きっと何時の日か
〜燃華(もえばな)〜
一人になりたい、と思った。
出来ることなら…今直ぐこの場から消えてなくなりたい、と。
空っぽになった心に重たい荷物を背負って―
ビルの屋上。
手すりを掴む手を離せば、間違いなく死への道が開かれる。
そんな場所に、私はぽつんと立っていた。
…やめろ! 君の人生はまだこれからだ!
…早まってはいけない! 君が死ぬと悲しむ人がいるんだぞ!
必死に私の行動を制止する他人達の言葉が背中に響く。
死を決意した人間に対して、そんな言葉が通用すると思っているのか…この他人達は。
―所詮、それは偽善だ―。
私を説得しながら、その言葉に自分が酔っているだけ。
偽善に溢れた言葉なんか、私の心には決して届きはしない。
「………さよなら」
私は、ゆっくりと生を掴む手を離そうとした。
刹那―
この場では聞こえる筈などない、耳元で囁くような…声が、響いた。
そこから飛び降りるくらいなら―
いっそ、僕が綺麗に斬ってあげる―。
「どうしたの? 」
隣の布団から訝しげな声がかかり、はゆるゆるとかぶりを振りながら身を起こした。
かなり魘されていたらしく…額には汗の珠が浮き、着ていた夜着の胸元が僅かに肌蹴ている。
「起こしてしまったようね。 ごめんなさい…何でもないの」
慌てて襟元を正し、枕元に置いてあった手拭いで汗を拭いながら隣の男へ視線を向けた。
すると
「そう? まぁ、いいけど…」
独り言のような言葉をに与えて再び枕に頭を付ける男。
間もなく寝息を立て始める姿を見つめながらは思う。
…こっちの気も知らないで…と。
一人ぼっちだった女と共に過ごしながらも…未だ指一本触れて来ない男。
自分にも理解し得ない気持ちと共に彼に付いて来たのだが…今迄極力人と関わらなかった彼女にとっては初めての気になる存在だった。
彼は一人、あるものだけを追い求めて日々を戦いながら過ごしている。
初めて会った時…は彼自身、そして彼が追い求めるものに心を煽られたのだ―。
気がつくと、その場には何もなかった。
見渡す限りの草原が西日に晒され…遠くの空を黒い点が飛び交っているだけだった。
は唯一の持ち物―冷たい光を放つナイフ―を握りしめ、立ち尽くす。
―ここは、何処?
何故、ここに居るのか…いや、それどころか自分がここに来る直前、何をしていたのかすら解らない。
頭の中の記憶の一部が白い靄に覆われている、そんな感じだ。
しかも、考えようとすればする程、靄が広くなっていくような気がする。
そんな中、の心は一つの結論に達した。
私は…ここでも、ひとりだ―。
慣れているのか、寂しさは感じない。
ただ、別の気持ちが溢れ、渦巻くだけ―。
刹那、背後に人が近付いて来る気配を感じた。
それは、何処かで感じたようなもので…は首を僅かに動かすと
「………近寄らないで」
腕を伸ばし、鋭い切っ先を持つナイフを声のする方へ構え、視線だけを相手に向けた。
今迄、こうやって生きてきた。
嘘に塗り固められた人間関係なんか要らない…中途半端な繋がりは面倒なだけだ、と思っていた。
だから、誰とも関わらない…誰も自分に近付かせない。
しかし―
「ねぇ…君。 そんな物騒なもの、しまってくれないかな」
目の前に突き出された刃に怯む事なく、に歩み寄りながらさらりと返して来る男。
振り返り、男の姿を見てみると…彼の出で立ちと、片手に鞘ごと携えている刀が視界に飛び込んできた。
物騒なもの、ね…。
よく言うわ、とは彼の手にある物を手にしているナイフで指し示す。
「…それ、の方がよっぽど物騒だと思うけど?」
「そう? あは、僕はともかく…君のような人が刃物を持っているから物騒なんだ」
「…はぁ」
…何が 『ともかく』 なんだか。
いまいち腑に落ちず、男の言葉に生返事をするが…その瞬間、初めに感じた違和感の正体が、彼によって今明らかになったような気がした。
この場所は、これまで居た世界とは違う。
更に言えば、人目を憚らずに刀を装備できるという事は…今迄教科書や物語などで見聞きしてきた通りの、戦場だ。
しかし、不思議と恐怖は感じない。
それは…彼女の性格所以か、自身に生への執着が欠落しているからなのか。
どちらにしても、彼女にとってはこの場所が何処だろうが…死と隣り合わせの場所だろうが、どうでもいい事だった。
―何故か、気になる。
は、ゆらりと立ったまま薄笑いを浮かべる男をじっと見つめた。
敵か味方かも解らない女を目の前に、どうしてそんなにへらへら出来るのか。
見た感じ、そう強くもなさそうだけど…。
小首を傾げながら思案していると―
ひゅんっ―
「油断してると、殺られちゃうよ? 君」
刹那、喉を鳴らしながら放たれた言葉と共に…目の前に銀色の閃光が走った。
そして、その閃光にも身動ぎ一つしないを一瞥して、男がからかうような感嘆の息を吐く。
「―へぇ、驚かないんだ」
「…今の、綺麗な光にしか見えなかった」
…とても綺麗な、一筋の光。
は先程抱いた彼への印象を一瞬にして変える。
何時刀を鞘から引き抜いたのか、それすらもには見えなかった。
彼の事を見つめていたのに、だ。
自分で不思議だと思いながら、ますます目の前の男に対して興味が湧く。
しかし―
「やっぱり…。
君を斬ったとしても、つまらない」
「…は?」
かぶりを振る彼の口から突然吐いて出て来た言葉には唖然とせざるを得なかった。
勝手に刀を抜いたと思えば、つまらないと零す。
この人は、一体…?
「…何が、言いたいの?」
刹那、思いのままに吐かれたの一言に男がふふ、と鼻を鳴らしながら一度抜いた刀を鞘に収めると
「やっぱり僕と対等に斬り合えるのは、武蔵しかいない。 ねぇ、君…武蔵知らない?」
顔を僅かに近付け、首を傾げながら問うた。
…武蔵?
彼の言葉の一部を反芻しながら、は目を瞬かせた。
次々に迫り来る疑問が、彼女の頭を支配していく。
何がつまらないと言うのか。
『武蔵』 とは果たして何者なのか。
そして…自分の中で急激に膨れ上がっていく気持ちが、何なのか。
これ程までに興味を引かれた人はいない。
は自身の心の中にある何かが、大きく揺さぶられるような気がした。
初めての感覚に戸惑いながらも、男の視線をしっかりと捉える。
しかし、彼女の反応を見て全てを察したのか
「知らないんだ。 …なら、君にはもう用はない」
男は踵を返すとさっさと歩き出した。
何なの? この人…
人を煽るだけ煽っといて…
そう思った刹那、自分でも信じられない事に…心の底から何かがこみ上げてくる。
初対面の…しかも明らかにこの世界の人間ではない女に対して、ここまで失礼な態度を取れる男はそう居ないだろう。
そんな自分勝手な彼と、それになんとなくだが惹かれている自分自身に怒りを覚えたのだ。
「…待って」
大きく揺さぶられる心に後押しされながら、は次第に遠ざかっていく後姿を、追った。
「…このまま、一人では行かせない―」
頭の中を渦巻く、幾つもの謎―。
それを投げかけた男、佐々木小次郎。
が武器を取り、共に戦うと宣言した時
「君、可哀想な死人かと思っていたけど…ちゃんと生きていたんだね、心が」
と言いながらそれを受けた。
それは…彼女の意志を尊重したというよりは、寧ろ 『勝手にしろ』 といった様子だった。
何故なら…彼にとってのは、未だ小さな存在だったからだ。
彼の心はたった一つの思いに収束していた。
―彼の人と、斬り合う事―。
一方、は小次郎への興味や 『武蔵』 なる者に対して抱く気持ちが何たるかを薄々と感じていた。
だから、武器を手に戦う事を決意した。
それは…彼の者と対等に扱われたいという気持ちの表れなのか。
或いは―。
こうして、二人の少々可笑しな関係は続いた。
しかし―
は、ただそれを遠くから眺めているだけだった―。
人気のない海辺―巌流島―で彼等は改めて対峙した。
己の刀を抜き、それを収めていた鞘を捨てる―。
それがどういう事か、今やにも解っていた。
己が覚悟するは ―死―。
ぴんと張り詰めた空気にはごくりと固唾を呑む。
一拍の後―
がきぃんっ!!!
それ は始まった―。
太刀筋も見えない、閃光だけの打ち合いは…見ているにとっては永久とも言える時間だった。
男と男の真剣勝負が、こんなにも激しいものだなんて…。
自分の心臓が、このまま破裂してしまうような勢いで高鳴る。
そして―
どさっ―
「武蔵! とうとう君に、最高の死をあげられたね!」
やがて、この戦いにも終焉は訪れた。
しかし、それは………あまりにも哀しい 『終わり』 だった―。
地に斃れ伏す男を見下ろし、勝ち誇るように声を上げて笑う小次郎。
しかし、既に動かなくなった屍が返事をするわけもなく…次第に笑い声が小さくなっていく。
それでも小次郎は地に伏した武蔵の傍に跪き、語りかけた。
何度も、何度も………。
ねぇ、武蔵………武蔵?
武蔵……嘘だよ、ね…?
真剣勝負の 『終わり』。
それは、小次郎から笑顔が消えた瞬間だった―。
果たして、これでよかったのだろうか…。
叢にしゃがみ込み、ぼうっと空を眺めている小次郎の姿を見つめながらは思った。
…この代償は、大き過ぎる。
確かに、彼の目的は最高の形で果たす事が出来た。
しかし、代わりに心の中の温度が失われてしまったような気がしてならない。
その、凍て付いた心は…
あの頃の、私に似ている―。
は彼と初めて出会った頃の事を思い出す。
誰も寄せ付けない…心が凍り付いていた筈の私にとって、あの出会いは衝撃的だった。
乱世の中にも関わらず、彼の心は熱く輝いていた。
それは、他の武士の志とは違うものだったけれど…間違いなく、私の心に火をつけた。
初めは、怒りの炎だったかも知れない。
だけど…それは何時しか違う色を放ち、の心を解かしていったのだ。
そして、今―
は己の腰にある刀の柄に、手をかけた。
ひゅんっ―
「油断すると、殺られるわよ? 小次郎」
刹那、空虚な視界に銀色の閃光を走らせた。
そして、その閃光にも臆する事なくその場に立ち上がる小次郎を一瞥して、が感嘆の声を上げる。
「へぇ、流石ね。 こんな時でも驚かないんだ」
「…には、僕は斬れない」
僕を斬れるのは武蔵だけだよ、と一瞬合わせた視線を再び空に戻しながら零す小次郎。
その、まるで自分の事を見ていないかのような態度にはあの頃の炎が再び燻り始めるのを感じた。
彼の人は…死して尚小次郎の心を支配している。
この男の視界に、私は何時入り込む事が出来るのか―。
「彼はもう、この世に居ない」
刹那、刀の柄を掴む手に別の手が添えられ…殆ど強制的に小次郎の首筋へと運ばれる。
「…なら、。 …君が僕を殺してよ」
「あの人の代わりに、今の貴方を斬っても…つまらないわ」
添えられた手を振り払い、刀を鞘に収めながらは小さく呟いた。
何処までも腹が立つ。
私は、これから先も…この人に翻弄され続けるのか…。
しかし―
「あの時と、真逆ね…小次郎」
貴方は、一度私の心に火をつけてくれた。
今度は…私が、貴方の凍て付いた心に火をつけてあげる―。
同時に、心の底からこみ上げてくる別の感情。
あの頃には到底思いもつかなかったものがを支配していく。
それは、ずっと忘れていた気持ちが漸く心に帰って来たような感覚で―
「あははっ― 可笑しいわね、私達」
似た者同士―。
複雑に絡み合う様々な感情に任せながら…は声を上げて、笑った。
「…やっと、笑ったね」
一時の後、微動だにしなかった小次郎が漸く口を開いた。
はっと息を呑み、が地へと落としていた視線を上げると―
「…本当だ。 …あの時と、真逆だ…」
は心底驚き、目を白黒させた。
笑顔を忘れていた筈の小次郎の頬には微かな赤みが差し、笑みが零れている。
「小次郎、貴方―」
「…、ありがとう」
彼はこう言うと、僅かに開いていたとの距離を詰める。
そして―
ひゅんっ―
がきぃんっ!!!
「油断大敵、でしょ? 小次郎」
「あははっ! 、君もやっと僕と対等に斬り合えそうだね?」
「ふふっ…それだけは勘弁願いたいわ」
二人の心は未だ、解け始めたばかり。
しかし―
それが再び燃え盛るまでには、然程時間は必要ないだろう。
そう…
きっと、何時の日か―。
劇終。
ども、飛鳥作夢小説、第5弾にございます〜v
しかし、どうして戦国だと緊張するのでしょうか…
今回も手に汗握りまくって制作いたしましたwww
今回は…日記で予告した通り、前回と全く同じ設定で…
お相手さんを変えてみました。
いやぁ…お相手さんを変えるだけで何とも違う作品に!
あまりの変わり様に筆者自身が驚いております。
前のお話と共に楽しんでいただければ幸いに存じます。
それでは…筆者は次の世界へ!!!(’08.05.26)
ブラウザを閉じて下さいませwww