し倒した。

 陸遜達、呉を支える気鋭の将達が夷陵に進軍する、それがちょうどひと月前の夜の事であった。




  *** FIN ***






↓↓↓新城様のアトガキ↓↓↓

 リク頂きました陸遜夢、でございます。
 夷陵の戦いの前夜、お相手は彼の護衛武将、という設定です。
 ……すいません、げ、限界でゴザイマス……ばたっ(なんつうベタな表現…)。
 狂気と愛情、って、全く相反するようでいて似通っているような気が。
 そういう、ギリギリすれすれの危うさが、陸遜にはすごく似合う気がします。
 ……すいません、寝言です。戯れ言です。
 飛鳥様、不肖の子ですが、貰ってやって下さい。
 リク頂きまして、楽しく書けました。ありがとうございました。

 新城まや 拝



↓↓↓ここからは管理人のアトガキ↓↓↓

新城様w 此度は私めのリクエストにお答えくださってありがとうございます!
しかも、私のとんでもねぇお題(!)に忠実にっ…!!

私、瑞樹はおパソの前で逝きそうになりました(何 処 へ

今回は新城様のお書きになってるりっくんバージョンで。
お題を提供させていただきました。
相互記念てな感じですねw

まずはお見事!と。
私のツボをしっかり突いてくれましたねぇwww
おかげで…私の長年のコリがほぐれました。
いい夢を見させていただきました!!

新城様のアトガキにもある『相反するようで似通っている』。
その辺が書かれていて素敵!
そして、りっくんの危ういまでの愛情…。
「おいで」って………!!!(落ち着け、自分

長くなりましたが。
新城様…此度は本当にありがとうございます!
今後とも…末永く宜しくお願いいたします。

2007.1.11  飛鳥 拝礼



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