願いを込めて
ここ数日、いい日和が続いていた。
天頂には煌々とした太陽が力を存分に発揮し、それに触発するように木々の緑が輝きを増す。
初夏の陽気が織り成す、庭園の美しさ。
その中、は今一番大事に思っている人と野点を堪能していた。
瞳を閉じ、風に靡く葉の囁きに耳を傾けていると…この世が戦乱渦巻く時だという事をつい忘れてしまいそうだ。
この城の外―別世界―では数多の血が流れ、そして、人がその命を落としていると言う。
それを知らずして生きていく事が、果たして本当に幸せだと言えるのでしょうか…?
「…さん? 気分でも悪いんですかい?」
茶碗を持ったまま何時の間にか一人思案に耽ってしまったらしい。
男から心配そうに声をかけられ、ははっと我に返った。
「…ごめんなさい、少々考え事をしていました」
手にしていた茶碗を置き、再び柄杓から汲んだ湯を入れて茶碗に適度な温度を与える。
茶の湯とは…人が人をもてなし、その心と心を繋ぐもの―。
は幼少の頃から茶の湯を教えられ、今では毎日のように茶を嗜んでいた。
初めは茶の湯の心など、理解不能な物語のように感じていたのだが…歳を重ね、様々な人の心に触れるうちに漸く理解し、身に付けるに至った。
茶の湯には、その場に居る者全ての心を鎮め、穏やかにしていくような…不思議な力があるのかも知れない。
―この方のように。
そう思いながら、茶筅を小気味よく動かし、茶を点てていく。
そう言えば―
貴方と初めて会った時も…今日のように、新緑眩しい季節でしたね―。
今はかの軍の属国と成り果てたこの地。
幸いに、この偏狭の地には攻め入る物好きも居ないらしく…かの人に護られていれば先ず問題はなかった。
戦渦に巻き込まれる前から、何ら変わらない生活。
しかし、新たな主と辛うじて落ち延びた父との謁見の日から、の日常…そして心に変化が訪れたのだ。
そう、貴方に出会ってから―。
「男子と席を同じくしてはならん」
その言葉通り、は完全に除け者だった。
この地を治める新たな主…その方の姿を一目見たいという好奇心溢れたの願いは、城主によりあっさりと却下される。
不貞腐れたはその後、がっかりとした気持ちと心の中に燻る父への僅かな怒りを沈めるべく…侍女に野点の用意をさせた。
そして、緑輝く庭園へと足を運んだのだった。
自ら点てた茶の香りを堪能しながら、心をゆるりと鎮めていく。
極々自然に瞳を閉じ、僅かに揺れる木々のざわめきを耳に心地よく感じていると―
がさり―
そよ風がもたらす音とは違う、草木を激しく掻き分ける音が不意に飛び込んできた。
はっと息を呑み、視線を音のした方へ注いで瞳を凝らす。
まさか、この地にも戦乱の魔手が―!?
立ち上がり、両手を胸の前に移しながら身構えると、それに直ぐさま反応して姫の身を庇うように取り囲む侍女達。
しかし、草木の間から出てきたのは―
「…いやぁ、驚かせてすみませんね、ご婦人方。 …なぁに、取って食いやしませんよ」
直ぐにはね、と己の頭を掻きながらさらりと言い放つ男。
茂みから出てきたと思えば飄々とした態度で女達にあっさりとした詫びの言葉を吐く。
気心が知れていれば赦されるような態度だが、流石に初対面では相手も更に不審がるというもので
「貴方は何者? …その出で立ちから見ると、相当の使い手だと見受けられますが」
構えを解かず、中心に居たが毅然とした態度で返す。
場合によっては、懐に忍ばせている小太刀が唸りを上げる事になるだろう。
…目の前の男には到底適う筈もないが。
すると、そんなの警戒心を余所に男は…はっは、と軽く笑い声を上げながらゆっくりとした足取りで近付いてくる。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。 俺は島左近。 今日は殿の命で共に参上した、ってとこです」
「ならば…何故貴方はここに居るのですか? 謁見は未だ終わっていない筈―」
「いやぁ、俺はあぁいった堅っ苦しいところは苦手でしてね、厠へ行くと言って逃げて来ちまいました」
依然身構えたままの女達をまぁまぁ、と制しながら左近と名乗る男が草の上に敷かれた布の上にどっかと腰を掛ける。
そして、が先程まで持っていた茶碗を拾うように手にすると
「野点、ですか…。 これはいい、俺も僭越ながら参加させてもらいますよ」
片手でぐい、と一気に中身を飲み干した。
直後、茶の香りと味を確かめるかのように瞳を閉じながら言葉を続ける。
「…ほぉ、これは美味い。 茶自体の味もそうですが…何より、貴女は相当の使い手だ」
「あっ…貴方って方は………」
男の一連の動きと、先程の自分の発言をそのまま返すような言葉に…刹那、誉められている事にも気付かずに自分の拳を握りしめ、わなわなと小刻みに身体を震わす。
殿の大事な謁見の場から逃げて来たという男。
更に、自分達に断りもなく野点の場に足を踏み入れ、事もあろうかの飲みかけの茶を一献の酒を飲むが如く一息で平らげた。
この縦横無尽な態度で、の心の中に先程とは違う怒りが込み上げてくる。
しかし…次の瞬間、彼女の口から吐き出された叫びは、その場に居た誰もが予想も出来ないものだった。
「…何という無作法! 島様、貴方は茶の湯の心を全く理解していないようですねっ!」
片手で茶碗を持ち、描かれている絵をぐるりと見ていた左近は…刹那、の思い掛けない言葉に目を丸くしながら顔を上げる。
「茶の湯の心なら…武士たるもの、皆が身に付けているもんですよ、お姫さん」
「ならば…何故! このような無作法を―」
の心は収まらない。
確かに、自分の父もそうであるように茶の湯は全ての武士が嗜んでいるもので、それは流石の彼女にも理解できる事だ。
しかし、目の前で胡坐をかくこの男の行為は彼女にとって目に余るものだった。
図々しいとも言うべき左近の態度に、更なる説教を垂れようと口を開きかけるが―
野点は、各々が楽しめれば決まった作法などない…それはお姫さん、貴女も知っているところでしょう?
まぁ、そこが野点の一番難しいところなんですがね。
その相手からきっぱりと遮られ、ぐうの音も出なくなる。
―定法なきが故に定法あり―
これは、初めて野点に興じた時に教えられた言葉。
作法や道具が決まっていないからこそ、逆に何より重い作法があると茶の湯の世界では言われている。
それを知っているという事は…
「ごめんなさい。 私、貴方に少々無礼な事を言ってしまいました」
正座をし、三つ指を突いて詫びの言葉を零す。
すると、目の前で最初見せたものと同じ仕草をする左近が
「いや…俺も、茶のいい香りに誘われちまったんで、つい…。 すみませんね」
の詫びに笑顔で返すとその場に立ち上がり、釜の前に座り直した。
お詫びの印に一服返したいんですが…いいですかね、と言いながら。
次の瞬間、今迄の雰囲気とはがらりと変わり、その場に静粛な空気が流れる。
釜の前で正座をするその姿は、しゃんと背筋が伸ばされていた。
そして、次々と見せられる、流れるような作法―。
女達は言葉を交わす事も忘れて、ただただその動きと左近が醸し出す雰囲気に魅入られていた。
「―凄い。 貴方の方がずっと 『使い手』 です、島様」
左近の点てた茶を押し戴き、一口飲むと…は顔を上げ、更なる感嘆の声を上げた。
凄い。
程よい温度、程よい味に点てられた茶の味も然り…彼が見せた一連の作法やがらりと変えた雰囲気も然り。
これは、ただの一端の武士には出し得ないものだった。
そう、自分の父でさえも―。
これ程の作法…私にも教えていただきたい位です、と零すに左近は軽く喉を鳴らす事で答える。
「野点の作法はない。 しかし…自在な心がなければその場をもてなす事は出来ませんからね」
「簡単に言いますのね、島様」
「はは、それはとても難しいが…あまり難しく考える事はないって事ですよ、お姫さん」
それは全てのものに言える事ですがね、と笑顔を絶やさずに言い放つ左近。
刹那―
「左近、何処に居るのだ!? …全く、手のかかる奴だ」
謁見が終了したらしく、彼を呼ぶ主らしき声が庭園に響いた。
その声を聞くや否や…左近が己の頭を掻き、やれやれとかぶりを振りながらゆるりと立ち上がる。
「さて、殿も無事に役目を終えたらしい。 …そろそろお暇しますよ」
「あっ…島様―」
直後、踵を返しかけた左近の背中にが声をかける。
それは、自分でも驚く程反射的だった。
何故か、これで終わりにしたくはなかった。
もっともっと、この方とお話をしていたい…この方と同じ時を過ごしたい―。
先程の茶のように温かく、何処か淡いものがの心を支配し始めていた。
「―今度は何時、こちらへ?」
「殿に聞かなきゃ解りませんが…まぁ、また近いうちに会う事になりますよ」
俺もまた貴女と一服したいですしね、とさらりと言い放つ左近。
そして声のした方へ踵を返すと―
「あ、そうだ…俺の事は 『左近』 で構いませんよ、さん」
頭の上で手をひらりと振り、の心に深く刻み込むような一言を残した―。
程よく点てられた茶を押し戴き、口に運ぶと…左近は瞳を閉じ、その味と香りを確かめる。
「…相変わらずいい手前だ」
「くすっ…まだ左近様には到底及びませんけれど」
相手から吐かれる手放しの賞賛に微笑みで返す。
だが、穏やかなやり取りの裏には…逃げられない現実も迫っている。
先程、会うなり彼の口から突然聞かされた衝撃的な事実。
「いよいよ、俺達も戦に出なきゃならなくなりました」
軽い調子で吐かれた左近の一言は、充分に重みを持っていた。
いや、軽いからこそ…その重みも増す。
野点の極意みたいですね、とは瞳を僅かに伏せ、ふるふるとかぶりを振りながら小さく零した。
茶の湯は、人と人との心を繋ぐもので…それは武士階層にも広まっている。
なのに…茶の湯の心を知っているにも関わらず、何故人は争わなくてはならないのか―。
「争わなくてはいけないからこそ、武士は茶の湯を嗜むのかも知れません」
不意に、の耳に飛び込んで来る左近の一言。
の思いの逆を言っただけの一言に、彼女ははっと息を呑んだ。
そして、野点で落ち着いた心が、ゆっくりと答えを導き出す―。
茶の湯とは…人が人をもてなし、その心と心を繋ぐもの―。
しかし、人は傲慢な生き物で…己の信念を口実に、戦を起こす。
だからこそ、茶の湯の心が必要なのだ。
―何時か穏やかな日々が訪れるよう、茶の湯に願いを込めて―
「ならば、私も茶の湯に願いを込めます」
はこう言うと…己の髪を束ねていた髪紐を解き、左近の後ろ髪に結わえながら言葉を続ける。
「これが…その証です。 左近様が無事に帰って来て、再び共に野点が出来るように」
貴方を、待っています―。
「左近様、ご武運をお祈りしています」
「さんに、そう言われちゃ…意地でも帰って来ないといけませんね」
軽い調子で交わされる言葉にも、二人の願いが存分に籠められていた。
別れの瞬間まで、二人の間には重い空気が存在しなかった。
「この髪紐…俺には少々派手過ぎるような気がするんですがね」
「あら…私にはよく似合っているようにしか見えませんわ、左近様」
「なら、よしとしましょう。 …しかし、俺の 『証』 をまださんに示していませんでしたね」
危うく忘れるところでしたよ、と後ろを振り返った男が再びと向かい合う。
そして―
「………っ!!!」
「俺の 『証』 …確かに刻みましたよ。 …貴女の唇に、ね」
全身に熱を感じた直後、名残惜しそうに離れる。
が唇に手を当て、熱の余韻に浸りながら口付けの相手を見やると―
「あ、そうだ…続きは、帰ってからで構いませんね、」
踵を返し、背中を向けた男の手がひらり、と振られた―。
貴方は今、戦場に居る。
そして…私は今日もしゃんと背筋を伸ばし、茶釜と向かい合っている。
この唇に刻まれた証と、茶の湯の心に―
―願いを、込めて―
劇終。
飛鳥作夢小説、第3弾でございます。
またちょくちょくと韻を踏んでいるんですが…
その辺は皆様のご想像にお任せするとして(汗
此度は初めて戦国夢に挑戦いたしました。
OROCHI設定では書いた事があるんですが…
カナーリ緊張いたしました!(何 処 が だ
まだまだ精進の余地はありますが…
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。(’08.04.26)
ブラウザを閉じて下さいませwww