踏み出した、ほんの小さな一歩。
見たことすらないその先は穏やかなものだろうか。
芍薬
遠い日の記憶を夢に見た。
初めてと手を繋いだ時だと、ぼんやりと映る視界に思う。
それは指を絡めるものでもなく、ただはぐれぬようにとの意味合いだった。
握った互いの手も背も、たいして変わらぬ大きさで。
先を行くのはいつも彼女の方だった。
いつからであろう。
当たり前のように握るその手が、小さく思えるようになったのは。
真直ぐにした視線に彼女の瞳が映らなくなったのは。
身長も体格も、男女の差だ。
それは異性であるのだと気付かせる思いと、踏み出せない思いを混在させる。
時は二人の形にも変化が必要だと告げていた。
長くもなく、たった一度きりの口づけを交わしてから数日が経った。
それはきっと互いに、精一杯の勇気だった。
小さいならば積み重ねていけばいい。時をかければそれはきっと大きくなる。
いずれ手を繋ぐことのように、簡単に。
想いの意味も変わるだろう。
輪郭を現した天井に、陸遜は思案することをやめた。
記憶に耽っている場合ではないと起き上がるべく手を動かす。
その手が想定していない物に触れたのに気が付き、次には嫌な予感がした。
まさかとは思いつつも体を捻らせて視界を移す。
そこにあったのは、寝台に腕を乗せて寝息を立てるの姿だった。
嫌な予感とは当たるものだと陸遜は一人げんなりしてしまう。
「おはようではありませんよ。何度目ですか」
起こしにと訪ねた者が眠ってしまっては意味がない。
ましてや三度に一度の頻度でこんな有様だ。
名を呼んで無理に起こした彼女は、へらと笑いながらおはようと言った。
その姿に一度ため息を吐いてから、着替えるからと強引に部屋から出した。
ああも悪びれた様子もないと、却って文句も言いにくいものだ。
言い尽くしてしまったというのもあるが。
手早く支度をしてから、扉を開く。
柱にもたれて待っていたが今にも眠りに落ちそうだったので手を掴んで強引に歩き出した。
「陸遜、私はここで別れるから」
手を離してくれないとと言われ、道中ずっとこのままであったことに漸く気が付いた。
結構な距離を歩いてきたが誰かに見られただろうか。
意識した途端に気恥ずしさが陸遜を襲う。
思わず勢いよく離してしまった自身に、彼女はにやと笑って返してきた。
気付いていないと知った上でここまで黙っていたのだろう。
「明日、休みだったわよね。読書をしに行ってもいい?」
大きく伸びをしながらそう請うにどうぞと短く答える。
手土産にと彼女も書を持ち寄るだろうから、予定がなければ大抵休みはそうして過ごす。
挨拶代わりにと手を挙げた姿を見送ってから陸遜も心持ち早く足を進めた。
陽が高く昇りきった頃、は遅い朝餉を手にやってきた。
それを共に食した後に、互いに竹簡へと手を伸ばす。
寝台を占拠されてしまったので、陸遜は仕方なく脇へともたれかかるように座った。
ひやと感じた床は敷物のおかげで痛いと感じることはない。
窓から入る陽射し暖かく感じられ、読書に耽るにはちょうど良い。
ただ同じ部屋にいるというだけで言葉を交わすでもない。
時折聞こえる小さな笑い声の理由は気になるが障るものでもないくらいだ。
視線を上下させながら、墨の形を追う。
どこから入手するのかは知らないが彼女の持ってくる書は変わったものが多い。
一つの物語を成しているそれは、頭を切り替えるには持ってこいだ。
堅くばかり考えてしまう常を忘れさせてくれる。
気晴らしにと読み進める陸遜とは逆に、は兵法書を好んで手に取る。
彼女にとってもまたある意味で平時と違うゆえに選ぶのだろう。
どこに面白い箇所があるのかは知る由もないが。
そうして衣擦れの音だけが支配する時間が過ぎて。
何度目かの含み笑いの後に、何かが投げられて落ちる音がした。
が読み終えた竹簡だろうと背を向けたまま推察する。
常であれば別の書物を取りにと起き上がる筈だが、そんな様子は感じられない。
目だけは字から離さず珍しいことだと頭の隅で考えをやる。
陸遜はまだ半ばを過ぎた辺りなので相手をしてやるには時間を要するだろう。
はっきり告げておいた方がいいかと思ったところで、髪を掴む指先の感触に気が付いた。
初めは毛先だけであったそれは段々と挙動を大きくしていく。
やがて掌にまで進んだので、何事かと振り返りはせず彼女に問いかけた。
さすがにこれでは気が散ってしまう。
感触は消えたが、からの答えは待てども届かない。
代わりにとばかりに返ってきたのは、伸し掛かる重さだった。
回された腕は陸遜の胸へと伸びる。
「何をするんですか!」
彼女から感じる体温でされていることに慌てて気が付き、腕を掴んで引き離す。
そのまま捻らせた視界に映った彼女は屈託なく笑っているばかりだった。
「やっぱり触れると、陸遜も動悸がするのね」
ふふと零してからは思い出すかのように左手を見遣る。
その姿は少しだけ艶を帯びていて陸遜をどきりとさせたが、彼女の真意は分からない。
当たり前だと窘めるように言ってから捻らせた体を元に戻した。
早くなった拍動が落ち着くのには時間がかかる。
突拍子もない行動は不快なものではないがゆえに却って心臓に悪い。
思わず浮かんだ後頭部の感触を打ち消すべく、ぷると頭を振ってから一つ息を吐いた。
空いていた左腕へと再度伸びてきた手には呆れつつも、するがままにさせておく。
構ってほしいのかと首を捻らせて様子を窺うと、彼女は寝台へと再び体を預けていた。
視線が交わったと気が付いたのか陸遜の手を包んでにこりと笑いかけてくる。
「手を握るのはこんなに平気なのに」
つい先程、は陸遜もと口にした。
触れただけで動揺するのは彼女も同じだと言わんばかりの言い回しだ。
それにしては随分と思い切った行動だと思いはしたが、言わずに心の中で留め置く。
慣れてしまって、当たり前のようになったからだろう。
ややあってから陸遜がそう答えると、満足気に口許を上げてから彼女はゆっくりと目を閉じた。
そのまま眠りに落ちてしまったらしい。
暫しの間を置いて温もりと共に伝わってきたのは規則正しい寝息だった。
片手では難儀をするので読み進めることは諦めて、竹簡を脇へと放る。
この状態ではまともには頭に入ってこないだろう。
続きは気になるが、嬉しそうな彼女の姿を浮かべて止めておいた。
天井を仰ぎ見るように寝台へ頭を預けて、陸遜も視界をまぶたで塞ぐ。
先に進むことへの憧れと躊躇いは二つで一つだ。
けれどそれはもきっと同じだから、変わらず心地良い暖かさを帯びたままだろう。
だからこそ今はこの位がちょうど良い。
目を閉じたまま一度ふふと笑ってから、陸遜も後を追うべく眠りへと意識を委ねた。
2010.01.31
☆管理人のコメント☆
はい、こちらのお話はゆのりさんからの誕生日プレゼントでいただきました!
りっくんと無邪気?なお嬢さんのほのぼの夢ですv
そうですねぇ…大人びていてもやはり少年なんですねりっくんわ。
更にはヒロインちゃんとの微妙な距離が悶え要素でもあるお話です。
管理人が久しく忘れていた(をい)ほんのり酸っぱい気持ちを思い出させてくれる逸品。
こんな素敵なものをいただける私は本当に幸せ者だと思いますはい!
ゆのりさん、此度はこのような素晴らしいお話をくださってありがとうございました!
今後ともよろしくお願いしますね!(平伏
2010.02.01 飛鳥 拝
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