仮面の下の笑顔〜5〜
第5章 〜 会ってしまった人と逢いたい人 〜
謁見を終え、城内を案内されながら医務室に辿り着いた父娘は扉を開けた瞬間、その場から暫く動けなかった。
ぽかん、と口を開けたまま目の前に広がる世界を見つめる。
――信じられない。
住居と兼ねていた今迄の環境に比べると天と地の差だ。
広さも然り、揃えられた医療器具の質や量も然り…何もかも至れり尽くせりの空間を、彼らは与えられたのだ。
我に返った二人の心に更なる高揚感が押し寄せる。
「これならば…今までよりもっと多くの命を救う事が出来る」と――。
「うわぁ…」
感嘆の声を上げるの背中から案内役の兵士が声をかける。
「…お気に召しましたか?」
はこの言葉に直ぐ兵士の方に向き直りぶんぶんと首を縦に振る。
「えっ…えぇ! 勿論! これ以上の物を求めたら罰が当たるわ!」
「しかし、殿は『これでは未だ不十分だろう…他に何か必要ならば言ってくれ』と仰せでした」
「「…へっ???」」
兵士から発せられた殿からの伝言に父娘の疑問が同調する。
――これの何処が『不十分』なんだ?と。
そんな二人の様子に兵士は一瞬だけ表情を綻ばせると
「では…私はこれで失礼いたします。 暫く『仕事』はありません故、どうぞお寛ぎください」
至極丁寧に拱手すると、姿勢を正したまま踵を返し、去って行った。
兵士が去った後…父娘は早速身支度を整え、施設内の点検を始めた。
棚や扉から寝台までの動線、器具の使い勝手、薬品の種類や分類方法…。
全て『その時』になってからでは遅い。
医師の仕事は時間との勝負なのだから。
二人、会話をしながら物品の配置などを再検討していく。
その場には先程までの和らいだ雰囲気が影を潜め、代わりに程よい緊張感が張り巡らされていた。
一時の後――
ようやく作業を終え、改めて施設内を見回す父娘。
刹那、が頻りに扉を見てそわそわし始める。
「あの、さ…父上。 ちょっと…出てきていいかな」
「…別に構わんが」
何処に行くのだ?という父の問いかけに曖昧な笑顔で答えると、は羽織っていた作業着を脱いだ。
そして、軽く身支度を整ると弾むような足取りで扉へと歩を進める。
「来たばかりだというのに…何処に行くのだ?」
その背中に再び父の質問が飛んだが、既に扉から勢いよく出て行ってしまったには届かず、言葉は広い空間に浮かんで…虚しく消えた。
「う〜ん。 確か…こっちよね」
は一人、呟きながら廊下を歩いていた。
生来、彼女は記憶力のいい方である。
先程案内された時に部屋の位置関係は大体把握した筈だ。
持ち前の記憶力を頼りに、目的の部屋を真っ直ぐに目指して歩を進める。
その足取りは傍から見ても軽く、顔には満面の笑顔が溢れていた。
こんなに浮かれた様子じゃ、あの方が呆れてしまうかしら?と一抹の不安があったが…はやる気持ちを抑えようと思ってもなかなか上手く行かない。
――早く、報告したい。
貴方から貰った勇気のおかげで、これ以上ない程の環境を与えられた。
そして…私のしてきた事や貴方の言っていた事が間違いではなかった、と。
全てが上手く行きそうな予感、少々浮ついた心を抱えながら廊下を早足で歩く。
ふと外を見やると、真っ青な空に浮かぶ白い雲がふよふよと気持ちよさげに泳いでいる。
穏やかだわ…。
そう言えば、集落に居た頃は…忙しさを理由に、ちょっとした季節の変化すら知る事がなかった。
それだけ心に余裕が現れているのだろう。
天を仰ぎながら…こういうのも悪くないわね、とは思った。
確か、ここを曲がればホウ統様のお部屋よね…。
が記憶の糸を手繰り寄せながら廊下の角を曲がると、先の柱に背中を預けている男の影を視界に捉えた。
両の手を胸の前に組み、何処か思慮深げに庭園を眺めている。
傍から見ると実に絵になる光景である。
今は戦もなく…つかの間の平穏な時で、男の着ている服も至極普段着であった。
しかし、は歩を進め、影の正体が露になると同時にその体から発する武将特有の雰囲気を感じていた。
――このお方は…。
集落に居た頃に若い女達から噂は聞いていた。
軍に若く勇猛な武将が居る、と。
刃の切っ先のような視線と銀糸の髪を持った『錦馬超』と呼ばれる男。
女達が目を輝かせ、溜息混じりに力説する姿を見ていて…どれ程の魅力があるのか、と思っていたが…。
成程、この出で立ちを見る限り、確かに女を魅了するだけのものはありそうだ。
しかし、今のには然程重要な事でない。
軽くかぶりを振ると、そそくさと馬超の横を通り過ぎる。
擦れ違いざまに軽く会釈する事は忘れずに。
すると――
「おい。 …そこの女」
馬超の横を通過した刹那、本人から発せられた言葉にの足がぴたりと止まる。
そして、訝しげな表情を浮かべながら振り返った。
「あの…。 何か」
「女。 見ない顔だが…何時からここに居る?」
何時、って…。
これが…初対面の人を相手にする態度?
は目の前で体勢を全く変えない男に対して少々腹を立てたが、気持ちをぐっと堪えた。
改めて馬超と向かい合い、心を映さないように笑顔で軽く拱手する。
「貴方が馬超様、ですね。
申し遅れました…初めてお目にかかります。
私、本日付でこの軍の軍医として仕官いたしました。
、と申します…。
以後、お見知りおきを」
言いながらは我ながらいい口上だった、と満足した。
流石は子供の頃から行儀作法を身に付けさせられただけの事はある。
しかし…言われた相手は体勢を依然変えずにの口上を聞き流すと、眉間に皺を寄せながらの身体をじろじろと見ていた。
まるで目の前の姿を品定めするように。
その様子を見ていたは、自分の中にある『堪忍袋』の緒がきしきし、と軋むのを感じていた。
ますます腹が立ってくる。
そして、馬超の口から次々に発せられる言葉に、の堪忍袋の緒が更に悲鳴を上げていった。
「ほほぉ…お前が軍医、か。 てっきり無骨な親父だと思っていたが…」
――きし。
「てんで頼りなさそうな女じゃないか」
――きしきし。
「これで…戦場を渡り歩いていけるのか?」
――ぴしっ。
「このような奴に軍を任すのは…如何なものか」
――びきっ!
「殿も物好きだな…このような奴を軍に上げるなど」
………ぶちっ!
とうとうの堪忍袋の緒が限界を迎え、ぶつりと切れた。
刹那――
ひゅっ、という音と共にが治療用に使う小刀が馬超の顔を掠め、柱に突き刺さった。
その刃を横目で見た馬超が少々目を丸くしながらの顔を見ると、彼女の表情に彼の顔色が一瞬にして変わった。
の落ち着いた表情の中に潜む、言いようのない圧力を感じて身を軽く震わせる。
すると、相手の反応を知ってか知らぬか…威圧感を纏ったが、新たな小刀を片手に静かに口を開く。
「…その頭、少々治療した方が良さそうね…」
「おっ…お前…」
本気か!?と馬超が思う程にの言葉には真実味があった。
次の瞬間、は唇の端をにぃ、と吊り上げると…手にした小刀を次々に投げつける。
手を離れた小刀はことごとく馬超の身を寸でのところですり抜け、柱に人型を作り上げていった。
――こいつは…。
小刀から発する風圧をの威圧のように感じ、動けなくなる馬超。
驚きのあまりに詰まる喉から搾り出すように言葉を吐き出す。
「おい…。 お前、どれだけの刃を持ってるんだ…」
確かに――
柱に人型を作る程の量の小刀を、何処に隠し持っているのか。
誰もが不審がる位にの手捌きは鮮やかだった。
早く、そして鋭い。
馬超は前言を今直ぐにでも撤回したくなった。
しかし、間髪入れずにが先程よりも意地悪そうな笑顔で言葉を発する。
「…これ?
何時如何なる時でも人を助けられるように…治療道具を持ち歩くくらい当然の事よ。
それにね、馬超『様』?
医師たる者、必要最低限の武勇は皆身に付けてるの。
何時戦地に赴くか解らないんだから。
まぁ…戦のことしか考えてない馬鹿な人には理解できないかも知れないけどね」
これでも頼りないって言えるかしら?と馬超に顔をずい、と寄せて詰め寄る。
刹那、馬超はに…この『戦』に負けた、と思った。
目の前の医師は確かに戦っている。
自分とは違った形で、乱世に立ち向かっている。
彼女の中にある『正義』を感じ取り、ここは引き下がる事を決めた。
しかし、納得したとは言え…彼にしてはいまいち面白くないのだろう…
「一先ずここは『解った』、と言っておこう。 しかし、まだ完全に認めたわけではないからな」
吐き捨てるように零し、踵を返すと瞬く間に小走りで去って行った。
この瞬間から…彼の中で、の存在は確実に『天敵』となった。
思わぬ事で時間を食ったわ…。
は柱に刺さった小刀を一本一本丁寧に引き抜きながら一人で愚痴を零した。
いくら腹を立てていたとは言っても…軍を担う武将を相手に刃を向ける事は、流石にいけない事、だよね…。
場合によっては罪に問われるだろう。
しかも、小刀をこんなに粗末に扱ったら…父上にも怒られるわね、と大きく溜息を吐く。
刹那、俯いたの目の前に小刀が一本、誰かによって差し出された。
ん?とがほぼ反射的に顔を上げると、その視線近くにホウ統の姿を捉えた。
一番会って話がしたい、と思っていた人。
しかし、この瞬間には会いたくなかった。
何時から見ていたのだろうか?
その手に握られた小刀は拾った物なのだろうか?
の頭の中に疑問がたくさん浮かび、言葉が上手く紡げない。
「ほっ…ホウ統様…」
やはり、やっと出た声は尻つぼみになって空に消え入る。
すると、ホウ統はの様子に本当にお前さんは面白い娘だねぇ、と言いながらくすっと笑みを零した。
そして、手の中にある極々小さな刀を弄びながら更に言い放つ。
「やれやれ…。
年頃の娘がこんな乱暴な事を、簡単にするもんじゃないよ」
まさか…。 全部、見られてた…?
はますます動揺する。
何故ここまで動揺するのか、自分にも解らなかったが…この方にだけは見られたくなかった、と思った。
私がこんな女だったって…がっかりしただろうか?
それとも…嫌われただろうか?
訳も解らずに不安な気持ちが渦巻く。
しかし、そんなを見て穏やかさを崩さずにホウ統が発した一言は…が思いもかけない言葉だった。
「。 髪、随分切っちまったんだねぇ」
「へっ???」
ホウ統は、の態度から心の中にある動揺を見た。
この事は…これ以上触れては、彼女を傷つけてしまう。
そう感じ、彼女の動揺を抑えるために…関係ない事を口にしたのだ。
案の定、あまりにも唐突な言葉にの思考が一瞬のうちに落ち着いた。
目を頻りに瞬かせてホウ統の顔を見つめるが、一瞬の後…満足げに頷く彼にが決意を含んだ笑顔を向けると、しっかりとした口調で、言葉を自分で噛み締めるように紡いでいく。
「あの時…荒くれ者に髪を一房切られた時、大事な物を全て失ったような気がしました。
でも、あんな事があったから…貴方に会えた。
そして、貴方から勇気をもらえた。
今は…そう思えるんです。
髪を切ったのは、私の決心の表れ、と思ってください。
これからは…ちゃんと前を見据えて、一歩一歩…確実に歩いて行きます」
『切られた髪を切り揃える』という目的もあったんですけどね、と少々おどけた調子で笑う。
その笑顔の中から、ホウ統は漠然とだが輝くものを感じた。
彼女の心は、間違いなく強くなった。
それは、ホウ統が一役買ったからかも知れないし、ただ単に自身の強さが戻っただけなのかも知れない。
しかし、理由がどうあれ…ホウ統にとっては物凄く喜ばしい事であった。
ふふ、と覆面の中で笑みを零したホウ統は、明るさを取り戻したの頭をぽんぽん、と軽く叩き
「その髪型。 、お前さんによく似合うよ」
と言うと、すっかり安心した様子で踵を返して自室へと歩を進め始めた。
照れくさいのか、後ろ手で手をひらひらと振りながら。
「よく似合う」。
今迄…父にも、かつてが愛した人にも言われなかった事を今、ホウ統がさらりと言った。
恥ずかしいのか、はたまた別の感情なのか…の顔がみるみるうちに紅潮していく。
こんな気持ちになるのは…久し振りかも知れない…。
自分の中に芽生える淡く、懐かしい感情。
戸惑いを隠すように胸に手を当て、軽く息を吐く。
刹那。
自分がホウ統の元を訪れた一番大事な用事を思い出す。
「あっ! 忘れてた! …ホウ統様! 待ってくださーいっ!」
叫び、ホウ統を追い駆けながら…は未だ顔いっぱいに熱を湛えている事に気付き、その心に…恥ずかしさでなく、嬉しさを抱え込んだのであった。
2007.3.21 更新