想いは暁とともに… (後編)
〜 あの空の向こうから、明日がやってくる 〜
「…吐き気がするわ」
は室の天井を見上げたまま数刻、ぼんやりとしていた。
此処が何処なのか解らない。
間者に従い館から出立した途端…目が布で覆われ、視界を遮られた。
そしてそのまま馬に乗せられ、数刻後…。
この室に入った時にようやく目隠しが外され、視界が戻ったのだ。
先程呟いた言葉はが室の中を見渡して初めて発したもの。
今居る部屋は、が普段一日の大半を過ごしている部屋に比べると、途方もなく広かった。
更に、壁や床に飾られている…如何にも卑しい女共が好みそうな装飾品や調度品のあまりの派手さ。
それに彼女は心身共に嫌悪感を抱いたらしい。
それから何かある毎に天井を見上げ、物思いに耽る。
まるで心安らぐものが其処にしかない、と思わせる程に。
トントン…
不意に扉を叩く音が静かな室内に響いた。
天井を見ていたは気だるそうに顔を扉に向ける。
「…どうぞ」
の返事を皆まで聞かず、部屋の中に入ってきたのは一人の兵士だった。
「失礼致します。 …貴女に伝える事があって参上致しました」
「………今は誰とも話をしたくないの。 後にしてくださらない?」
「申し訳ありませんが…この事は直ぐに伝えろ、とのお達しでして」
「…そう。 それなら早めに済ませてくださいな」
「…承知致しました」
兵士はそう言うと、立ったまま微動だにしないの前に跪き、口を開く。
「今夜、我らが殿が貴女から直々に話を聞きたい、と仰せられました。
後に女官を出向かせますので…支度をして待つように。
…とのことです」
は兵士の言葉を溜息混じりに聞いた後、目線だけを兵士の方に向けた。
「そう、解ったわ。 …用件はそれだけ?」
「はい」
「…ならば此処には最早用はない筈。 直ぐに出て行ってくださらないかしら」
扉を指差しながら言い放つの静かな中に潜む威圧感を感じたのか、兵士は直ぐに「はっ」と答え、立ち上がると逃げるように部屋を出て行った。
此処の大将は私から何を得ようとしているのかしら?
は天井を見上げたまま考えていた。
間者は自分の力を欲している、と言っていた。
自分の中にどのような力があるというのだろう…?
幾ら考えてもには解らない。
しかも、誂えられた部屋の派手さに加え…先程兵士が自分に伝えた言葉。
『女官を出向かせる』?『支度をして待つ』?
そこでは思考を止めた。
………嫌な予感が頭を過ったからだ。
言い知れぬ不安に駆られたその時。
部屋の外にいる衛兵の会話が小さいながらもの耳に入ってきた。
「…姫さんも可哀想だよな」
「あぁ…何も解らずにこの部屋の中に閉じ込められてるんだもんな」
「否、案外解ってるかも知れないぞ…
だってよ、中の装飾を見たことあるだろう? …普通の捕虜だったらこんな部屋には通さないだろ」
「あぁ、そうだな…普段は殿の夜の別室として使われているからな、此処は」
「殿もお盛んだよなぁ…羨ましいよ、俺は」
「「はははは…」」
やはり………。
そういうこと…なのね。
偶然なのか否か、衛兵の会話から全てを察した。
しかし、不思議な事に彼女の心の中には怒りや恐怖などの感情が訪れなかった。
自分の中にある『力』なんて…そんなもの。
夏侯淵の妹…夏侯惇と恋仲であるが故に彼らの足手纏いになっている、と彼女は感じたらしい。
項垂れ、一時思案した後…意を決したのか服の懐から何時も身に付けている短刀を取り出す。
そして、それを鞘から抜き、身を震わせる程冷たい光を放つ刃身を見つめながら呟いた。
「元譲…。
この刀、ようやく役に立つ時が来たわ…。
貴方の望む形ではないでしょうけれど、ね…」
手にした刃を自身の喉元に当てる。
すると、思った以上の冷たい感触には一瞬息を呑み、そして躊躇った。
『最期に、一時の、幸せを………』
その心は過去へと深く降りていく………。
隣国との度重なる小競り合いもようやく落ち着き。
久し振りに休暇を得た夏侯惇は、以前から「買い物がしたい」と言っていたを連れて城下の街まで降りていた。
その大きな通りの中程に小奇麗な飾り物の店を見つけたは…
途端に普段滅多に見せない軽やかな足取りで夏侯惇を中へと引っ張っていく。
「ねぇねぇ元譲! この髪飾り、可愛い! …見て、こっちの簪も綺麗ね!」
と店の商品を次々に手に取って奇声を発する姿はそこらに居る少女と変わらなく、無邪気だ。
一方、夏侯惇はに手を引かれるがまま所在なさげに歩くだけだったが。
その心には不快感が全くなく、寧ろの無邪気な姿に幸せすら感じていた。
しかし、これ程までにはしゃがれると流石に目立つ。
少々気恥ずかしくなった夏侯惇はの腕を掴み、身体を自身の方へと引き寄せると…彼女の耳元に軽く諭すような言葉を吐く。
「…、もう少し静かに見て回れんか? 気恥ずかしくて堪らん」
「!! …ごめんなさい。 久し振りだから、つい…」
はっと息を呑み、夏侯惇の顔を見上げて顔を赤らめる。
夏侯惇はその表情を見ながらに対して更に愛おしさを感じた。
しかし、同時に言い知れぬ不安な気持ちも心の底からふつふつと沸いてくる。
を抱き締めた腕をそのままに、一瞬だけその顔を伏せたが直ぐに彼女の顔を見つめて
「…ここでの買い物が終わったら…俺の買い物にも付き合ってくれ」
と一言零し、の身体をその腕から解放した。
は突然聞かされた夏侯惇の言葉に「ん?」と小首を傾げたが。
直ぐに笑顔に戻り「うん!」と大きく頷くと、再び店内の商品を物色し始めた。
「うむ…これは少々重いか。 ならばこちらは…」
店に並ぶ商品を真剣な眼差しで手に取りながら思案しているのは夏侯惇。
それを後ろから先程買ったばかりの荷物を抱えながらてくてくと健気について回るのは。
買い物をする側と付き合う側。 …先程とは立場が全く逆になっている。
此処はあらゆる種類の武具が立ち並ぶ武器屋。
夏侯惇は店に入るなり直ぐに短刀の並ぶ場所に歩み寄り、長い時間物色していた。
その真剣な姿には何らかの違和感を感じ、夏侯惇の服の袖を引っ張りながら訝しげな顔を向ける。
「ねぇ…何を探してるの?」
「…見て解らんか。 護身用の刀だ」
「それくらい解るわよ…。 それを何故元譲が探してるのか、ってことよ。 貴方には『滅麒麟牙』があるじゃない」
「…うむ」
の疑問に曖昧な答えを言いつつ様々な短刀を手に取り、また戻す…という動作を続ける夏侯惇。
そして、あまり装飾の施されていない『滅麒麟牙』に近い形の短刀を手に取り、暫し考えた後。
「うむ。 これなら左程力がなくとも充分に振るえるだろう」
と一人で納得し、頷くとそのまま店主の元へと速い足取りで歩いて行ってしまった。
「待たせて悪かった」
夏侯惇が勘定を済ませ、店の外へ出ると。
「元譲。 何で短刀なんか買ったのよ」
手持ち無沙汰で待っていたが直ぐに詰め寄ってきた。
その目には何とも言えない猜疑心が満ちていたが。
夏侯惇はそれを左程気にも留めず、黙っての身体を自身の方に引き寄せた。
すんなりと力強い腕に包まれる。
そして次の瞬間、は腰帯の辺りに硬い物が差し込まれる感触を感じた。
「えっ…? 何?」と夏侯惇の顔を訝しげに見つめるに構わず、夏侯惇は
「うむ………。 悪くない」
と何かが差し込まれた腰帯の辺りを眺めて、満足したように一つ頷いた。
は合点がいかないのか。
むぅ、と少々むくれた様子で一つ溜息をつき、「何なのよ…もう」と言いながら自身の首を後ろへ捻る。
すると。
腰帯から覗く短刀の柄がの視界に飛び込んできた。
「元譲…これって先程の…」
「あぁ。 それはお前の刃だ」
夏侯惇はの視線を自身のものと絡ませ、片手をの頬に添えながら満足げに言葉を続ける。
「。 これならば…いざという時にお前自身の身を守ることができよう」
夏侯惇の思い掛けない贈り物と一言には戸惑いながら。
先程よりも更に訝しげな視線を彼に投げつける。
「身を守る、って…。 それじゃ、元譲は私の事を護ってくれないの?」
の何とも可愛らしい問い掛けに夏侯惇は先ず軽い口付けで答えた。
「………!」
そして、の黒く艶やかな髪を優しく撫でると今迄重くなっていた口を開き、言葉を重ねる。
「。 …お前の事は死ぬまで護ってやる。
だが…この先、俺の手がどうしても届かない時が来るだろう。
そのために持っていろ。 それでお前自らの身を守れ」
は夏侯惇の言葉を聞き逃さないように真剣に聞いた後、先程腰帯に差し込まれた短刀を手に取り、その刃を鞘から抜いた。
その刀身は滅麒麟牙より細身の印象をうけるが、切っ先に向かうにつれて身幅が太くなっていく。
短刀の柄は手元に向かい彎曲しており、の手にも良く馴染んだ。
全体の重量は軽いが、振るうと先端に重量がかかり、あまり力のないの腕でも重い一撃を与えることが出来そうである。
神妙な面持ちで刃の切っ先に視線を落としていただったが。
何かを決心したかのように大きく息をつくと…夏侯惇の顔を真っ直ぐに見据えながら言い放つ。
「それじゃ…元譲、貴方が身を守る方法を教えてよ」
の声は武人の血筋の人間らしくきりりと引き締まっていて。
夏侯惇は彼女から内に秘めた強さを感じた。
それを受け、から目を逸らさずに自身の顔をずい、と近付けながら言う。
「自身の身を護るための武芸か…よかろう。 教えるからには厳しくするが…覚悟しておけ」
は彼の言葉に一つ頷き、
「えぇ…解ったわ。 …お手柔らかにね」
と彼の前では滅多に見せない表情を夏侯惇に向けた。
…。
何故弱気になっていたんだろう…。
このような事…元譲が許してくれる筈ないのに。
夏侯惇から贈られた短刀を手に、は項垂れ、きゅっと唇を噛み締めた。
一瞬でも『自らの死』を選んだ自分を恥じるかのように。
そして、再び顔を上げた時…彼女からは弱い部分が微塵も感じられなかった。
刃を鞘に戻し、それをあの時のように腰帯に差し込むの表情は既に引き締まっていて。
空いた両手を握りこみ、扉を見遣る。
元譲…。
貴方がこのまま引き下がるわけ、ないよね。
きっと………来てくれる。
私…信じてるから。
辺りは既に薄暗くなり始め。
の見つめる扉の隙間から茜色の光の筋が部屋の中程まで伸びていた。
宵の闇はもう直ぐ其処まで迫ってきている………。
「………?」
は床から身を起こした。
自身の気持ちに安心したのか…彼女は暫し転寝をしていたらしい。
それが不意に訪れた騒々しさに自ずと目が覚めた。
扉の隙間から漏れる光は既になく、部屋の中にも一つの闇が存在していた。
は目を擦り、鈍った頭を振って眠気を払い落とす。
そして、耳を扉に近づけ…騒がしい廊下に神経を集中させると。
遠くから兵士達の高い声が微かながらに聞こえてきた。
「敵襲だ! 曹操軍が攻めてくるぞ!」
「何っっっ!! 速すぎる!」
「しかも…先頭には曹操をはじめ、夏侯惇や夏侯淵の姿もあるらしいぞ!」
「…まずい! 直ぐに迎撃だ! 他の者にも伝えろ!」
…来たわね。
それを聞いたは、微かに口の端を吊り上げた。
腰帯に差していた短刀を再び手に取り、刃身を晒す。
そして、その流れるような曲線を目で追いながらくすっと笑いを零す。
「…衛兵達も馬鹿よね…私の身体検査もしないんだから。
女だからって、姫だからって…武人じゃないからって………。
甘く見られたものね」
暗闇に光るの目。
しかし、夏侯惇に鍛えられたとはいえ、これが初めての実践。
胸の目の前での両手によって構えられた得物が細かく震えだした。
全身が動悸に支配されたように脈打つ。
「…お願い、落ち着いて…」
はぎゅっと目を閉じ、夏侯惇に教えられた護身の極意を頭の中で思い出し始めた。
「『叩き斬る』と『突き刺す』を併せ、かつ連撃可能な斬り方を教える。手首を痛めない様に常に気を配れ。
ただ、あまり長持ちしない戦い方だから気をつけろ。基本は……『大声を出しながら逃げろ』だ。
そして逃げられない状況などで止む無く攻撃する時は……必ず一撃で戦闘不能に追い込むこと。
よほどの腕が無い限り二撃目はないものと思え。不意をつく機会なぞなかなかない。その機会を逃すな」
「『一撃で戦闘不能』…『機会を逃すな』…」
夏侯惇の厳しくも優しい声を思い出し、反芻しながらは沸き立つ心がすぅっと引いて行くような感覚を覚えた。
目を開き、短刀の切っ先に視線を合わせる。
そして、『滅麒麟牙』に似たその刃に心強さを感じながら、
「元譲…今、傍に貴方が居るような気がするわ」
扉の向こうの慌しさに乗じるべく、扉の引き手に力を籠めた………。
それから数刻後。
曹操軍の騎馬隊の奇襲にその館は戦場と化した。
戦線から離脱した夏侯惇は、を探すべく館の廊下を歩いていた。
しかし、まだ息のある兵士にが捕らわれている場所を聞き出したまでは良かったが。
其処此処に兵士が倒れていて、その辺りだけがやけに静かだという事に暫し唖然としていた。
「…あいつには『基本は大声を上げる事』だと言った筈だが…」
と思い起こす。
その教えは、自身の身を守る事は勿論、もう一つの理由があった。
それは『自分がの居場所を知る』という事。
さすれば直ぐに助けに行けるだろう、と。
が監禁されていると思われる部屋に歩を進める。
「まさか、人質として危険な場所に移動されたのでは…?」
という最悪な場面に備えて息を潜め、足音を立てないように気を配りながら、かつ腰を落とし膝をゆるめて早足で。
すると、夏侯惇は見慣れた姿が柱の影で身を小さくしているのを視界の向こうに捉えた。
「! …無事だったのだな」
と言いながら駆け寄る夏侯惇。
そして、辺りに転がっている動かぬ兵士の山を一瞥すると険しい視線でを見据える。
「なんだ………? この屍の山は」
「えっ………? これ、死体じゃないわよ。 一応急所は外した筈だし…」
「………俺は其処まで教えたつもりはないが…。 流石は淵の妹、とでも言っておくか」
夏侯惇は、目覚しい程のの活躍に呆気に取られたような溜息を大きくつくと滅麒麟牙を鞘に収めた。
刹那、跳び付いてきた小さな身体。
「でも…。 元譲、怖かった………」
自身の身を守ることに必死だったのだろう。
の身体からの細かい震えを夏侯惇は自身の肌を通して感じた。
夏侯惇はふっと表情を和らげるとの汗でべたついている髪を優しく撫でながら言う。
「ならば…室の中で俺が来るまで待っていればよかっただろう」
その言葉にはっと息を呑む。
刹那、表情を険しく変え、顔を上げると夏侯惇に鋭い視線を投げつけながら詰め寄る。
「それじゃ、この刀、何で私にくれたの? それに…私に武芸を教えてくれたのは…誰だったかしら?」
「………うむぅ」
夏侯惇はの勢いに圧され、言葉を失った。
「さて…。 我々はこれで帰るとするか」
折り重なる兵士達を一瞥し、それらに背を向け歩き出す夏侯惇。
それを慌てて追うが訝しげな表情を向ける。
「ねぇ…戦、まだ終わってないでしょう? どうするの?」
「あぁ、それなら…。 孟徳が『後は任せろ』と言ってくれたのでな」
夏侯惇はの肩を掴むと、身体を自身の方に引き寄せながら続ける。
「それに、此処まで来る前に…粗方片付けてある。
孟徳の傍らには淵がついているしな。
あいつ、此処に攻め込む事が決まってからというもの…。
『俺の妹に手を出したらただじゃおかねぇからな!』と腸(はらわた)を煮えくりかえしていたからな…。
此処の兵士達にはそれを鎮める役目を負ってもらおう………」
夏侯淵は戦の準備を進めていくうちに怒りがふつふつと込み上げてきたようだ。
その怒りの時差に夏侯惇は「如何にもあいつらしいがな…」と苦笑を洩らした。
夏侯惇は何処かしらに繋いでいた馬に乗ると、の身体をそっと抱えて自身の前に乗せた。
そして、馬の腹を軽く蹴ると。
刹那の戦場に背を向け、ゆっくりと進み始めた。
帰途につく馬上で。
「…おい、」
「…何?」
「あの場で…あれだけの働きが出来るのであれば…。 、お前も『武人』にならんか?」
「え!? …無理よ。 それに…もうあんな思いするのは御免だわ。 また私にあんな怖い思いをさせる気?」
は頭を振りながらそう言うと、夏侯惇の胸にゆっくりとその身を預けた。
その仕草に夏侯惇は自然な微笑を浮かべる。
そして。
「今度はもっと早く助けに来てね。 そして…私は。 貴方のためだけに………」
次々に発せられる彼女の言葉を自らの唇でそっと塞いだ………。
視線の先………群青色の空の端が白く染まっていく。
もう間もなく…馬上の二人の姿を朝日が照らす事だろう。
何事もなかったかのように。
あの、空の向こうから………明日がやってくる。
fin.
アトガキ
長らくお待たせいたしました☆
(予告通り、早めにならなかったことをお詫びいたします)
今回は後編。
ヒロインを大人しく書こうと思ったのですが…何せ管理人自身がこんなキャラなんで(何
ちょっとした武勇を見せてもらいましたw
てか…このヒロイン、完全にツンデレだよね(汗
…とにかく!(逃げたな
智弘様〜〜〜〜〜!やっと出来上がりましてございます!
お題に沿ってるかは素敵な貴方にお任せするとして(滝汗
こんなんで宜しかったらお持ち帰りください!!!
(切願中!!!)
そして、ここまでお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!
2006.10.18 御巫飛鳥 拝
使用お題(相互記念お題) 『あの空の向こうから、明日がやってくる。』
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