『呉軍 勝利』



その一報がの元に届いたのは朝早く。

絶え間なく運ばれてくる怪我人の手当てに奔走している時だった。

いつものように軍医として冷静に治療を施していただったが。

流石に抑え切れなかったのか、気持ちが満面の笑顔になって溢れてきた。





嗚呼…彼が帰ってくる…。

伯言…。













ただいま














外が人々の歓声で賑やかになり、その場の熱気がの居る医務室まで伝わってくるようだった。

は仕事の手を一旦止めると、風通しのために半分ほど開けた窓から外を見やった。

「いよいよ帰ってきたね、父上」

…そう喜んでもいられんぞ。私達の仕事はまだまだ忙しくなるからな」

「…そうだね! さぁ、次の怪我人は?」





医務室は依然戦で傷ついた者達でごった返していた。

それでも今回の戦は呉軍の圧勝だったらしく、重傷人も比較的少ないと言えた。

「総大将を始め軍団長のうち、負傷者は誰も居なかった」との報告も入っている。

其の報告にもすっと胸を撫で下ろし。

逸る気持ちを抑えながらも仕事に勤しんでいた。





伯言…。

早く…貴方に逢いたい!















「え…どういうこと?」

昼夜を問わず仕事を続け、やっと休息の時を迎えた軍医達は宴席に通された。

その場には戦に出陣していた武将達が、勝利の美酒を堪能し酔い痴れていたが。

はその中に居るべき人物が居ない事に逸早く気付いた。

どんなに多くの人が居ようとも…只一人、愛する人の姿を見逃す筈はない。

居た堪れなくなり、は踵を返して宴席から出て行ってしまった。





「伯言…」

縁側に腰掛け、暗く霞がかった空を見上げながら途方に暮れる

と、其処に凌統が自身の頭をかきながら姿を現した。

一瞬陸遜かと思ったは直ぐに振り返ったが、其の人でない事を知ると再び空へと視線を戻した。

「なんだ、凌統か」

「なんだ、はないだろ…。隣、いいかい?」

「どうぞ、ご勝手に」

「つれないねぇ…。 よいしょっと」

の無愛想な言葉にひとつ呟き、宣言通りの隣に座る凌統。

そして、同じように月を見上げながら独り言のように言葉を吐く。

「…陸遜から伝言。『私はちょっと用を足してから戻りますので、皆さんより少し帰りが遅くなります』だってさ」

「…!!!凌統…それ!」

思い掛けない言葉にが凌統に驚きの表情を向ける。

その表情を当然のように見返し、凌統はふっと微笑った。

「あんたが驚くのも無理ないな。…俺も此処へ帰る途中に突然耳打ちされたもんだから…」

「…それにしても遅いじゃない。『少し』どころじゃないわよ!」

「…俺に怒るなっての」





結局、凌統の報告もの不安を払拭出来なかった。

確かに今迄にも何度か同じような事があった。

しかし、帰りが深夜になる事がなかっただけにの心配は募っていく一方だ。

(もしかして…残党に?)

という気持ちが心の底からふつふつと沸き上がる。





「…心配要らないさ。幾ら陸遜だってそこら辺の兵士よりもずっと強いんだぜ?」

「でも…」

「とりあえず宴席で待っていよう。がいきなり出て行ったから、殿がちょっとばかりご機嫌斜めなんだ」

凌統の一言にはっとする。

そうだ、あの宴席は殿−孫権様−の主催する宴席だったんだ、と思い出して。

一足早く立ち上がった凌統に向かってこくん、と頷いた。





そうだね、伯言。

きっと…もうすぐ帰ってくるよね。

私…待ってるから。















が宴席に戻ってから数刻が過ぎた。

宴席の盛り上がりも最高潮になり、ある者は歌い、ある者は踊り…と各々酒を楽しんでいる。

其の中、の表情だけ晴れないままで居た。

涙が出そうになるのを必死で堪えていると、



バァンッッッ!!!



場内の大扉が突然大きな音を上げて開いた。

一同が其の音に驚き、注目する。



其処に立つ紅い服の青年は。

その場に倒れてしまうのではないか、と言う程に息を切らし。

飾りの付いた帽子から覗く髪は自身の汗で顔や首にべっとりと貼り付いていた。

それでも其の表情は明るく、視線は誰かを探すように場内を泳ぐ。

「陸…伯言、遅くなりましたが…ただ今帰還しました!」

息を必死に整えながら宣言する陸遜。

其の姿を見るや、場内がより一層騒がしくなる。



…伯言…。



は待ち侘びた恋人が無事に帰ってきた事に安堵すると同時に。

自身にも理解し難い怒りが込み上げてきた。

勢い良く立ち上がると、自然と足がつかつかと陸遜の方へ向かう。



………



「おい、ちょっ…!」

制止しようとする凌統の言葉は最早聞き及ばず。

はとうとう陸遜の目の前へ辿り着いた。



バチンッ!!!!!



場内が一瞬にして水を打ったように静まり返る。





自身の左頬に手を宛がい、呆然とする陸遜に。

「…心配、させるなよ」

右手を振り下ろしたままのの低く震えた声が浴びせ掛けられた。

陸遜が見詰め続けるの姿。

僅かに伏せた顔は上気し、怒りを露にしているが…。

其の瞳には涙が今にも零れ落ちそうな程溜まっていた。

そして、その涙を振り払うように踵を返し、宴席から駆け足で出て行く。





「あっ…! 待ってくださいっっっ!」

一瞬間が空き、はっと我に返った陸遜は軽く頭を振ると、孫権への挨拶もそこそこにを追い駆けて行った。















「………」

人気のない中庭。

昼間なら…軍の人間達で多少の賑わいを見せる所だが…。

今は夜の帳が下り、宴席の騒々しさも此処までは届かない。

は其処に置いてある背丈程の大きな石に額を付け、一人涙を零していた。



殴りたくなかった。

優しく微笑みたかった…。

だけど。

何時帰るか解らない愛しい人を待つ気持ちが遣る瀬無くて…。





すると。

ふうわり、と柔らかく背中から包み込んでくる腕。



嗚呼…この感触…。

伯言…。



「…もう、逃げないで下さい…

「にっ…逃げてなんかっっ!」

涙を見せたくないのか、俯いたまま頭を振るに陸遜はふっと微笑い掛ける。

…こちらを向いて下さい。…早く貴女の顔が見たいです」

「…泣き過ぎて鼻が赤くなってても?」

「はい、勿論。それに…幸い今宵は既朔(きさく)。鼻の色までは判りませんよ」

「…うん」

陸遜が抱き締める腕を僅かに緩める。

は涙を拭き、ゆっくりと向きを変えて陸遜の腰に手を回す。

ようやく二人の視線が絡まった。

「愛しています…

「伯言…私も、愛してる」

そして…自然に二人の唇が一つに重なる。





「ごめんね…伯言。 頬、痛くない?」

「いえ…こちらこそ、心配掛けてすみませんでした」

「本当。心配で心配で…死んじゃいそうだったわ」

「そんな…大袈裟な」

「ふふっ」

何時の間にか二人の顔からは笑みが溢れていた。

お互いの冷えた身体を暖めるかのように抱き締め合ったままで。





「そうだ、。…ちょっと動かないで下さいね」

「…え?」

突然、陸遜がの頭の上でごそごそと手を動かし始める。





暫くして。

「…はい、出来ました」

「えっ? 伯言、何したの?」

「…顔を池に映してみて下さい」

は疑問を抱いたままだったが、素直に陸遜の言葉に従った。

池の水面は既朔で僅かに照らされて、の姿を朧(おぼろ)げに映す。

「…これは…?」





の髪には…桃の花を模った髪飾り。

後ろで束ねた髪型でも似合う其の髪飾りは、まるでの髪に桃の花が咲いたような鮮やかさを持っていた。

が訝しげな表情を向けると、陸遜は一瞬目を閉じ、ゆっくりと言葉を吐き出した。



「行軍の途中、立ち寄った村でそれを見付けた時…

真っ先に貴女の顔が思い浮かびました。

、きっと貴女でなければ似合わない、と。

そして、こう誓ったんです。

『この戦に必ず勝利し、これを買っての元へ戻るんだ』と。

ですが…直ぐに判ると思った店がなかなか見付からなくて…」



すみませんでした、と俯く陸遜。

はその顔に手を添えると

「ありがとう…もういいわ。 伯言は『誓い』をしっかり守った、それだけでしょ?」

髪飾りに負けないくらいの鮮やかな笑顔で言った。





夜も更けて。

そろそろ部屋に戻ろう、とが踵を返した刹那。

「あ、。…一番大事なことを忘れていました」

陸遜がの腕を引いて再び抱き締める。

そして、彼女の耳元に顔を寄せると

「ただいま帰りました、

と囁き、桃の花に飾られた黒髪に軽く口付けた。





おかえりなさい。

私の一番愛する男(ひと)…。





ただいま。

私の一番大事な、可愛い女(ひと)…。









fin.

アホガキアトガキ


企画参加モノです。
しかし…
お題に沿って書いたつもりが、最後だけ?な感じに。

しかも長いし orz


今回はちょっとした『すったもんだ』の後のハッピィエンドを狙いました。
長くて拙いですが…。
どうぞ載せてやってください(ぺこり〜


最後に、企画に参加させて頂いたユマ様と…
このような駄文にお付き合い下さった読者の皆様に大いなる感謝を!!!

本当に、本当に有難う御座いました☆



注:既朔(きさく)=二日目の月



2006.8.16     御巫飛鳥 拝

使用お題 『ただいま』