今、下町の大きな道で輿が担がれている。
その道々の脇には幾人もの町民が、歓迎を示す声を上げていた。
今日、無敵の男に天女が輿入れするのだ。










 彼の人の名は…










三河国の町民達は浮かれていた。
無敵の男と謳われる同町出身の本多忠勝に、
これまた天女と謳われる姫君が輿入れするのだ
女が天女と謳われる由縁は、様々語り継がれている。
見たものを虜にして蕩けさせるほどの美貌の持ち主だとか、
その御手に触れただけで、その者は生涯幸せになれる、だとか、
空に浮かぶ星まで操り、天命さえもその手中に収めている、だとか。
遠い島から来たというその天女に、三河国の町民達、
そして徳川将軍らも少々浮き足立っている。










は、大きな歓声を輿の布越しに聞きながら
その心中は穏やか、とはいえなかった。
それもそのはず、は己の夫となる男の顔も知らないのだ。



その時、歓声のように沸きあがる町民達の声に交じり
一人の女の辛そうな声が輿の中まで入ってきた。
「お願いします、役人様…!どうか一目だけでも」
輿を覆う布を手で支え、こっそりと覗くと
そこには、小さな赤子を抱えながら懇願する痩せた女が見えた。
輿を護衛する役人らは、こちらから顔は見えないまでも嫌な表情をしているだろうことはすぐに分かった。
「ならん!忠勝様と様は今日が初の顔合わせだ。
 そんな汚らしい赤子を抱いて御着物が汚れたら何とする」
きつい罵倒には眉根を顰めた。





「この子は身体が弱いのです…!どうか様のご加護を…」
半ば泣き声でそう発された声。
「えぇい、煩い奴だ…!早くそこを退かんと如何するか分からんぞ」
周りの町民も、女の身を護ろうと女に向かって手を差し出した。
「お願いいたします…、様のご加護をどうかこの子に」
赤子を抱いたまま泣き伏せた女に、なんとも非情なことに役人は腕を振り上げた。










「やめぬか・・・!」



言い争っていた町民と役人は揃って無口になった。





まるで楽器のように麗しい、少し低めの声が木霊した。
輿の布は覆われたままだが、確かにその声は輿の中から発された。
再び呟くようにその声が聞こえ、輿を担ぐ男達は戸惑ったが輿を下ろした。



布が開かれ、中から女が顔を出す。
皆が一斉に女の顔を見つめた。
今までどの町民が想像していた天女像よりも
美しい姫君がそこにいた。
白い肌に映える桃色の唇が小さく動く。
「ややこをこちらに」
その言葉に赤子を抱えていた女は輿の前まで駆け出した。
輿の中に座ったままのに、女は赤子を差し出した。
「すまぬ、下駄がない故、輿の中からで許してほしい」
痩せた女はふるふると頭を必死に振った。
差し出された赤子をの真っ白な腕が抱え込んだ。
「可愛いややこだ…よし、よし」
町民達が思い出したように歓喜の声を上げる。
赤子を差し出した女は涙ながらにその光景を瞼に焼き付けていた。
様、遅れます…そろそろいいでしょう」
馬に乗った役人が冷たい声色でそう呟いた。
優しく赤子の頭に口付けして、母であろう女の腕の中に返す。
「ややこは強い。そなたこそ強くあれ」
女が返事をする間も無く、輿の布は役人によって下ろされ
すぐにその輿は担がれた。






(充分に時間を割いてもくれぬか)
は、ゆっくり深呼吸をした。
小さく疼く怒りを、心の深いところで渦巻く悲しみを治めるように。
歓声は城に着くまでやむことはなかったが、
の心はやはり晴やかとは言えなかった。










「何故、城なのだ?」
は役人に代わって横についた女中に問う。
本多忠勝は徳川家康に非常に気に入られている、とは聞いているが
どうしてその家康の城に呼ばれるのかが分からなかった。
女中は私の顔をじっと見つめ、言葉を発す。

「本多様は普段この城に近い処にお住まいですが
 今日は徳川様の御意向で城で婚席を取り持つとのことです」

そうか、とだけ呟きはただ歩を進めた。
小さい島の出の女が、ただ家の存続を望んで婚礼を拒否した言葉は
将軍の威光が後ろで、あろうことかすぐ横から光るこの状況で
聞いてもらえるわけもなかったか。
強制的な連行ともいえる城入りに、不本意ながら納得した。





「今、本多様は訓練を行っています。
 一刻ほどで戻られると思いますのでこちらでお待ちください」

そう言われ開けられた襖の先には、
花や掛け軸で飾られた広い部屋が広がっていた。
「…一人にしてくれぬか」
呟くように言うと、女中はまた、肌にその眼力がひっつきそうなほど
まじまじとの顔を見た。
しかし、すぐにその視線は所在無さそうに下に向けられた。
「それは…お受けできません」
「そなたは私のお目付けか」
そう問うても、答えは返ってこなかった。
占術や蓮術ができるという私の噂、もしくは天女だという噂を真に受けて
士気を高めるために私を招いたのだろうが、信頼はやはりされていない。
しかも襖も閉めてもらえない程の不信だ。
窮屈なその状況に、は今日で何度目か分からない深呼吸をした。















「本多忠勝に候」
短く明朗に発された、自己紹介というにはあまりに情報がない言葉を聞き
は呆気にとられた。

そして、その本多忠勝なる男の全身から発される圧迫感に気圧される。
唸るような低い声も荒い表情も、大きな体躯もは初めてみた。
(このような人間がいたとは・・・む?このような姿形、何かの書物で読んだような・・・)
どの書物だったか、と思い出そうにも目の前の存在に圧倒されて上手く思考が回らない。
子島生まれのにとって、忠勝の存在はそれだけで驚きの材料となった。
「御名は」
は肩をびくりと唸らせた。
「御名は何と云われる」
腹の底から響くような声に、の肌はびりびりと震える。
「我が名は…」
先ほどの短い自己紹介に呆気にとられたであるが、
己もそうなってしまった。
だが忠勝のほうは気にする風でもなく、言葉を続ける。

「本日の婚礼は殿の意向に沿ったもの。
 この忠勝、この武全てを以って御身を守り抜くことをここに誓いまする」

はぁ、と力の抜けた言葉しか返せない。
言っている内容よりも、にとって忠勝が向ける力強すぎる眼差しや声に意識が行って仕方なかった。
頭で何も考えることが出来ない。



その時、廊下のほうから声が聞こえた。

「忠勝様、蜻蛉切はどこに仕舞えばよろしいでしょうか」
すまぬ、と短くに断りをいれ、忠勝は大きく返事する。
「隣部屋に置いてくれ」
その、周りを揺らすような大声にの心臓は震えた。
そして開け広げられた襖から、回廊を横切った兵士が持っている
蜻蛉切と呼ばれた巨大な得物を目の当たりにしては卒倒しかけた。
「あれは何なのだ」
つい、普段通りの言葉遣いになってしまった。
「あれを、あんな大きく重そうな得物を、忠勝殿は振り回すのか」
そう驚きながら問うが、忠勝は首を横に振った。

「大きさも丁度よく、重さも然程気になるものでありませぬ。
 使い慣れている分容易なことです」

そうは言うが、先ほどその得物を運んでいた兵士らしき男にとって、
その大きさはその身長と同じくらいであったし
がしりと持ったその両手は、重いといわんばかりに血管が浮き出ていた。
(私はこのような人物に輿入れしたのか)
そんなことを考える。
その時、はっと気づいた。
前に読んだ書物に出てきたものを思い出したのだ。





「鬼だ・・・!忠勝殿は鬼のようだ」
ついそのまま呟いてしまい、はしまった、と焦って忠勝を見遣った。
だが忠勝は、怒りもせず、虚をつかれるでもなく、至って真面目な顔で言葉を発す。

「鬼、と称されたのは初めてに候。だが我が戦友に鬼と呼ばれる者があり申す。
 殿を守る三河の心意気は、ややもすれば鬼と称されるのかもしれませぬ」
冷や汗を流すを置いて、忠勝は、うむ、と己の言葉で納得した様子である。
を見たまま固まっている茶淹れの女中を何も無かったように部屋へ入れた。

(鬼が二人もいるのか・・・いや、待て今の言葉からすると・・・
 この城にはもっと鬼がいるのかもしれぬ・・・)

茶の香ばしい香りが一気に満ちる部屋の中、の頭の中は鬼でいっぱいだった。







ただ、肝心のの目の前にいる鬼はの懸念を知ってか知らずか、
の力を利用しようとする素振りを見せず、
の良くも悪くも人の視線を集めて離さない容貌も気にすることなく
ただ穏やかに茶をすすっていた。







 投稿者様 : ユラ様     サイト : Gracia





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