想いは暁とともに… (前編)











貴方から…この地から離れる。

予期せぬ事に…貴方は驚くでしょうね…。

でも。

今の私にはこうする他に成す術がなかった…。

許してください。



それでも…。

私は…。















「この世の誰より、貴方を想っています。」















様…そろそろお休みになりますか?」

「ん〜…そうね。 貴女ももういいから休んで。」

は鏡台に向かって自身の髪を梳きながら鏡に映った女官に向かって微笑んだ。

その言葉を受け、女官はの背中に微笑を返す。

「ありがとうございます…ではこれで失礼致しますわ。 おやすみなさいませ、様」

「うん。 おやすみ」

室の扉が静かに開き、そして女官の一礼の後、静かに閉じる。







ここはの自室。

普段から派手な生活を好まない彼女の部屋は極々小さく誂えてある。

しかし、壁や床の装飾はこの小ぢんまりとした室に不釣合いな艶やかさを放っていた。

その装飾品の数々は殆どが兄である夏侯淵や…幼馴染であり恋仲である夏侯惇からの贈り物で。

はあまりの派手さに内心辟易しながらも時折嬉しそうにそれらを眺めているのだった。







髪を梳いていた櫛を鏡の前にそっと置き、は床へと踵を返した。

すると。





ごと…っ

ごそごそ…





扉の向こうから聞き慣れない音が聞こえる。

「何…? どうしたの?」

は訝しげな表情で床へと向けた足を扉の方に向け、歩み寄った。

刹那、目の前の扉が静かにすっと開いた。

視界に飛び込む黒い人影。

その見知らぬ顔にははっと息を呑んだ。





…間者!?





その存在を認めた瞬間、彼女の身体は間者の腕によって完全に拘束された。

間者の手で口を塞がれ、声を上げる事もできない。

は間者に羽交い絞めにされたまま室の中程へと引き摺られた。

そして、従うように扉の外からもう一つの影が現れ、部屋の扉を内側から静かに閉めた。

その影が言う。

「貴女が夏侯淵殿の妹君であることを承知の上でお話致す。 …どうかお声を上げられませぬよう」

「むーむー!!!!!」

影の言葉に納得できないのか、はなおももがき続けている。

しかし、影は構わずに続ける。





「此度はさるお方から命を受け、参上致した。

そのお方は………貴女のお力を欲しておられる。

我々は貴女の身柄を拘束し、そのお方の下へ連れて行かねばならぬ。

さもなくば…我々の命が危ういどころか、貴女の兄上…更には軍全体の存続にも関わる。

直ぐにでも大軍を率いて攻め込む覚悟、とのこと。

どうか、我々について来ていただきたい」





間者の腕の中で暴れながらも、は影の言葉を一言一句逃さずに聞いていた。

そして、はようやく自分の置かれた状況を把握したが、納得したのか…しないのか。

その顔に苦虫を噛み潰したような表情を湛えながらも身体の力を抜いた。

瞬間、の唇から間者の手が離れる。

はようやく自由になった気道に思い切り空気を流し込むと、その口から極々小さな声を出す。

「………私の力?」

「左様。あのお方は間違いなくそう言っておられた」

「その力って…何?」

「………それは我々の方が訊きたいくらいだ。あのお方はそれ以上貴女の事を口にしないのでな」

「そう…それで、私が行かないとどうなる、と?」

「今申したように…この館に大軍が押し寄せてくるであろう。戦の準備もまま成らぬ状態では…幾ら猛将と言えど一溜まりもない」

「………」





妙才兄様…元譲…。

私…どうしたらいい???





困り果て、押し黙ったまま俯く

しかし、間者どもはに一時の猶予も与えないようだ。

影が追い討ちをかけるように言い放つ。

「あのお方も気の短いお方だ…貴女が躊躇しておればそれだけ危険も増す事になろう…」

「ちょっ…ちょっと待って」

やっと声を発したの表情は何処か儚げではあったが、しっかりとした決意がきゅっと結んだ唇から読み取れた。

「…私が行けば…こちらには危害を加えない、そういうこと…」

「…左様。………で、どうなさるおつもりで?」

影の問いに答えず、は棚から書簡を出し、白紙の面をさらり、と出す。

「このまま黙って館を出ると…兄様達も心配なさるでしょう。一つ文を書かせてくださいな」

はそう言うと硯に墨を出し、文を書き始めた。





     妙才兄様。
     私はこれからあるお方の下へ参ります。
     そのお方は…私の力を欲しているとのこと。
     その意味が私には解りかねますが。
     とりあえず話だけでも聞いてみる事に致します。
     私が行けば…軍や私には危害を加えないということなので…
     どうか心配なさらないで。

     追伸。
     元譲に伝えてほしい事があります。

     貴方から…この地から離れる。
     予期せぬ事に…貴方は驚くでしょうね…。
     でも。
     今の私にはこうする他に成す術がなかった…。
     許してください。

     それでも…私は…。
     この世の誰より、貴方を想っています、と…。





書簡を丁寧に閉じると、はようやく影に向かって微笑んだ。

「…ありがとう。 では…参りましょうか」







が去った後の部屋は…主が居なくなった事で何処か寒々としていたが。

机の上に置かれた一つの書簡にはまだ温もりが残っているようで。

それは、ただ静かに…再び開けられる時を待っていた………。









「…何だと!」

緊張の糸が張り巡らされたように静まり返った室。

その室内に激しい怒号が響き渡る。それはこの場に居た全ての者が軽く「ひっ」と声を上げる程の激しさだった。

「お前達が護っていながらこの醜態とは…っ!の身に何かあらば…どうしてくれよう!」

夏侯惇は、からの文を握り締めながら声を荒げる。

その態度からも傍に居る夏侯淵より狼狽している事が容易に判断できた。

「惇兄…そこまで言わなくてもいいんじゃないか?」

「…お前は黙っていろ! 大体お前もだな…」

肩にかけられた夏侯淵の手を振り払い、更に声を上げようとする夏侯惇。

刹那、その二人の背中に低く、冷静な声が響いた。

「…うろたえるな、夏侯惇よ。 見苦しいぞ」

二人が振り向くと、開け放たれた扉の前に一つの影が姿を見せた。

その影は、夜明けの僅かな光を背に受けながら雄々しく立っている。

「………孟徳」

「…殿!」

影で顔は見えなくても、その存在感は流石なもので。

彼−曹操−の一声で狼狽する二人の気持ちが水が引くようにすっと落ち着いた。

曹操は、夏侯淵からの伝令を受け、直ぐに馬を駆ってこの館へと駆けつけたのだが。

夏侯惇のあまりにも酷い狼狽振りに、その表情に苦笑を入り混ぜていた。

「孟徳! が…」

「よい。 話は伝令から聞いておる」

縋る様に言い寄る夏侯惇の言葉を制し、曹操が言う。

そして、衛兵達と夏侯淵の顔を交互に見据えながら指示を出す。

「おぬしら…此処はもうよい。 一先ず部屋で待機しておれ」

「殿…ですが…」

「…よい、と言っておる。 早くせんか」

「…はっ!」

曹操の静かな中に計り知れない威圧感を感じた衛兵と夏侯淵は「失礼します」と言葉を残し、そそくさと室を出て行く。

それを横目で見ながら夏侯惇は項垂れたまま一つ溜息をついた。

「すまない…孟徳」

「否、おぬしが謝る事はない。 此度の事はわしの落ち度でもあろうからな」

「何故、孟徳の落ち度…だと?」

「…うむ。これはおぬしにも話していなかったことだが…」

曹操はそう言うと、閉じきっていない扉を自らの手でしっかりと閉めると、夏侯惇に床に座るよう促した。

そして、言われるがまま床に座った夏侯惇の隣に腰をかけ、極々小さな声で話し始めた。





「実は先日送っていた間者が帰還した時に…気になる事を申しておったのだ。

先方の大将がを欲しておる、とな。

わしはその時、直ぐには動かんだろうと高をくくっておった。

しかし…このような事になろうとはな…。

故に、これはわしの落ち度でもある。

…夏侯惇よ、すまなかった」





「孟徳、お前が謝る事はない…」

夏侯惇はそう言うと項垂れていた顔を上げ、自身がに贈った床の装飾品を見つめた。

二人の間に暫し虚無の時が流れた………。







は今頃………否、しかし…直ぐにどうするという事もないだろう」

夏侯惇はぽつりと独り言のように呟くと、ふるふると頭を振った。

すると、曹操は僅かに表情を緩め、夏侯惇にその顔を向ける。

「……これ程までに欲した女だ。 わしならば、直ぐに手を付けるであろうがな…」

「………!!!」

言葉もなく驚愕の表情を見せる夏侯惇。

刹那、傍らにあった自身の得物『滅麒麟牙』を手にすると、床から立ち上がり扉に向かって踵を返した。

その様子を静かに見ていた曹操は、にやりと口の端を吊り上げた。

そして、夏侯惇の行動を抑え付けるような張りのある声で言い放つ。

「夏侯惇よ…その態度、如何にもおぬしらしいが。 今は個人で動く事は許さんぞ」

曹操の言葉を受け、歩を進めていた夏侯惇の足が止まる。

そして、厳しい表情のまま曹操の方を振り返ると、言葉の主の様子に唖然とした。

今にも戦を始めようとするかの如く、きりりと引き締まった武人の顔。

武人と化した君主は更に続ける。

「夏侯惇よ…直ぐに戦の準備だ」

「これしきの事で…孟徳、お前が出ることはない」

「否、これは雌雄を決さんとする矢先の話だ…今こそ好機」

曹操が床から立ち上がり、夏侯惇の隣に立つ。

その顔を見据えると、夏侯惇は曹操にも解るようにしかと頷いた。

「孟徳。 お前の力…暫し借りるぞ」

「…構わん」

曹操はそう言うと、扉をさっと開けて勇ましい足取りで室を出て行った。

閉め切らない扉の向こうで曹操の声が響き渡る。





「直ちに戦の準備にかかれい!

此度は騎馬隊のみで出陣する!

我が軍の駿馬を集めいっ!」





の部屋に一人残された夏侯惇は、立ったまま目を閉じ、曹操の頼もしい発破を聞いていた。

しかし、意を決したようにかっと目を見開くと滅麒麟牙をその手に握り直し、室を出る。

そして曹操を追うように廊下を勢いよく歩きながら呟く。





「待っていろよ。

奪われたものは…必ずこの手で奪い返す!

…。





俺もお前を、誰よりも………」









それから数刻後。

戦の準備で慌しい中…曹操の自室では。

曹操と、その奥方が戦の支度をしながら話をしていた。

「…孟徳様。 夏侯惇様は本当に様の事を心から愛してらっしゃるのね」

「あぁ…あやつの気持ちは手に取るように解る。此度の事であやつも改めて解ったであろう。
が如何に大事な存在か、という事がな」

「………孟徳様も私だけの事を愛して下されば宜しいのに…」

「…何だ?何か申したか?」

「いえ………。
ただ、余計な事を考えずに愛し合うことが出来るあの方達が羨ましい、と言っただけですわ…」







時は今や出立まで数刻というところまで来ていた。

空は何時の間にか茜色に染められ、地には広場に繋がれた駿馬達の長い影が空の紅と見事な対比を見せていた。



これから…長い夜が始まろうとしている。









後編へ続く。




アトガキ

見事なドタバタ… orz
智弘様、なかなか手強いお題、ありがとうございます…(こら
そして、2つ戴いたお題、前編と後編に分けるという形で続き物にしました。
スンマセン…勝手な行動、今後は慎みます orz



今回は書き慣れたヒロインとはちょっと違う、大人しいけど気丈な娘をヒロインとしました。
前編ではチョイ役扱いになっちまいましたが(汗
後半では間違いなく活躍してくれるでしょう…。

しかし…。
やっぱり惇兄は書きにくい(汗
孟徳の方が書き易かった…(更に汗

因みに。
今回の作品も情報屋の力を少々(?)借りております。
メインタイトル『想いは暁とともに…』も情報屋がつけてくれたものです。
詳細は日記で…(汗


てなわけで。
智弘様〜やっと出来上がりました〜w
お題に沿っているかはかな〜り微妙ですが。
宜しかったらお持ち帰りください☆
(切願中!!!!!)



そして、ここまでお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!



2006.10.3     御巫飛鳥 拝

使用お題(相互記念お題) 『この世の誰より、貴方を想っています』



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