草木を濡らしていた朝露がひとつ、日差しを受けて輝きながらぽたりと落ちる。
夜明けの空は何処までも青く、まるで透き通った空気を映す鏡のようだ。
そんな中――
早起きの娘が勇ましく弓を構え、鋭い視線を一つの的へと向けていた――
壁を越えて
たぁーーーんっ――
引いた弓から放たれた矢は綺麗な弧を描き、小気味良い音を響かせながら的に当たった。
刹那、傍に控えていた女達からわっと歓声が上がる。
「お見事でございます、おひい様!」
「相変わらず素晴らしい腕前!」
「流石はおひい様、今頃的が痛い痛いと泣いておりましょう」
しかし弓を引いた当の本人は、誉められているにも関わらず少々不満げである。
「この程度の距離ならば当然じゃ」
大袈裟な世辞など要らぬ、と唇を小さく窄めながら瞳を逸らせてしまった。
生来、彼女は誉められるのを苦手としていた。
更に本当の事を言ってしまえば、侍女達に『おひい様』と崇められるのも好きではない。
――照れくさくて敵わぬ。
むすっとしたままで一つ溜息を吐く。
この女達が侍女としての礼儀作法を心得ているのは解る。
だが、彼女は常に思っていた。
一国のお姫様でもないのに『おひい様』はなかろう、と――。
「おひい様、これから如何されますか?」
「うむ、そうじゃな――今日は天気もいい、少々街に出てみるか」
一頻り弓を堪能したは、侍女の問い掛けに背伸びをしながら答えた。
早起きは三文の得、というわけでもないが…今は時間にも心にも余裕がある。
最後にもう一矢、と矢筒から新たな一本を取り出す。
すると――
「殿、私も共に行って宜しいか」
不意にあらぬ方向から声が掛かった。
殆ど反射的に声のする方へ視線を移すと――
「失礼だが、貴女の弓の腕を見させてもらった」
ぺこりと一礼しながら言葉を続ける青年一人。
その精悍な面持ちは一軍を率いる将ならではであるが、今は戦のないつかの間の静寂の時。
軽装に身を包んだ姿からは戦場のきな臭さも緊迫感も感じられない。
彼の名は真田幸村という。
の弓の評判を聞きつけた彼の主君――武田信玄の供として現在この神社に滞在している。
主君の狙い、それはの腕。
彼女の弓の技術が我が軍に加われば戦力も増大し、戦も優位に進められるだろう。
しかし、もたもたしていたら他の軍に彼女を取られかねない。
そう思った主君は、逸早くここに訪れていた。
そして――
「こっそり覗き見とは人が悪いな、幸村殿」
「いや――殿の腕が女子とは思えぬ程見事だったゆえ、声を掛けそびれていただけだ」
「はは、そなたも口が達者じゃな」
二人は既に面識があり、歳も近い事もあってか交わす言葉にも遠慮がない。
その事がにちょっとした安らぎをもたらしていた。
身分や立場を考えずに語り合える――この何と楽しい事か。
それは目の前で笑みを向ける幸村も同じように感じているのかも知れない。
「この街は初めてなのでな、殿に案内を頼みたい」
「そうじゃな。 ならば…支度が整うまで暫し待っていてたも」
再び幸村に微笑みを返した刹那、何を思ったのかは素早い動きで的へと向き直った。
手にしていた矢が勿体無いと云わんがばかりに弓を力一杯引く。
そして――
たぁーーーんっ――
が何気なく放った矢は、本日一番の正確さで的の真っ芯を捉えた――。
二人が街に下りると、大通りは活気に満ち溢れていた。
路の両側には民芸品や採れたての作物が軒を並べ、店主が客と笑いながら商談をしている。
未だ朝早いにも関わらず賑わいを見せる街――今日は、月に何回か開かれる朝市の日であった。
「おはよう、店主」
「おっじゃないか! 今日はやけに早いねぇ………そうだ、これでも持って行きな!」
ほれお連れさんも、と不意に投げられる果物を殆ど反射的に受け取る幸村。
次の瞬間、腰から銭を取り出そうとする彼を見て店主が満面の笑みでそれを制する。
「いんや、お代は要らねぇよ。 んとこの神社には何時も世話になってるからな」
「…かたじけない」
「はっは! まぁ、ちょっとばかり熟れすぎてるが皮ごとかぶりついてみな! 美味いぞ!」
気風のいい店主からの差し入れに舌鼓を打ちながら大通りを揃って歩く。
久し振りに感じる人々の活気に、幸村は暫し戦を忘れる事が出来た。
しかもふと隣を見ると、地味ながら可愛らしい色の小袖に身を包む年頃の女が居る。
それだけで彼の心にある感情が芽生えるのは、同じく年頃の男子ならば当然の事だろう。
だが――
「あっ、お姉ちゃんだ!」
「わぁい! みんなー! お姉ちゃんが来たよーっ!」
突如数人の小さな子供が二人の間に割って入って来ると、隣に居る幸村をそっちのけでを広場へ引っ張っていった。
このあまりにも早い展開に幸村は呆気に取られつつ殿は子供たちの人気者なのだな、と溜息を一つ零す。
しかし一方では神社の中での凛とした立ち居振る舞いとは違った面を見られて得をしたとも思う。
巫女という職を離れれば――街中での彼女は極々普通の娘だ。
刹那、広場で子供たちと遊ぶその屈託のない笑顔に幸村の心臓がとくりと鳴った。
殿は、好きな男にもあのような笑顔を向けるのだろうか――
………はっ! いかんいかん、何を考えているのだ私は!
頭の中で自分に優しい微笑みを向けるを想像して、慌ててかぶりを振る。
少々親しくなったとは言え、未だ出会って間もない娘を想像の産物にしてしまった事に幸村は恥ずかしさを抱え込んだ。
「すまぬ、幸村殿」
「いや、殿が詫びる事はない。 子供たちの楽しそうな姿を見られて私も楽しかった」
「そうか――」
満足げに帰って行く子供たちの後姿を見送りながら言葉を交わす二人。
その笑顔には同じような充実感が溢れている。
しかし、この安穏とした雰囲気は長くは続かなかった。
再び街中を散策しようと並んで歩きかけた刹那――
「お、おひい様! たったたた大変にございますぅー!」
神社の方からけたたましい足音と共に、叫びに近い大声を上げる侍女が今にも転びそうな勢いで駆け寄って来た。
何事じゃ、とが問えば――息を切らしつつ途切れ途切れに事の次第を話し出す侍女。
その話によると――
先程、神社に新たな客人が訪れたという。
それだけならば大事には至らないのだが、問題はその客人。
名を聞いてみれば、現在滞在中の武田信玄と敵対関係にある上杉謙信であるとの事。
しかし、門前払いをしようにも相手が悪い。
無下に断る事も出来ず、あたふたしているうちに神社に入られてしまったらしい。
この話を聞き、流石の幸村も動揺を隠せない。
「お二人を会わせてはならぬ! 直ぐに戻ってお館様をお守りせねば――」
背中に携えていた十字槍に手をかけ、今にも駆け出しそうな勢いである。
好敵手である二人が同じ場に出くわしたらどうなるか………彼にとっては想像するのも怖ろしい事なのだろう。
しかし、そんな様子を露にする幸村を余所には至って冷静だった。
得物にかけた幸村の手に触れると、顔に微笑みすら浮かべてやんわりと制する。
「待て、幸村殿」
「これが待たずに居られるか! 一触即発なのだぞ殿!」
「いやいや………まぁ慌てるな、戻れば解る事じゃ」
はふわり笑うと幸村の手を取ったまま歩き出す。
その落ち着き払った雰囲気に益々困惑しながらも、幸村は彼女に従わざるを得なかった。
神社では今、二人の武将が対峙している――
この時の幸村には、神社が戦場と化している場面しか思い浮かばなかった――
に手を引かれたまま神社へと戻ってきた幸村。
はやる気持ちを胸に、二人が対峙しているだろう場に向かうと――
「――まさか、我より先に来ていたとはな…宿敵」
「はっは、おことも同じ事を考えておったのじゃな」
目の前で繰り広げられている光景に己の目を疑った。
それもその筈――
戦場で幾度となく睨み合いを続けている二人が神社の縁側に並んで腰を掛け、笑いながら茶を啜っているのだから。
そして、その向こうでは神主が何食わぬ様子で祝詞を唱えている。
茶を啜る二人の姿は、言うのも憚られるがまるで長年連れ添った夫婦そのものであった。
しかし、頭に思い描いていた場面とあまりにもかけ離れている長閑な空気に幸村は依然動揺していた。
心のままに言葉が次々と出てくる。
――これはどういう事ですかお館様っ!?
敵対しているお二人が肩を並べて呑気にお茶などっ!
何時からそのように仲良くなったのですか!?
…そうか、これは私への嫌がらせですね、そうなのですねっ!?――
動揺のあまり、幸村の言葉は次第に自虐的なものへと変わっていく。
実に実直な彼らしい思考回路だ。
だが、目の前に居る二人にそんな気など全くなく、寧ろ好敵手だという事には変わりなかった。
頭に血が上った若武者の気を落ち着かせるべく、二人が揃って口を開く。
「まぁ落ち着け、幸村。 わしらは無駄に戦いたくないと思っただけじゃよ」
「………戦とは、礼節を以って行うもの。 そういう事だ」
「………っ、しかしお館様――」
「おこともここを戦場にしたくないじゃろう? 今は停戦といこうじゃないかね」
好敵手を目の前に、あっさりと停戦宣言をする信玄。
立ち上がっていた身体を再び縁側に落ち着けると、再び宿敵と共に茶碗を手にする。
戦以外では無闇に戦わない――
礼節と民を重んじる二人の勇将に、幸村は刹那心から感服した。
「此度の乱心、申し訳ありませんでした」
と素直に詫びながら、気持ちを次第に鎮めていく。
しかし、落ち着くにつれて彼の心に新たな疑問が首を擡げる。
隣に居るの事だ。
彼女は謙信訪問の報を聞いても至って冷静だった。
勇将二人が敵対している事は誰もが知っている事実であり、彼女が知らないと言うのは到底考えられない。
だとしたら――
切れかけた息を整えるべく胸に当てていた手を下ろすと、幸村は改めてに向き直る。
「殿。 貴女は最初からこうなる事を予測していたのか?」
「勿論――だから言ったであろう、慌てるなと」
未だ困惑している幸村を余所に、くすくす小さな笑いを零しながら平然と語る。
彼女の瞳に幸村の姿が滑稽に映ったのだろう――その様子は至極楽しげであった。
だが、幸村の中に棲む謎は未だ解け切っていない。
彼女は自分が思っているよりも知力に長けているのか、それとも神がかり的なものなのか――。
「何故、そこまで予測できたのだ貴女は?」
心に引っかかっている疑問を思いのままに吐き出す。
すると――
「この二人は似たもの同士じゃからな。 のう…信玄公、謙信公?」
「うむ、そうじゃな」
「…強ち間違いではないのかも知れぬ」
三人がそれぞれ顔を見合わせながら笑顔で言葉を交わし始めた。
その様子はまるで昔からの知り合いのようで、幸村の頭の中は益々混乱していく。
しかしそれも長くは続かなかった。
の顔を訝しげに覗き込むと、当の本人がにんまりと悪戯っ子のように口の端を吊り上げながら答えを告げたのだ。
「二人とは既に見知った仲なのじゃ、妾は」
「………は?」
「未だ解らぬか、幸村殿。 二人には地方巡礼の際、世話になったのじゃ………別々にじゃが、な」
――あぁ、成程。
ここで幸村は漸く合点がいったように大きく頷いた。
は二人と顔見知り――それなら、事の顛末を予想できても不思議ではない。
しかし………。
「はは、殿も人が悪い」
始めからそう言ってくれればいいものを………。
慌てていたのは己だけ――これでは自分の一人芝居ではないか。
事の全てを知る事は出来たが、一方では何とも言えぬ虚しさが渦巻き始める。
幸村はその場でがっくりと肩を落とし、大きく溜息を吐いた。
隣で落胆の念に囚われる幸村。
一人で慌てふためく姿は滑稽だと今迄笑って見ていたが――流石にこれでは可哀想だ、とは思った。
こういった行動も、己の主君を想えばこそ。
彼の実直さに改めて感心しながら、その落ちた肩に手を添えようとするが――
「武士とあらば――主君が危機にあれば駆けつけるのは至極当然の事。
流石は宿敵、このような者が傍に居れば心強いだろう」
と同じような事を思ったのか、謙信が新たに差し出された熱い茶に息を吹きかけながらぼそりと云った。
そして、それに頷く事で大きく同意する信玄。
思わぬところからの助け舟にはほっと胸を撫で下ろした。
これで落胆していた彼の心も浮上するだろう。
「ありがたきお言葉! 謙信公、お館様――ありがとうございますっっっ!」
勇将二人の言葉に直後あっさり立ち直る幸村。
そのあまりの変わり身の早さに、は苦笑を洩らしながらも感心したようにぽつり呟いた。
――男とは単純なものじゃな。
しかし、このような――あらゆる壁を越えた関係が築けるのも――
幾度もの修羅場を潜り抜けてきた男たち、だからなのかも知れぬな――
劇終。
ども、またしてもお久し振りでございます(汗
飛鳥作夢小説11作目となる今作は――
当企画で未だ新人扱いな戦国ニューヒロインが主人公!
そして…言うまでもなく毎度緊張する戦国舞台でのお話ですはい orz
今回は構想からかなり苦戦を強いられ、お題が変わること3回(ぇ!?
最終的にはお題特別編第2弾、悪友Wからのお題をチョイスさせていただきました。
絵板とは全然違う内容となりましたが………如何でしたか?
そしてお相手にもかなーり迷った結果、王道?のゆっきーを出すに至りました(汗
しかしですね、ここで終わらないのが飛鳥の変わり者たる所以v
今回はいつも丁寧な口調のゆっきーにタメ口っぽく喋らせました。
ちょーっとニセモノちっくな香りを漂わせておりますが――
楽しんでいただければ幸いかと思いますwww
最後に、ここまで読んでくださった皆様と何時ものように助けてくださった情報屋に感謝しつつ………
飛鳥は次のネタへ―― (’09.04.08)
ブラウザを閉じて下さいませwww