落陽は明日への序章
かぁんっ………
乾いた地面に凌統の得物である『波濤』が落ちる。
瞬間、その場に…時が止まったような静寂が訪れた。
「くっ…」
膝を折り、弾かれた右手を押さえて短く唸る凌統。
苦々しく唇を噛み締め、痺れる手の原因を睨みつける。
しかし…その相手は。
「勝負あり!」の一声の直後から大勢の武将に取り囲まれていて。
その鋭い視線を感じる余裕もなさそうだった。
「流石は『鈴の甘寧』ですね! 素晴らしい剣技でした!」
「やるじゃんか!」
「お見事です!」
次々にぶつけられる感心の言葉を受け、照れ笑いを浮かべる甘寧。
自身の手で後ろ頭をぽんぽんと叩きながら
「いやぁ…それ程でもねぇよ。 凌統が凄ぇ強ぇからよ、つい本気になっちまった」
ちらりと凌統を見てへへ…と軽く笑いを零す。
…。
俺だって…本気だったんだぜ…。
強張る顔を隠すように凌統は俯いた。
甘寧。
父の仇である男。
そして…。
同じ釜の飯を食う仲になってから、彼が不器用ながらも強さと優しさを兼ね備えた男だという事を知った。
凌統は。
甘寧は父を殺した事を何とも思っていない…そう思っていた。
しかし、それが仲間を護るためにやむを得なかったのだと判明したとき、彼を『仇』だとしか見ていなかった自分を恥じた。
浅ましい考えをしていたのは俺の方じゃないか、と。
その後、彼らの距離は少しづつだけれど近くなっていった。
今迄二人の間にあった深い溝を端から埋め、歩み寄るように…。
だが。
凌統の心の中にはまだ苦いものが残っていた。
それは紛れもない『事実』と…。
武将達…仲間達に慕われている事を自分に見せ付けているように感じる己の『気持ち』。
強く噛み締めた唇から金属の味がする。
「…くそっっっ!!!」
居た堪れなくなった凌統は顔を伏せたまますっくと立ち上がり踵を返した。
そして、ふと目に留まった水盥を勢いよく蹴り飛ばすと、振り返りもせずに外へと歩を進めて行った。
がらぁ………ん
水を溢れさせ、盥は音を立てて転がる。
地面にじわり、と広がる湿った色……それはまるで凌統の心そのものであった…。
水盥の音にその場に居た一同が凍りついた。
水が地面に滲みていく様を口を噤んだままで見つめる。
すると、今迄人垣の中央で笑顔を見せていた甘寧がはっと息を呑み、出入り口に目を泳がせた。
扉を閉める事もなく早足で遠ざかる男の後姿を彼の視線の先に捉えると。
「おい、凌統! ちょっ…待てよっ!!」
もどかしそうに人垣を掻き分け、扉へと駆け寄ろうとする。
刹那。
彼の前に一つの影が立ちはだかった。
「待ちなさいよ…甘寧」
その影は静かに言う。
傾きかけた日の光を背に受け、表情までは解り得なかったが。
静かに放たれた言葉と、甘寧の胸に添えられた手から…その冷静さが伝わってくる。
「…! 何で止めんだよ」
影−−に呼びかけ、その胸に添えられた手を叩くようにして引き剥がす甘寧。
そして、かぶりを振りながら影を押し退け、凌統の後を追おうとするが。
またしてもに制される。
は甘寧の腕をぐっと掴むとその身体を自身の方に向き直させ、言い放つ。
「甘寧…今貴方が行ったら、公績の傷口を広げるだけだわ」
「だからってほっとけねぇだろ!」
「うん、解ってる。 貴方の気持ちも…公績の気持ちも、ね」
不安げに見つめる甘寧の視線をしっかりと受け止め、ふふっと微笑うと。
は遠巻きに二人を見守る武将達を一瞥して顎をくい、と出入り口に向ける。
「…今日の稽古は終わりでしょ? 悪いけど…撤収してくれない?」
その低い声の中の迫力に圧されるようにしてその場を離れていく武将達。
全ての人影が消えるのを見届け、満足そうに頷いたは再び甘寧の目を鋭く見据える。
「…ここは私に任せて頂戴」
「けどこれはあいつと俺の問題…」
「皆まで言うな。 貴方達の関係、見てて苛々すんのよ…。 だから、ね」
「お…おぅ…」
から投げつけられた言葉に甘寧は情けなくもただ小さく頷くだけだった。
暫く押し黙ったまま目を伏せていた甘寧だったが。
意を決したように顔を上げ、大きく息をつくとの肩に拳をつけ、軽く小突いた。
「すまねぇ…悪ぃがここはお前に譲るぜ…」
「了解! そう来なくっちゃ!」
甘寧の言葉を受け、ぱぁっと弾けたような笑顔を向ける。
刹那、目の覚めるような速さで扉へ踵を返す。
その背中に
「! 頼むぜ!」
甘寧の言葉が追いかけるように降りかかった。
引き手に手を掛けていたが振り返る。
そして、空いている方の拳を甘寧に向けて
「大丈夫! 私が帰ったら全てが丸く治まってると思う! …多分!」
叫ぶように声を張り上げると、扉の向こうに躍り出ていった。
その場に残された甘寧。
一時茫然と立ち尽くしていたが、はっと我に返ると。
「…。 『多分』ってお前…」
大きな溜息と共にがっくりと膝を折った。
は元々呉軍の人間だった。
故に、凌統と甘寧がこの軍に降って来た経緯も知っている。
特に凌統と恋仲になり、甘寧と戦友になり。
彼らのやり取りを見ているうちに…その中にある本心も手に取るように解るようになった。
解り合いたいのに…最後の一歩が踏み込めない、そんな気持ち。
(不器用なのは二人とも同じじゃない…)
は二人の隠れた共通点に可笑しくなると同時に。
なかなか親友にまでなれない二人をもどかしく感じていた。
そして。
この蟠りを…どうしたら拭えるか。
二人に…公績に、私は何が出来る?
彼女の心には何時も疑問がついて回っていた…。
軍から少々離れた所にある小高い丘の上。
眼下には小さな集落と、人々に潤いを与え続ける長江が穏やかな波を立て、流れている。
凌統の視線の向こうには傾きを強くした太陽がその存在を大きく、空を違う色に染めかけていた。
足を投げ出すように座り、視線を動かす事なくぼうっと斜陽を眺める凌統は。
心の中の靄を吐き出すように…頻りに溜息をついていた。
そして、また溜息をつこうと息を吸ったその瞬間…。
ぼごっ!!!!!
凌統の後頭部に突然硬い物が当たる衝撃がした。
「…てっ!!!」
殆ど反射的に後ろを振り返ると。
視線の端に形を微妙に歪めた梨が音もなく転がっているのが見えた。
そして、その更に先。
左腕には梨を数個抱え、右手でポンポンと小気味良く梨を弄んでいるの姿を捉えた。
は凌統に向かって歩を進めながらその顔に微かな笑みを含める。
「…何辛気臭い顔してんのよ」
「………」
「甘寧に負けたの…そんなに悔しい?」
「…そんなんじゃない」
かぶりを振りながら視線を地に落とす凌統。
それきり、その場には時が静止したような沈黙が訪れる。
は凌統の隣まで来ると、梨を傍らに置いて膝を抱えるように座り込んだ。
そして、梨を一つ掴んで「公績。お一つどうぞ」と凌統の目の前に差し出すと。
凌統が「お…悪いな」と受け取り、服の袖でごしごしと擦る。
それを見て、は凌統の微かに愁いを帯びた瞳を覗き込みながら梨にかぶりついた。
凌統も目を伏せながらに倣って梨を口に運ぶ。
しゃりしゃり…。
沈黙を埋めるような小気味の良い音が響き、瑞々しい梨の果汁が二人の喉を潤していく。
凌統は、同時に自分の心も潤っていくような感覚がした。
その潤いを齎してくれるのは、紛れもなく自身で。
「相も変わらず、この時期の梨は美味しいわね」とからから笑いながらも自分を気遣ってくれているのが解った。
あんたには敵わないな…と隣にある笑顔を横目で見ながら思う。
どんなに自分の心を押し殺しても、彼女には全て見透かされてしまうのだから。
「はは…。 厭な奴だな…俺って」
凌統は僅かに自嘲を含んだ笑い声を吐き出すと短く零した。
すると、は今迄膝を抱えていた腕を胸の前で組むと、背中を反らして大きく頷きながら言う。
「そうね。 …あの態度は誰だっていい思いしない」
「そうだよな…」
「でもね、公績。 甘寧は貴方の事心配してたわよ」
「!!!!!」
の一言が面白くないのだろう…。
凌統は唇を真一文字に結び、猜疑心に満ちた瞳でを見つめる。
「…、あんたも…甘寧の味方すんのかよ」
「あのねぇ…。 何捻くれた事言ってんのよ…全く」
腕を組んだまま「やれやれ…」と頭を振る。
これだからなかなか前に進まないのよ…とは呆れながら心の中で文句を言った。
そして、組んでいた腕を解いて手を地面につくと凌統の目の前に自分の顔をずい、と寄せて続ける。
「そういう事ばかり言ってたら…甘寧どころか、誰も友達いなくなっちゃうよ?
確かにね…今ここに居なければいけないのは甘寧の方かも知れない。
でも。
貴方を追おうとした甘寧を制したのは私。
今の貴方に…まともに話しろって方が無理だと思った。
何時ものように口論で終わるだろうってね。
甘寧の肩を持つつもりじゃないけど…。
貴方に何時までもそういう扱いされてたら…甘寧が余りにも可哀想だわ」
かぶりを振り、僅かに目を伏せる。
悲しげな表情に凌統は心を鞭で打たれたような気がした。
自分の事を想い、友にも気を遣うの優しさ。
俺にも…彼女のような心の余裕があれば…。
改めてを見つめる。
今にも泣き出しそうなその瞳に…自分の中に愛おしさがこみ上げてくる。
凌統は目の前の小さな肩にそっと手を添えた。
…しかし。
刹那、の伏せられた目がぱっと凌統を見据える。
は唇を僅かに窄ませると悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。
「公績…今、『口付けしたい』って思ったでしょ?」
「はは…あんたにはやられっぱなしだな」
彼女の言葉に心からの笑いを零す凌統。
先程までもやもやとしていた気持ちが嘘のように晴れていく。
「ありがとな、。 あんたが来てくれてよかったよ」
間近にある笑顔に自身のそれを近づける。
橙色を強くした斜陽の光を受けて、二つの影が一つに重なった…。
一時の後。
肩を並べ、斜陽を眺めていた二人だったが。
不意にがその場で「よいしょ」と正座に座り直した。
「…?」
突然の行動に凌統は訝しげな表情を浮かべ、を見つめる。
すると。
は徐に凌統の頭を両手で引っ掴み、殆ど強制的に自身の太腿へ導いた。
「わっ! ちょっ…」
言葉にならない言葉を発しながら身体を倒していく凌統。
刹那、二人によって膝枕が完成した。
は母が我が子にするように手を凌統の頭に添え、柔らかく撫でる。
その手に言いようのない心地よさを感じながら凌統が問う。
「…。 どういう風の吹き回しなんだ?」
「ん? …ついで、よ」
はその問いに短く答ると視線を斜陽に戻した。
言葉はなくとも、今の凌統には彼女の気持ちが手に取るように解った。
自分を癒そう、という優しさ。
そして、もっと触れ合っていたい、という気持ち。
………それは俺も、同じだから。
角度は変わったが…凌統もが見据える方向に顔を向け、橙色を一杯に受ける。
その場に再び沈黙の時が訪れた。
しかし。
先程とは違い、緩やかな時の流れを…凌統は傾いていく斜陽から感じる事が出来た。
空は何時しかその半分以上を群青色に変えていた。
冷たい風がの頬を掠め、軽く身体を震わせる。
それを触れていた頬に感じた凌統は
「お嬢さん…そろそろ、帰りますか」
横になっていた身体を起こし、の冷えかけた手をぎゅっと握った。
立ち上がった二人。
刹那、ぐらりと揺れるの身体。
「…。脚…大丈夫か? …負ぶさってやろうか?」
茶化すようにの肩を抱き、気遣うような言葉を投げる凌統。
はふふっと笑いながら「それだけは勘弁して」と零し、凌統の肩を借りて地に足をしっかりつける。
その肩に頭を凭れかけ、はゆっくりと口を開いた。
「ねぇ…公績。
…こういう事言ったら『馬鹿らしい』って言うかも知れないけど…。
今見てた太陽もさ、色を変えながら沈んでいくじゃない?
でも…明日には何事もなかったかのようにまた昇ってくるよね。
人の気持ちもそれと同じだと思う。
貴方と甘寧…二人が今の気持ちを忘れないで居れば…
きっと何時か…心から酒を酌み交わす事が出来ると思うんだ。
だって…。
野郎の友情って、固いっていうじゃない?」
沈みかけて光を失っていく太陽に背を向け、「羨ましいわ」と言いながら笑う。
その笑顔に押されるようにして凌統も踵を返した。
そして、先を歩く後姿に…僅かに声を上げて言葉を繋ぐ。
「。
あんたが居れば…
甘寧とのこれからも…この乱世の中も。
全て上手く行くような気がするよ」
「ありがと、な!」と再び肩を並べて歩きながら凌統は。
頼もしい恋人の手をぎゅっと掴んだ。
…もう二度と、離さない…と言いたげに。
そして、既に沈んで光を失った太陽の方向に一瞥をくれると小さく呟き、笑った。
「陽はまた昇る…か」
「くっそぉ! 援軍はまだ来ねぇのかよっっっ!」
次々に斬りかかって来る敵軍の群れに甘寧は辟易していた。
彼の切っ先は未だ鈍っていない。
いや、寧ろこのまま放っておけば…一人でも何時かはこの本陣を制圧する事だろう。
しかし。
彼には一人で勝利する気など全くなかった。
来るべき『援軍』と共に…という気持ちがあったからだ。
したがって。
辟易している…というよりは手加減をするのに疲れてきた、と言った方が正しいかも知れない。
「だぁぁぁ!!! てめぇら、いい加減うぜぇんだよっっっ!」
痺れを切らした甘寧が『無双乱舞』を発動させようと構えを低くした刹那。
「さぁて、と」
背中に待ち侘びていた気配を感じた。
甘寧は唇の端を楽しげに吊り上げ、それをしかと確認した。
そして。
「暴れるぜぇぇぇぇ!!!」
二人の『激・無双乱舞』が敵の群れに炸裂した。
止め処なくやってくる兵士。
その一撃を難なくかわしながら甘寧が声を張り上げる。
「凌統! 遅かったじゃねぇか!」
「悪いね…。 俺、あんた程馬鹿じゃないんでね」
「…何ぃ??? …折角お前のために残しといてやったってのによ」
「はは…そいつはありがたい話だねぇ。 それじゃ、直ぐに片付けちまいますか」
にやり、と甘寧と同じく笑いながら膝を折る敵兵の身体を蹴り飛ばす凌統。
………その背中に新たな敵の一撃が迫る。
刹那。
ぎぃ…ん!!
その一撃を弾き飛ばす刃の一閃が二人の目の前を走った。
「貴方達ねぇ…。 仲良くお喋りはいいけど…もうちょっと真面目にやってくんない?」
「「!!!」」
得物を構え、目の前に居る敵兵の首を躊躇いなく斬り落とす。
そして、三人が一同に会し…それぞれの背中を預けるように立つ。
「随分派手にやったわね…」
「いや…これでも本気じゃないんだぜ? なぁ、凌統?」
「…俺に話を振るなっての」
「はぁ…」
は得物を持った両手を挙げ、大袈裟にかぶりを振ると呆れたように言葉を紡いだ。
「あまり私の手を煩わせないでくれる?
暴れ馬を手懐けなきゃならない私の身にもなってよね。
一頭だって大変なのに…今は二頭に増えちゃったんだから」
からから…と笑うと。
「お遊びはこれまでにして…さっさと終わらせて帰るわよ!」
掛け声一番、二人よりも早く敵の群れに突っ込んでいく。
二人はそれを追いかけるように得物を構えながら言葉を交わす。
「なぁ…凌統」
「どうした? 相棒」
「『暴れ馬』って…のためにある言葉なんじゃねぇか? 大きな声じゃ言えねぇけど…」
「そりゃ本人には言えないねぇ…強ち間違いじゃないけどさ」
戦場に二人の笑い声がその場に似合わず、響き渡った。
そして…三人の軍団が敵の本陣を直接突いた事で、戦は難なく呉軍の勝利で終わった。
清々しい表情を浮かべ、帰還の途に着く三人。
肩を組み、先程の武勇を互いに自慢し合いながら歩を進めるその背中達に。
長い一日の終わりを告げるべく、斜陽が光を与え続けていた。
彼らの明日も…また陽が昇るように……………。
劇終。
管理人のアトガキ。
『小夜曲』の管理人である小夜禾様からのリクエスト。
此度は素敵なリクエストをありがとうございます!
内容は。
お相手は凌統さん、さりげない感じのラブラブで…というもの。
簡潔なリクエストで、一見簡単そうに見えますが…。
『さりげないラブラブ』とな?
と暫し考え込んでしまった管理人(滝汗
リクエストをいただいた時。
甘寧との関係も書きたいと思っていたんですが。
それが一番の間違いだった事に気付きました(爆死
甘寧が思った以上に出しゃばってしまって…。
しかも長いし、こじ付けみたいな感じになってしまうし…。
いろいろと本当にすみません、小夜禾様。
お待たせいたしました。
このような物で宜しかったらもらってやってください(切願
………詳しい裏話などは日記にて。
宜しければどうぞ(汗
そして、此処までお付き合いくださった皆様に。
本当にありがとうございました!
2006.12.22 御巫飛鳥 拝
使用お題『落陽』
(当サイト「短めお題10連発!」より)
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