微笑みは月明かりの下で
夜の帳が下り、冬の訪れを告げるような冷たい空気が支配する城内の中庭。
はその入り口…縁側に浅く腰を掛け、自身の膝に頬杖をついた。
空を見上げると、満天に散らばる光の群れ。
何時にも増してその存在感を露にする姿達を見つめる。
「そっか…今夜は朔(さく)、か」
は言葉を目の前の闇に溶かすと、自嘲気味に微笑んだ。
ここ数ヶ月、は空を見ていなかった。
いや…見る余裕がなかった、と言った方が正しいかも知れない。
空を見上げ、月を愛でる。
これは彼女の好きな事の一つだったのだが…。
「私の下で動くからには…貴女にも知略を身に付けてもらいますよ」
上官になった恋人が発した最初の一喝での生活が一転した。
それまではただの一兵士として、その武をひたすらに磨けばよかったが。
彼女が陸遜の配下になってから…。
昼間は陸遜の助手として、そして夜は陸遜から兵法等を学び。
今度は頭脳に磨きをかけていく事になったのだった。
「月は見えないし…そろそろ部屋に戻ろうかな」
は膝に乗せていた腕を天へと翳すように上げると大きく背伸びをした。
刹那、その腕が半強制的に降ろされ、真紅の厚い上着が肩にかかる。
「…。 このような所に居たら、風邪をひきますよ」
上着の持ち主である陸遜が後ろから現れ、一瞬にしての身体を拘束した。
そして、自身の頬をのそれにそっと寄せる。
「!! 伯言様…」
彼の言動は何時も突然で。
その度にの心は乱れるが、同時に愛しい人への想いが膨らんでいくように感じた。
「…何をしていたのですか?」
依然頬を寄せながら陸遜が尋ねる。
の耳を撫でる陸遜の柔らかい髪が妙に心地いい。
徐々に紅潮していく頬を悟られないように軽く俯くと、は問い掛けに答えるべく口を開いた。
「…空を、見ていました…」
「空、ですか?」
「はい…。 ですが、今夜は朔で…月が見えません」
「あぁ…。 貴女は月を見るのが好きでしたね」
陸遜はそう言うと、星の瞬きのみが存在する空を見上げた。
それに倣っても同じように天を仰ぐ。
二人の間に沈黙の時が訪れた。
しかし、その時間も恋人達には何にも変え難いもので。
暫し、沈黙の優しさに身を委ねていた…。
「そうだ。 …あと十二日したら、二人で暇を取りましょう」
陸遜は再びに頬を寄せると、思いついたように言葉を発した。
その顔は楽しげで…間近で見ているにも気持ちが容易に伝わる。
「十二日…ですか?」
「はい。 今宵が朔、ですから…十二日後には十三夜の月が眺められますよ」
「…成程。 ですが…何故暇を?」
「ついで、ですよ。 たまには貴女と一緒に遠乗りでも、と思いまして…いけませんか?」
片目を瞑り、悪戯っぽい笑顔をに向ける陸遜。
刹那、はその首をぶんぶんと勢いよく振ると
「いけないなんて…とんでもない! 私も…伯言様と、一緒に出かけたいです」
頬をほんのりと赤く染め、力いっぱい答える。
…と言っても、彼女の『力いっぱい』は聞く人にあまり強い印象を与えないのだが。
の首が発する風を頬に受けながら、陸遜は目を閉じて一つ頷いた。
「それでは…決まりですね。 早速明日、呂蒙殿に言っておきます」
「はい。 ありがとうございます」
「…そろそろ寝ませんか? 十二日後のために仕事を溜めないようにしないといけませんからね」
「あ…。 そうですね。 明日からまた頑張らなきゃ…」
が答えるのとほぼ同時に陸遜が彼女の身体を抱え、一緒に立ち上がる。
そして。
「おやすみなさい…愛する」
依然赤く染めたままの頬に柔らかく口付けを落とし、自室へと踵を返した。
「おやすみなさい…大好きな伯言様…」
陸遜に聞こえるか解らないくらいの微かな声で言いながら、彼の唇が触れた頬に手を当ててみる。
…熱い。
頬が熱いのは…。
陸遜の熱なのか、はたまた自分自身の熱なのか…。
陸遜の後姿が見えなくなるまで見送りながら。
はその顔がますます上気していくのを感じていた。
それから十二日後。
朔の晩に約束した通り、陸遜とは暇を取った。
朝早く厩舎で待ち合わせをし、馬を駆って城から少し離れた集落へと赴いていた。
「あの…伯言様? そろそろ馬から降りて…歩きませんか?
は頬を僅かに上気させ、目を伏せながら陸遜に言う。
すると、陸遜はその顔に悪戯っぽい笑顔を湛えた。
くすり、と軽く笑い声を洩らしてを見つめると。
「何故…ですか? 私はもう少し貴女とこうしていたいのですが」
の腰に回した腕に力を籠めてその小さな身体を抱きしめた。
二人揃って出かける時。
自分の愛馬に跨ろうとしたを陸遜が少々憮然とした顔で制した。
そして。
「戦でもないのに…馬は二頭も必要ないですよ…」
と言い放つと、頻りに恥ずかしがるの身体を拘束し、自身の前に乗せたのだった。
一時の後。
集落に到着した二人は乗っていた馬を衛兵の生家に預けて街中を散策する事にした。
先に降りた陸遜の手を取り、導かれるように馬から降りる。
彼女は陸遜の拘束から解放された事にほっと胸を撫で下ろしていた。
その誰が見ても微笑ましい光景を眺めながら、衛兵の妻が問う。
「陸遜様…これから領内の視察ですか?」
「いいえ。 莱英殿…今日は暇を取って来ました」
「あら…それでは…様と逢瀬、ですのね」
衛兵の妻がからかうような笑みを含んで言った。
『逢瀬』。
言葉を聞いた途端、が過剰な反応をする。
頭のてっぺんから火が吹き出そうなほど顔を紅潮させるとその頬を両の手で覆い隠してしまった。
衛兵の妻はそのまま顔を上げようとしないを気遣うように見やると
「様…其処まで恥ずかしがらなくても…。 貴女様達の仲は周知の事実じゃありませんか」
「ねぇ、陸遜様」と陸遜に微笑みかける。
それに合わせて陸遜も「そうですね」と莱英に一つ頷くと優しくの肩を抱き、その隠れている顔を見つめる。
そして…。
周知の事実、ですか…。
しかし、私は…。
その一言で括れない程のの魅力を、知っているんですよね…。
一人、想いを廻らしながら…少々締まりのなくなった笑顔を衛兵の妻に向けた。
………同じ日に暇を取れた。
その事に一番喜んでいたのはであった。
陸遜の配下になり、一緒に居る事が増えたけれど『自分の時間』を共有出来るのは僅かでしかなかった。
それは恋仲になって間もない頃と変わりのない事で。
の気持ちは…。
「孫呉を代表する軍師だから仕方がない」と割り切る気持ち半分。
そしてもう半分は物足りなさと僅かな寂しさ。
………それが。
の気持ちを知ってか知らぬか…陸遜が提案してくれた此度の『暇』。
心が躍るってこういうことなのね、とは独り言を零しながらくすりと笑った。
集落の散策はなかなかに楽しいもので。
普段暮らしている城内の様子とは全く違う風景、光景に二人は日々の忙しさを忘れていた。
ただ…道行く人たちが
「陸遜様、様! 御機嫌如何ですか?」
と挙って声を掛けてくる事に少々苦笑を浮かべていた。
それでも、この柔らかい太陽の光が注ぎ込む集落の雰囲気は二人の心を充分に暖める効果があったらしい。
初めは一緒に歩く事すら恥ずかしがっていたも。
何時しか陸遜の手を取り、身を寄せながら仲睦まじく歩を共にしていたのであった。
日も西に傾き始め、二人が肩を並べて歩いていると…不意に陸遜の服の裾が何ものかによって引っ張られた。
「りくそんさま…ぼくと、あそんでください」
陸遜が引っ張られた方へ顔を向ける。
すると、年端も行かない子供が丈夫な布で作られた毬を抱えて小首を傾げ、見上げていた。
その汚れない瞳に優しく微笑むと、陸遜は一瞬だけの顔を見やる。
「いいですか…?」と尋ねるように。
は陸遜に一つ頷いてから子供の風貌を見つめ、
『伯言様も…子供の頃はこのような感じだったのかしら』
と想像しながら、広場へと足を運ぶ子供と恋人の後姿を追いかけた。
陸遜が子供と毬で遊んでいる姿を少し離れた場所からしゃがんで見ている。
「…戦の時、何時も俊敏な動きを見せる伯言様だもの…あれくらいは簡単なんでしょうね」
彼の意外に華麗な足捌きを眺め、は可笑しそうに笑いながら独り言を零した。
童心に返ったような陸遜の無垢な笑顔を見ているとこちらも心から笑顔になる。
は火照っていく頬に、その熱を冷やすように両手を宛がった。
暫くの後、不意に背中の方から足音と共に大きな声が近付いて来た。
「阿勇! …あらやだ、あの子ったら陸遜様と…」
子供の母親なのだろう…とは思いながら後方へ視線を巡らせる。
少々貫禄のある姿は母である強さを充分に備えていて、はその勢いに少したじろぐ。
の真横まで来ると、母親はの存在をやっと認めたようだ。
乱れた息を整えるとの隣に腰をかけた。
「あら…様。 ごめんなさいね…大騒ぎしちゃって」
「いいですよ。 …あの子は貴女の息子さんですか?」
「えぇ。 でも…最近はすっかり『やんちゃ』になっちゃって…私も手に余ります」
「くすっ…でも、男の子はあれくらい元気な方が宜しいんじゃないですか?」
「…そうなんですけどねぇ…元気すぎるのも考え物だわ」
の言葉に曖昧な笑顔を向けると、母親は子供の方を見据えた。
同じようにも遊ぶ二人の姿を見る。
心底楽しそうにしている二人は。
何時しか、知らない者が見たら兄弟だと思う位打ち解けていた。
は毬捌きを教え始めた陸遜を何時の間にか熱い視線でうっとりと見つめていた。
彼女は、眉目秀麗でしかも賢い…と謳われている自分の恋人に誇りを感じると同時に。
自分を選んでくれた事に感謝の気持ちを抱いていた。
陸遜を眺めるの姿を横目で見ながら母親が不意に問いかける。
「様。 不躾な事と思いますが…陸遜様と何時ご婚姻されるのですか…?」
「こっ………!!!」
今迄穏やかだったの表情が一変する。
その顔いっぱいに羞恥の色を湛え、自身が照れの固まりになったように硬直した。
「伯言様とっ…婚姻、なんて…そんな、こと、考えても…っ」
しどろもどろになりながらやっと答えを紡ぐ。
陸遜と恋仲になっただけでも喜ばしい事なのに。
この乱世…。 これ以上の幸せを望んだらきっと罰が当たるでしょう…と。
すると、二人の会話を盗み聞きしていた陸遜が子供をあやすように背負い、走り寄って来た。
そして子供を背中から降ろすと、の前にしゃがんで言葉を紡ぎ出す。
「勿論、私はそのつもりですよ…。 私は、貴女を妻として娶りたい」
「!!!」
「まぁ………っ!」
意外な場所での求婚に興奮したのか、子供の母親は歓声を上げた。
周りに人が居ないので、傍に居た息子をぎゅぅっと抱きしめると。
「阿勇…! 聞いた?今の! 陸遜様ったら大胆よねぇ!!!」
頻りに首を振り、息子の頬に自身のそれを擦り付ける。
一方の息子は、全く訳が解らないといった様子で。
「ねぇ…おかあさん。 『こんいん』ってなに?」
その頬に鬱陶しさを感じながら母親に問いかけていた。
日は更に傾き、地平線の向こうに消えかかっていた。
空が鮮やかな茜色から群青色にその表情を変えようとしている。
帰路に着こうと再び馬上の人となった二人。
陸遜の胸に身体を預けていたは「もう一日も終わるのね…」と少々感傷的になってその顔を伏せた。
「ねぇ…伯言様。
どうして、楽しい時間は早く過ぎてしまうのでしょうね…。
私は…今日一日が永遠に続けば…と思ってしまいます」
の独り言のような呟きを聞き逃さなかった陸遜は。
手綱を持つ手をそのままにの身体を暖めるように抱きしめた。
そして、の耳元に唇を寄せると言葉をかける。
「…。 まだ終わっていないですよ。 最初の約束が残っているではないですか」
「!!! そうでした…ごめんなさい、伯言様」
最初の約束。
十三夜の月を二人で眺める事をはようやく思い出し、忘れていた事を恥じるようにはにかんだ笑顔を陸遜に向ける。
その笑顔を間近で受け止めながら陸遜は風に靡く艶やかな黒髪を指に絡めた。
ほんのり冷たいその感触に「そろそろ雪の舞う季節ですね」と一つ呟くと、に少々悪戯っぽく微笑む。
「折角ですから…いい場所で月を愛でましょう。
私が案内します。
…。 到着するまで、目を閉じておいてくれませんか?」
陸遜の暖かい手が目に触れ、は殆ど反射的にその瞳を閉じた。
そして、陸遜は手を手綱に戻すと馬の腹を踵で軽く蹴った。
軽く嘶き、走り出す愛馬。
その行き先は…陸遜と馬のみが知っている………。
目的地に着いたのか、陸遜の愛馬はその歩みを止めた。
陸遜は手綱を握っていた手をの肩に移し、目の前で俯く頭に口付けを落とす。
「…。 もういいですよ、目を開けても」
彼の言葉を受け、は先ずその顔を上げて陸遜の方に向けた。
しかし、瞳はまだ伏せられたまま。
陸遜は訝しげな表情でに問う。
「どうしたのですか…? もう目を開けてもいい…」
「ちょっと待ってください。 一、二、の三で目を開けます」
心の準備をしているのだろう…自身の胸に手を当て、大きく息をつく。
その仕草に『可愛らしい…』と心で呟きながら「解りました」と柔らかな笑顔で答える陸遜。
そして一瞬の間の後…。
「いち、にの…さん!」
はその瞳を大きく見開き、天を仰いだ。
!!!!! ………素晴らしい…っ
群青色の天頂には。
冷たい空気を受け、輝きを増した十三夜の月がその存在を露にしていた。
辺りを見回すと…驚く程に何もない。
ただ平原が広がるのみで、地平線が闇に溶け込んで天と地の境界が解らない位だった。
この世界に二人きり…美しい月を愛でている。
はそんな錯覚を起こしそうになりながら、言葉もなく白い月を見上げていた。
「十三夜の月が一番綺麗だとは聞いていましたが…これ程とは思いませんでした」
を抱きしめながら、同じように満ちかけた月を眺める陸遜だったが。
不意に顔を月へと向けたまま、照れくさそうにくすりと笑った。
がその笑いに驚き、陸遜へと視線を移す。
すると、陸遜はの顔を微笑みで見返し、穏やかに言葉を紡ぎ始めた。
「この場所を見つけたときは…まだ上弦の月でしたから、その輝きも完全ではなかったようです。
私も今、十三夜の月に感銘を受けました。
…これは、私からの贈り物です。
日頃、文句の一つも言わずに執務の手伝いをしている貴女。
そして…このような未熟者を恋仲としてくださっている貴女へ。
何か、お礼をしたかったのです…」
陸遜の言葉を聞いて。
知らず知らずのうちに、の瞳から涙が溢れて…ぱたぱたと落ち始める。
震える胸を押さえ、必死に声を出そうとするが…なかなか上手く行かず。
「伯言様…。 そのために、毎晩…っ」
紡ぎ出される言葉は詰まり、そして震えていた。
陸遜はそんな彼女の背を軽く撫でると。
「…言ったでしょう、。 これは私から貴女への贈り物だと」
を抱きしめる腕に力を籠め、涙に濡れる顔を胸の中に埋めさせた。
「…気に入ってくださいましたか? 」
「勿論です。 このような美しい十三夜の月は、生まれて初めてですから」
「そうですか…よかった」
馬から降りることも忘れ、寄り添う二人。
月明かりを受け、大地に仲睦まじい影を落とす。
再び揃って十三夜の月を愛でながら…。
不意に陸遜が恥ずかしげな様子でに問いを投げかける。
「…。 あの、昼間の返事を…まだ聞いていないのですが…」
「!!! あっ…あのぉ…。 今直ぐでなければいけませんか?」
「あっ! 言いたくなければ結構ですっ! 私も、その…」
見ている方が恥ずかしくなるような初々しい二人。
は熱を帯びていく頬に手を宛がい、陸遜は頻りに頭を掻き毟っている。
一時の後。
意を決したのか…は自身の頬をぱん、と平手で打ち、気合を入れると。
受け止める方が倒れそうな勢いで陸遜に抱きついた。
そして。
「昼間の返事です。 …私を、貴方の妻に…してください」
紅く染まった顔を陸遜に向け、「宜しくお願いします」と優しい微笑みを湛えて言い放った。
その微笑み…。
私には眩し過ぎて………月明かりも霞んでしまいそうですよ。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
陸遜は微笑みを含んだ顔をに向けた。
そして…。
同じように微笑んでいるの唇に、一瞬…触れるだけの口付けを落とした。
二人が感銘を受けたのは………。
十三夜の月よりも。
………月明かりの下で見た、愛する人の微笑みだったのかも知れない………。
劇終。
アホガキアトガキ
…。
あまいっっっっっ!!!!!
書いてて…読み返してて…。
鼻が、喉元が…むず痒くなっても〜た(汗
今回は…香花ちゃんからのリクエスト。
此度は素敵なリクエスト、ありがとうございます!!!
リクエスト内容は…BBSにて。
1.おとなしめヒロイン。
2.りっくんの配下。
3.無双時代。
4.めっちゃラブラブで。
ちゅぅことだったんだけども。
おとなしいヒロインは初書き…てか、私とキャラが正反対(何)なので。
意外に大苦戦。
でも、リクエストにはお答えできたのでは…と思います。
香花ちゃん!
貴女への贈り物です。 受け取ってや〜(切願
裏話など…詳しく知りたい方は日記でどぞw
そして、此処までお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!
2006.12.13 御巫飛鳥 拝
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