「姜維、」
「はいっ」
「今回の二人の策は、なかなか良い出来だと思いますよ」
静寂が漂っていた空間に、落ち着いた男の声が響く。名を呼ばれた二人の男女は、緊張の面持ちで目の前に立つ男の後ろ姿を見つめていたが、振り向いた男が告げた言葉に顔を綻ばせて、二人で顔を見合わせると大きく頷き合った。
「ありがとうございます、丞相!!」
笑顔で礼を述べる二人の弟子の姿に微笑むと、師である諸葛亮は窓側へ向き直り、再び空を仰いだ。
諸葛亮の部屋を後にした姜維とは、二人並んで回廊を歩いていた。
「あー本当によかった!」
「、さっきからそればかり言ってますよ?」
緊張から解放されたためか、が伸びをしながら言えば、姜維はやや呆れたように返す。しかしその表情には言葉と裏腹に嬉しさが滲んでいた。
「だって丞相が認めてくれたんだよ? これまでずーーーっとダメ出しばかりだったけど、やっと! だから本当に嬉しくって」
「はいはい、それは実戦で結果を出してから言ってくださいね」
「もう、姜維固い! 姜維だって嬉しいでしょ?」
口を尖らせたが姜維に詰め寄ると、姜維はうっ、と言葉を詰まらせた。嬉しくないはずがなかった。ここふた月ほどの間、と二人で何度も策を練り直して、ようやく師に認めてもらえたのである。ほぼ毎日夜遅くまで、書庫で書物を読み漁り、部屋に籠ってはああでもないこうでもないと議論を重ねていた成果が、今日この日にようやく出たのである。
「本当、よかった。ありがとね、姜維! 姜維のおかげだよ」
「それは私の台詞ですよ。、ありがとう」
回廊の真ん中でお礼を言い合う自分たちに、なんだか気恥ずかしくなったが姜維から目を逸らした先には、雲のない夜空に輝く満月が静かに佇んでいる。
「綺麗……」
「丞相も、この月を見ていたんですね」
「うん、そうかも。……ね、姜維。私なんだかやる気出てきた!」
「え?」
振り返ったの笑顔に、姜維は一瞬どきりとしたものの、次にの口から飛び出た言葉に頭を抱えたくなった。
「お願い、私に付き合ってほしいの」
「まさか、これから……?」
「時間は取らせないからっ。それに……姜維じゃなきゃだめなの。お願い!」
両手を合わせて縋るような目で頼まれると、姜維はもう断る気も失せてしまって、結局の頼みを引き受けたのだった。
***
翌朝、窓枠から差し込む陽の光にようやく身を起こした姜維は、深くため息を吐いた。昨夜、「時間は取らせない」と言っていたは、未だ目の前で眠りこけている。机に突っ伏すような形で睡眠を貪るの肩を揺さぶって声を掛けるが、返事はなく規則正しい寝息が聞こえるだけだった。
「……なんですか、これは」
恐らく意識の半分は眠りの態勢に入っていたのであろう。下敷きにされてよれた紙には文字とは言えない羅列が書かれていた。それはの右手に握られた筆の位置まで続いていて、黒く滲んでいた。
「まるで、蚯蚓の這った跡のような文字ですね」
姜維は思わず苦笑して、が必死に眠気と格闘して学ぶ姿を思い浮かべた。それからへと視線を戻してもう一度声を掛けるが、やはり返答もなければ、身動ぎのひとつもしない。
「……」
肩に置いていた手をゆるゆるとの頭の方へと持って行き、その艶やかな黒髪の上を指が滑るようにして撫でた。男の髪にはない滑らかさに、姜維は撫でていた髪の一房を優しく持ち上げた。そうして自然と口元を寄せようとしたところで、部屋の戸を叩く軽快な音が響いて姜維は我に返った。
(今、何をしようとしていたんだ私は……っ!)
「姜維殿?」
戸の向こう側から自分の名を呼ぶ声が聞こえて、姜維は慌てて戸を開けた。訪ねて来たのは、武将の関索だった。
「おはようございます、姜維殿。鍛錬のお誘いに参ったのですが」
「え? あ、もうそんな時刻ですか!」
近頃、関索と共に鍛錬に行く機会が多く、今朝もそのつもりでいた姜維であったが、の存在ですっかりその事を失念してしまっていた。
「? どうかしましたか?」
「あっ、い、いえ……まだ何も準備が整っていないもので」
先に鍛錬場へ向かってほしい、と姜維が告げる前に別の声が割って入った。
「ん〜……、きょう、い……?」
声の主は深い眠りを貪っていた本人で、いつの間に目が覚めたのか、目を擦りながら姜維の傍までふらふらとやって来た。そして姜維から関索へと視線を移したは、ふにゃりとした締まりのない顔で「関索だぁ」と笑った。
「、いつの間に起きて……っ!」
「うーん、何だか話し声が聞こえて……?」
「さっきはあんなに声を掛けても起きなかったじゃないですか!」
「え? そうなの?」
「そうですよ! 大体、昨晩時間は取らせないと言っていたのに、いつも貴女は……っ」
「あの……」
「え?」
姜維が一方的にに詰め寄っていたところで、遠慮がちな声が横から入る。怪訝な表情で姜維が振り返った先には、困ったような笑みを浮かべる関索が立っていた。しまった、と内心姜維が焦っているのを余所に、関索は嫌味のない笑顔で「どうやら私は邪魔をしてしまったようですね」と言うと、二人に軽く頭を下げてから颯爽と去って行った。
「……はあ」
「姜維、ごめんね……? 私ひとりじゃ埒があかなくて、それで姜維なら何か良い考えを持っているんじゃないかと思って……でも、姜維にいっぱい迷惑かけちゃったね……」
溜息を吐く姜維の隣で、がぽつりと呟く。普段、天真爛漫なの口から洩れる意気のない声音に、姜維は、彼女が何を言ったのか理解できなかった。
「……?」
「ありがとね、姜維。姜維のおかげだね。……それじゃ、お邪魔してごめんね!」
引き止めようと思っていたはずなのに、言葉が喉に詰まったかのような感覚を覚えて、姜維は静かにの後ろ姿を見送っていた。去り際のの言葉を気にかけながらも、何の確信も抱けず、気を取り直して鍛錬場へと向かう準備を始めたのだった。
***
その日を境に、数日間姜維とは顔を合わせていなかった。師である諸葛亮が、彼女に何か頼みごとを言伝しているのかもしれないと、姜維は考えていた。
「そういえば、最近は姜維殿と殿が共に居るところを見かけませんね」
「言われてみれば……。姜維殿、何かあったのですか?」
それは鍛錬場で、関索と関平の兄弟二人と共に鍛錬を行っている時の会話だった。突然今しがた考えていたことをぴたりと当てたような話題を振られて、姜維はびくりと反応した。槍を持つ手に少し力が籠る。
「数日前までは、丞相に認めてもらえるような策を長期間練っていたものですから、きっとそのように感じられるのでしょう」
姜維は、きちんと普段通りに笑えているのかわからなかった。口ではこう言っていても、どこか自分で自身の言葉に違和感を感じてしまう。ふたりは共に諸葛亮に教えを乞う弟子同士という立場、言わばたったそれだけの関係のはずだ。そう心の中で自分に言い聞かせる姜維だが、たとえ諸葛亮からの課題がなくとも、傍らにはいつもが居て、笑いかけてくれていたことが思い浮かんだ。
「あっまいなー!」
そんな時、不意に話に割り込んできた高い声に、男性三人の目が一斉に向けられる。するとすぐに関索の目が見開かれて、やがて優しい色へと変わった。
「だって、女の子なんだから! 今姜維殿と一緒に居ないのだって、誰か好きな人が出来たからなのかもよっ? もうその人に夢中ってやつ!」
「鮑三娘殿……」
「珍しいね、君がここへ来るなんて」
「関索に早く会いたくなっちゃって」
照れた表情で関索を見上げる鮑三娘と、優しく微笑み返す関索、その二人が醸し出す恋仲の雰囲気に、関平はややどぎまぎした様子で「拙者はこれにて失礼」とだけ告げて、早足でその場を後にした。姜維もそれに続きたい気持ちだったが、鮑三娘が告げた言葉が気になっていた。
「には……特別な人が、居るのでしょうか……?」
今までずっと共に居たけれど、彼女の異性関係の話を耳にした覚えはない。でもそれは、ただ彼女が口にしなかっただけなのではないか。
知りたいようで、知りたくない。ふたつの相反する考えが心の内でせめぎ合う。姜維は、目の前の見知らぬ扉を開くときの不安と恐怖にも似通った気持ちを抱いていた。
「そんなの、当たり前に決まってるじゃん! それに、って本当に人気あるんだからっ」
見た目にそんなに気は遣ってないみたいだけど、普通に可愛い顔してるし、明るいしね! 鮑三娘はまだ何か言葉を続けていたが、姜維の耳を右から左へと風のようにすり抜けていくだけだった。それから後のことは、姜維自身もよく覚えていなかったが、どうやら関索と鮑三娘にはきちんと別れを告げたらしかった。今、廊下を歩む足は確かに自分の身体の一部であるのに、姜維はそれがどこへ向かっているのか知らなかった。ふと顔を上げて周りを見渡せば、普段あまり利用しない談話室の並んだ階層に居ることに気が付く。
(いつの間にこんなところまで……)
足を止めて、来た道を引き返そうと思ったところで、階下に資料庫があることを思い出して、姜維は階段を下りることにした。
(そういえば……この資料庫でと書物を探すのに一晩かけましたっけ……)
ほんのひと月ほど前の事だが、姜維にはずいぶん昔の事であるかのようにその出来事が思い起こされた。気が付けばの事ばかり考えてしまう自分に喝を入れるように頭を数回振ると、資料庫の古びた戸に手を掛けてゆっくりと開けた。錆びたような金属音が低く響く。中に足を踏み入れると、人の気配がすることに気が付いた。どうやら話している様子だった。
「ずっと……好きでした」
「!」
思わぬ告白の言葉が聞こえて、姜維は咄嗟に歩みを止めた。いつ誰が来るかもわからない資料庫で告白なんてよくやるな、と姜維は頭の片隅でぼんやり思いながら、告白をしている男の顔をそっと窺う。そこで、それが自分の部下に当たる武官であることに気が付く。姜維と年はさほど変わらない。将来有望な好青年であるその彼の事は、師である諸葛亮も評価していたはずだ、と記憶を手繰り寄せる。若く、人当たりもいい彼は、確か女官の間でも噂されていた。そんな彼が好きになる女性に興味が沸々と湧き始めるが、覗き見をしているということに後ろめたくなって、姜維はゆっくりと物音を立てないように資料庫の入口まで引き返すことにした。そうして戸の取っ手に手が触れたところで聞こえた声に、姜維はぴたりと動きを止めた。
「あ、あの……、その、貴方の気持ちは嬉しい。けど、」
振り返って目にした横顔は、久々に見る本人で。その表情は恥ずかしさからか気まずさからなのか、どこか固い笑顔で、姜維は、彼女に彼と恋仲になる気はないのだということを悟る。そして、その事に心中でひどく安堵した。
「姜維殿ですか?」
心を休めたのも束の間、今度は青年の口から自身の名前が飛び出したことで、姜維は無意識に肩を強張らせた。ふと、の様子が気になって目を向けるが、彼女が少し俯いてしまったため、その表情を見ることは叶わなかった。
「失礼かと存じますが……殿は近頃、姜維殿と行動をしていませんよね。それに、姜維殿と共に行動をしなくなった頃から、貴女の様子が変わった」
「…………」
姜維は、青年の言葉に息を呑んだ。の様子が変わったことなど、と顔を合わせていない姜維が知るはずもなかったからだ。思えば、先程見た彼女の横顔には、いつもの明るさも元気な笑顔もなかった。の変化に、今の今まで微塵も気が付かなかった自分。その事実に姜維は、固く拳を握りしめる。
「姜維殿と何かありましたか?」
「……そんな、何も……」
「俺では、頼りになりませんか……?」
優しい声音で問い掛ける青年に、がゆっくりと顔を上げて青年を見つめた。その目は何かを決意したような色をしていて、姜維の背中に嫌な汗が一筋流れる。青年は柔和な笑みを浮かべると、一歩へと歩み寄り、その両腕で彼女を抱き締めようとした―――その時。
「…っ、ッ!!」
姜維は、居ても立っても居られなくて、気が付けば強い衝動に突き動かされるようにして飛び出してしまっていた。二人の間に突如割り入った姜維に、青年もも目を丸くする。が、青年はすぐに我に返ると、射るような目線で姜維をじろりと睨む。大方、いいところで邪魔をされたことに対して腹を立てたのだろうが、姜維にとっては最早そんなことはどうでもよかった。彼の一番強い気持ちは、と話したいということだった。目の前の青年からへと目線を移して、その手を取ると姜維は駆け出した。呆気にとられた青年が後ろの方で声を上げていたようだが、姜維は一切振り返らずにただ走った。
***
「っは……はぁっ、」
「はあ、はあっ、はぁ……」
姜維が辿り着いた先は、自室だった。肩を上下させて息を整わせてを見遣ると、彼女は未だに息を切らせていて苦しそうにしていた。その姿に申し訳なく思った姜維が、水を差し出そうとした時、が口を開いた。
「……して、」
「え……?」
「どう、して……こういう事っ、する、の?」
か細い声を上げるに振り向いて姜維は目を見開いた。の頬は涙で濡れていて、姜維を下から睨むようにして見ていたからだ。
「私のっ、こと…迷惑なんで、しょっ……! だったらもうっ、放っておいてよ……っ」
「…………」
「う、ぅっ……っふ、…っ」
「……」
姜維がの腕をそっと取ると、彼女は拒絶を示して幼子のように暴れた。その態度に胸が痛むのを感じながらも、姜維はその手を離さなかった。
「私は、のことを迷惑だなんて思った事、一度もありませんよ」
「っえ……? や、そんなの、うそ……っだって、あの時……っ」
「あの時?」
「“いつも貴女は”って、溜息だって吐いて……っ、それに、いつも怒ってばっかり、じゃないっ……!」
「あ、あれは……っ! というか大体、迷惑だと本気で思っていたらずっと一緒になんて居ませんし、部屋にだって上げませんよ!」
姜維が一瞬赤くなって、言い淀んだのをは見逃さなかった。「あれは、の続きは何なの」と問い詰められて、姜維はぐっ、と言葉を詰まらせるが、資料庫での光景が頭を過ぎって反撃に出た。
「そ、そんな事より! さっきの資料庫でのあれは何なんですか!」
「えっ、あ、あれは……っこ、告白、されてただけです……!」
「何で急に敬語なんです? それに、私が割って入らなかったらあの彼に何をされていたか……!」
「な、ななな何言ってるの姜維、そんなことあるわけ、」
「は魅力的なんだから、十分考えられますよ」
姜維がさらりと告げた言葉に、今度はが真っ赤になって絶句する番だった。姜維はそれに気付いてか気付かずか、さらに言葉を続ける。
「私があの場に居なければ、は彼を頼るつもりだったんですか? 私よりも彼を……」
「…っ、だ、って……、姜維に迷惑かけないようにって離れてみたけど、やっぱり私つらくて、寂しくて……!」
誰かに縋りたかったのかもしれない、とが嗚咽交じりに告げる。その言葉を聞いて、姜維は掴んだ腕を引き寄せてを抱き寄せた。彼女はもう拒まなかった。
「が私を一番に頼ってくれることが、私は嬉しかったんです」
「で、でも……っ、姜維は、」
「あれは……ただの照れ隠し、です……」
「へ……? 照れ、隠し?」
ぽかんとした表情で聞き返すを、より一層強く抱きしめると、彼女の口から「苦しいよ」という言葉が、少し嬉しそうな声音で漏れる。
「がいつも、私のおかげだと言って笑ってくれて、それを幸せに感じたとしても迷惑だと思うはずがないじゃないですか」
「え、そんな一言、だけで……? 私、いつも本当に姜維に頼ってばかりなのに……」
「想いを寄せている女性に頼りにしてもらえて、嬉しく感じない男は居ませんよ」
「!? きょ、姜維……っ、それって……!」
「私だってと離れている間、寂しかったんですからね」
はふと視界に入った姜維の耳の後ろが赤くなっていることに気が付いて、姜維の腕の中で嬉しそうに微笑んだ。
「だから離れていた分、これから先もずっと傍に居てくださいね、」
「うん! 姜維、大好きだよ。これからもずっと、よろしくね?」
ふたり、いっしょがうれしい
(関索関索! あの二人、やーーーっとくっついたみたいっ!!)
(とても嬉しそうだね。そんな君を見ていると、私も嬉しくなるよ)
♪ こちらは作者様のあとがきです ♪
2012.06.10. up.
御巫飛鳥様へ、大変お待たせしてしまいましたが、10000HITフリリク小説です!
姜維お相手で、ほのぼのということでしたが、ご期待に副えたかどうか……。
友達以上恋人未満から恋人へという過程が長くなってしまいましたが、いかがでしたでしょうか?
こちらの作品は御巫飛鳥様のみ、お持ち帰りしていただけます。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました!
♪ ここからは管理人のアトガキです ♪
他サイト様の企画に汚ねぇ足でお邪魔しているのは…アタシだよっ(自爆!
というわけで………(汗
こちらは柚月明梨様のサイトにて行われている企画の夢です。
フリーリクと言うことで、しっかり甘えちまいました。
姜維でほのぼの。
いや、6からきょん太郎熱が冷めなくてですね…それでリクエストしたものですが…
私の期待を遥かに!物凄く!超えたお話で返ってまいりました!
大好きなんですよ…この 恋人未満→恋仲 っての!
なんとも煮え切らないきょん太郎がライバル出現でオタオタするとこもまた可愛くていいっ!
やっぱり…
若いってえぇですの。 ←老け込むな
明梨さん!
此度は萌え滾る素晴らしいお話をいただきまして本当にありがとうございます!
これで管理人の尻…もとい!(笑)心にも火がつきました!
一生の宝物にしますね♪(#^.^#)
2012.06.21 飛鳥 拝礼
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