いまひとたびのあゆみ
   〜Lighthouse of love〜
















「………、…が、………った…」

「…今、何と言いました?」

陸遜はたった今聞いた友からの一言が信じられなかった。

半分呆けた顔で目の前の人に聞き返す。

すると、その人は…。

それきり何も言うことなく、項垂れたまま幾粒もの涙を零し続けた。





「私、彼を…子明を…。 助ける事が、出来なかった…」





が「子明」と呼んでいた人物−呂蒙−が病床に臥してから数日。

ほんの一筋の光明を目指し、必死の治療を続けていた軍医・だったが。

彼女が此処まで必死になっていた理由は他にもあった。










「私が子明の妻になってから…つかの間の幸せだった。

人の命って…。

時に人を不幸にするのよね」





泣きはらし、真っ赤になった目を陸遜に向けてが溢す。

「医者が………本当はこんな事言ったらいけないんだろうけどね」

少々自嘲気味に微笑む様子が見るからに痛々しい。

そんなを見ているのが辛くなったのか、陸遜はその顔から視線を逸らしてしまう。

は再び零れそうになる涙を堪えて唇をきゅっと結ぶと寂しい笑顔を見せた。

「陸遜。 貴方も辛いでしょう…無理に私の傍に居なくていいんだよ」

すると、気丈に振舞うを心配そうに見ていた陸遜はその身体を自身の腕の中に包み込む。

「いいえ、戻りません。 ……このままでは…貴女が直ぐにでも消えてしまいそうだから」

「大丈夫よ…私は。 軍医だもん…自らの死は罪に値するわ」

「でも…。 …こうしていれば声も外へは響きません。 私も聞かなかったことにしますから。
今は無理をしないで…幾らでも泣いて結構ですよ」

「…貴方も泣きたいくせに」

「…ならば、一緒に泣きましょうか?」

「ふふ…それもいいかも、ね」

陸遜の優しさに触れたは震える声で僅かに笑うと再び涙を流し始める。

その唇から止め処なく洩れる嗚咽を吸収させるように、陸遜はを抱き締める腕に力をこめた。

そして、自身もその瞳から溢れ出す涙を隠しもせずその場に曝け出した。





呂蒙殿…。

を、頼む…』

貴方の最期の言葉は…。

どのような気持ちで吐いたのですか?

の心の中に居る貴方は………余りにも大き過ぎます。



私は…。

貴方を侵した病よりも…病に負けた貴方を、恨みますよ…。



ただ、私は…の幸せを望んでいただけなのに………。


















「食事、要らないわ………ごめん、下げてくれる?」

は様々な医療技術が記されている書簡の山を片付けながら、振り返りもせずに言う。





呂蒙の存在が消えてから数日後。

女官に代わって食事を運ぶ陸遜に毎回放たれる言葉。

始めは素直に従っていた陸遜も、こう数日続いては流石に心配になる。

の様子を伺いながら恐る恐る言う。

…もう何日も食べていないでしょう。 お体に障りますよ」

「…大丈夫よ、陸遜…心配しないで。 それに…今は『栄養を摂って明日も頑張ろう』って気持ちにならないのよ」

「………………」

一瞬だけ振り向き、少々痩せこけた顔を向けるに言葉を失う陸遜。





このままでは…。

貴女までも本当に消えてしまいそうですよ…。

………。





悲しい気持ちを一杯にしてその顔を伏せ、一時考える。

そして、意を決したようにに厳しい視線を向けた。

。 …こちらに来てください」

「ん? 何?」

が感情のない問い掛けをしながら陸遜の傍に歩み寄る。

すると、陸遜は…。

をその腕に抱き寄せ、食事に添えられていた箸を手に取ると

「今日は…是が非でも食べていただきます」

と自らの口に食物を含み、の唇に近づけた。





「………! やめて…っ!」

は陸遜の思い掛けない行動に一瞬息を呑むと、陸遜の胸を押して身体を無理やり引き剥がした。

目を閉じて大きく息をつくと項垂れ、頭を振る。

「………嫌。 貴方と、こんな形で口付けをしたくない」

「口付けとは…。 私は…貴女が『食べない』と言うから…」

「口付けには変わりない。 …今は貴方ともしたくない。 どういう形であったとしても」

「………あの時のように、でも、ですか?」

「!!!」

は『あの時』の事を思い出したのか、一瞬顔を上げて赤らめたが…再び静かに項垂れた。

「そうよ…。 あの時は…ただ、寂しかっただけ。 今とは違うもの」







『あの時』とは………。

が呂蒙の妻になってから一つの季節が通り過ぎた頃。

戦に出陣した軍師・呂蒙の帰りを待つは………。

その寂しさを紛らわすために。

未だ見習いで出陣を許されなかった陸遜と一度だけ床を共にしたのだった。







「………ならば。 ちゃんと食事を摂ってください」

「…解ったわよ」

「脅迫されてるみたいね」と言いながら陸遜から箸を受け取り、食物を口に運び始める。

そして、は自分を伺うように見つめる陸遜に向かって少しだけ微笑いかけた。

「………美味しい。 久し振りに食べるからかな」

「…よかった。 久々に食べた物が美味しくなかったら…に一生恨まれそうですからね」

「…何ですって???」

「わわっ…! 箸の先を私に向けないでください! 危ないですって!」

「ふふ…元気になったら覚えてなさいよっ!」

「はは…そういうことは直ぐに忘れますから…」





再び、微笑ってくれてよかった…。

これから…少しづつでもいい。

貴女に元気になって行って欲しい。

それが…今一番の望み、ですよね。

私も…呂蒙殿も…。





空になった食器を持ち、廊下に出た陸遜は。

夜の帳が下り、静かになった群青色の空を見上げ、誰かに語りかけるように溢した。













それから一つの季節が廻る間…。

陸遜は、何かにつけの元を訪れていた。

特別、何をするわけでもない。

お茶をお供に他愛のないお喋りをしたり、仕事を片付けたり………。



それはまるで。

彼が、今にも消えてしまいそうなの存在を確認したいがため…傍に居る事を選んだかのようであった。



最初は笑顔の少なかったも、陸遜の気持ちに触れる度に元の活発さを取り戻しつつあった。

しかし。

時折見せる寂しげな横顔は…間違いなく『失った人』を想うの心の内を映していた。





が元気になるまで…もう少し、時間がかかりますか…。

陸遜は、ゆっくりの心を解していくつもりなのだろう、苛立ちを感じることなく心で呟いた。





そんな矢先、二人の周りが突如騒がしくなる。

荊州の領土が賊によって荒らされている、との報告が入ったのだ………。















「………何故、貴方が出なければならないの?」

賊の討伐隊の一部に陸遜の軍団が入っていることには素直に納得出来なかった。

今や陸遜は呂蒙の後を継ぎ、軍にとって重要な『軍師』という位置にあった。

それ故、賊の討伐は他の武将に任せていてもいい筈なのに。

しかし、の言葉を受けて陸遜は軽く笑みを浮かべて言い放つ。

「此処が荊州だから、ですよ」

「………でも!」

関羽率いる蜀軍から奪うような形で手に入れた土地…荊州が重要な地である事。

そして、その地が危機に瀕した時、其処を護る人物自ら出陣するのが得策だという事。

それは軍医であるにも容易に解り得ることであったが。

それよりも………たった一つの事が頭から離れない。

は視線を足元に落として、唇を噛み締めることで今にも溢れ出しそうな涙を堪えた。







「貴方はそれでいいかもしれないけど…残された私はどうするの?

私が笑顔を取り戻す事が出来るのは………貴方だけなのよ。

もしも…。

………貴方に何かあったら………。





私は貴方まで失いたくない!」







項垂れ、頭を振りながら訴えかける

陸遜の視線の先には、様々な思いに翻弄される一人の女性の姿があった。

呂蒙の死がなければ…彼女の弱さなど、見ることもなかっただろうに…。













暫しの間、時が止まったような静寂が訪れる。

その沈黙を破ったのは、先程まで感情を露にしていた本人であった。

「………ごめんね。 貴方を困らせるつもりじゃなかったのよ…。 ただの…」

「ただの?」

「…私の勝手な、我が儘」

はそう言うと涙をたっぷり湛えた瞳でくすっと笑い、陸遜の目の前に自らの拳を差し出した。

「…頑張って! 武運を…祈ってるわ」

「はい! …か弱い貴女のためにも…出来るだけ早く、帰って来ますよ」

の拳にしっかりと自身の拳を重ねながら、陸遜は思う。





………。

貴女の我が儘、確かに受け取りましたよ。

必ず、貴女の元へ………。













陸遜が出陣してから数日。

相次ぐ怪我人の治療に追われる中、やっと取れた仮眠時間に。

は久し振りに夢で呂蒙と逢った。










………真っ白な空間の中…呂蒙の姿を見つけた

顔を上気させて喜びを弾けさせながら傍に駆け寄る。

「…子明!」

しかし、目の前の人は生前何時も見せていた難しい表情をしていた。

そして、その顔を更に顰(しか)め、溜息交じりの言葉を口にする。

…お前、まだ俺の事を想ってくれているのか?」

すると、

「当たり前でしょ? 貴方が居なくなったからって…急に忘れられる訳ないじゃない」

と言いながら顔色を寂しげに変え、静かに項垂れた。



一時の間の後。

困ったような表情にその顔を変えた呂蒙と、沈黙に耐えられなくなり、顔を上げたの視線が絡まる。

呂蒙は、の両肩に重さを感じない手を置き、諭すように言葉を吐き出した。

「それは…俺にとっては非常に嬉しい。 だがな…

「何よ? 死んでまで私に何か言うの?」

「俺はもう…現実には居ない」

の小さな文句に答える事なく、今度は呂蒙がゆっくりと項垂れた。

そして、視線を足元に落としたままで呟く。





「…何時までも過去に捕らわれるな。
軍医であるお前なら解るだろう………幾度となく人の死を見て来たお前ならば」

「………!!!」





呂蒙は解っていた。

がどんな気持ちで自分を助けようとしていたのかを。

母を病で亡くしている故に…同じような事で大事な人を失いたくなかったのだろう。

そして、母が亡くなった時、彼女自身が言った言葉。

『悲しい想いをする人が居なくなるように…これから頑張るわ』

彼はに…もう一度その気持ちを思い出して欲しかったのだ。





その時、不意に呂蒙の姿が周りの世界に同化し始める。

「…嫌! 子明! …消えないで…」

の悲痛の叫びも届かず、だんだん消えていく姿。

自分の『引き際』を心得た呂蒙は、消えかけている手をの頬に添え、最後の言葉をに捧げた。





「このままでは…先に進まんぞ。

俺の事は忘れろ、とは言わん。

ただ…今は前だけを向いて生きろ。 俺の分も、な。

俺は………お前の幸せ、だけを…望んでいる………」















「…!!! 子明! 待って!」

は自分が発した声に驚いて飛び起きた。



夢…。



今度の夢は何時もと違い、殆ど現実に近い夢であった。

今迄言われた事のない言葉を、夢の中の呂蒙自身から聞いた。

「………子明」

かつて夫だった人の名前を呟いてみる。



前だけを向いて…。

貴方の分も…。

私の、幸せ………?










その時、医務室の外から物凄い怒号が響き渡った。

「陸遜殿が重傷だ! 道を開けろ!!!」





………陸遜!!!!!





「早く、場所を空けなさい! 皆で軍師殿を助けるのよ!!!」

の心が一瞬にして現実に引き戻される。

刹那、その顔は既に軍医そのものになっていた。

そして、心は…の気持ちは。

一つの確かな想いへと集束して行った。





このまま…貴方を失う訳にはいかない!

必ず、私が助けてみせる!










………お前の気持ちは、もう、過去へと彷徨う事はない………。













数日後。

寒い季節にも関わらず暖かい日差しが降り注ぐ草原の真ん中に二人は居た。

「…寒くない?」

「大丈夫ですよ…これ位の風、傷にも障りません」

「でも、早い内に戻った方がいいわ。 まだ安静が必要な身だからね」

「はいはい…軍医殿の言う事には、逆らえませんからね…」

はは…と茶化すような笑顔を見せ、館へと踵を返す陸遜。

刹那、不意にその腕を掴み、は陸遜の行動を制すると。

「ちょっと待った。 …貴方に話したい事があるの」

一瞬だけ俯いた後、意を決したように顔を上げ、目の前の姿をしっかりと見据えた。









「どうしたんですか?」との急な言葉に訝しげな顔をする陸遜。

そして、その顔を更に真っ直ぐな瞳で見つめる





一時の後、二人の間に一陣の風が話の先を促すように吹き抜けた。





「…貴方が深手を負って軍に戻って来る前、子明の夢を見たの………」

心の準備が出来たのだろう、はようやく言葉を紡ぎ始めた。

陸遜は瞳を閉じ、口を挟む事無くの話に耳を傾ける。





「その夢でね、子明が言ったの。

『過去に捕らわれるな。 私の幸せを望んでいる』って。

私、最初はその意味が解らなかった。

それは…私自身の幸せを過去に置いて来ちゃったからだったのね。

………それから間もなく、貴方が重傷だって運ばれて来た。

その時…私の気持ちが…子明の言葉がはっきり理解できたの」





其処まで一気に話すと、は僅かに顔を上気させた。

「…水が欲しいわ」

その言葉に、陸遜はくすっと僅かに笑い声を洩らすと

…そのような早口では…大事な言葉すら聞き逃しそうですよ」

握られたままのの拳を包み込むように自身の手を添えた。

刹那、はっと息を呑み唇を引き締める

胸に空いた方の手を宛がい、大きく息を吐いてから今度はゆっくりと続けた。





「今迄………。

子明との『幸せ』に拘っていたのかも知れない。

それ故、貴方の気持ちにも目を閉ざしてた。

貴方の『幸せ』を考えもしないで………。

これじゃ、『過去に捕らわれるな』って子明に怒られても無理ないわ。



ごめんね。



でも………貴方が意識を取り戻す迄の間、ずっと考えてた。

そして………やっと答えが出せた」







はここで言葉を切り、軽く俯くともう一度大きく息をつく。

そして、再び上げた笑顔に陸遜は心底驚いた。

あれから…。

再び見ることはないだろう、と諦めかけていたの最高の笑顔に。







「子明の事は忘れられない。 …大事な人だったから。

でも………。



(もう一度……   歩き出しても、いいよね………)



陸遜、この先は貴方を愛して…往きたい」










吹き抜ける風の中、斜陽が草原を黄金色に染めていく。

は、再び取り戻した柔らかい笑顔を湛えながら天を仰ぐと。

消えるべき運命(さだめ)の風に乗せてそっと呟いた。







「ありがとう…伯言」













劇終。









アホガキアトガキ


『赤イ星』の管理人であるふぃる様からのリクエストにお答えしました。
此度は素敵なリクエストをありがとうございます!

内容は
1.軍医ヒロインで。
2.お相手は陸遜。
3.親友以上恋人未満 → 恋仲
  切なめのラブストーリー。

以上で。
いやぁ…私的にやっぱりりっくん相手は書きやすい。

しかし、100%リクエストに答えられてるかが微妙…。
切なめ???
最後はもっと甘くした方が良かったのかしら…。
また長いし…。
…といった愚痴を零す結果に(汗

ふぃる様!!!
このような駄文でも宜しかったらお持ち帰りください(切願


そして、此処までお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!



2006.11.8     御巫飛鳥 拝


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