仮面の下の笑顔〜6〜
第6章 〜 広がる、視界 〜
「ね、。 …いいでしょ? 少しくらい」
「ん…そうね。 じゃ、後から行くわ」
「うん! あんたのために美味しい点心、用意しとく!」
待ってるよ!と後ろ手をひらひらと振りながら楽しそうに去っていく後姿を眺めながら、も同じような笑みをその顔に湛えた。
外は数日前から雨模様で、大きな仕事のないは少々暇を持て余している。
それは女官達も同様らしく、先程の元を訪れていた友人の莱流も
「余計な雑務が少なくなるから雨も悪くないのよね」
と顔を綻ばせながら言っていた。
そんな緩やかな午後。
が窓枠に頬杖を付いて呆けていたところ、莱流から誘われたのだ。
「今、手の空いている人を集めて詰め所でお茶会やってるから来ない?」と――。
とその父がこの軍に仕官してから、早くも季節が一巡りした。
茹だるような暑さ、落葉と病葉の物悲しさ、雪舞う灰色の空…そして数多くの『生』が芽吹く季節。
慌しい中にも感じられる時の流れをは心地よく思っていた。
そして、周りの暖かさに支えられて…友人と呼べる人物もたくさん出来た。
自分の中に蟠りを抱えていた頃には考えもしなかった事。
今迄鬱陶しいとしか感じなかった雨でさえも、今のには違うものとして映っていた。
雨…か。 確かに悪くないわね。
独り言を零しながらは椅子から腰を上げた。
仕事がなければ寛げばいいじゃないか――。
そんなに生き急ぐ事もないだろう…とホウ統様も言っていたし。
開いたままで読む事を途中で止めてしまった書簡を丁寧に閉じ、棚に収める。
そして、鼻歌交じりで医務室の扉を開け、廊下へと歩を進めた。
「あ〜! 皆、が来たよ!」
「いらっしゃい、! …ささ、こちらへどうぞ」
「丁度よかった。 今ね、翠鈴が新しい点心を持って来たのよ」
が「お待たせっ!」と女官の詰め所に足を踏み入れた刹那、中に居た女官達が一斉に椅子から立ち上がり、口々に言葉をかけた。
両手を別々に引かれ、あれよあれよという間に椅子へと座らされる。
目の前の卓に乗せられた様々な大きさや形をした点心の数々。
そして、鼻腔を擽るのは淹れられたばかりなのだろう…お茶の清々しい香り。
瞳を閉じると、外が雨だなんて信じられなくなる。
「…凄くいい香りね、このお茶」
誰に言うでもなく零す。
すると、その一言に逸早く反応したのは先程医務室に顔を出し、暇そうにしていたをこの場に誘った莱流だった。
卓に身を乗り出し、手を上げながらに己の顔を近付けて
「はいは〜い! それ私! 昨日、新しいお茶が届いてさ…早速淹れたってワケなのよ」
味や香りが解らない殿方に出しても意味ないからさ、と少々おどけた笑みを湛えた。
確かに…。
出したお茶に一言付け加えるのは軍の中でも知将連中くらいで、他の面々はただ『飲めればいい』といった風に、何も言わずに湯飲みを空にするだけだし。
「…もっと気の利いた事言ってくれればこっちもやる気が出るのにさぁ…」
一旦乗り出した身体を引っ込め、自分の席に腰を落ち着かせて言う莱流。
彼女の一言にその場に居た全員が同じように頷く。
「だよねぇ〜!?」
と誰に同意を求めるでもなく言いながら。
それを見ては目の前の薫り立つ湯飲みを手に取り、楽しげにくすりと軽く笑った。
莱流をきっかけに、女官達と仲良くなってからというもの…
時々、このような所謂 『ぶっちゃけ話』 に付き合わされるのだが…
やっぱり彼女達にも溜まる物があるのね、とは思っていた。
自分をはじめとした軍医達や武将達とは違った形ではあるけれど、彼女達も日々戦っている。
それは、怪我や病の治療以外で他人様の世話をした事がないにとっては尊敬に値する事だった。
しかし…先日、水場での立ち話でそれを彼女達に語ったところ――
「の方が凄いと思うわ。
だってそうでしょう? 貴女は…人の命を救う事が出来るんだから!
私達に出来ない事が出来る。
…貴女が私達に対して感じてる事と、同じような事を私達も思っているのよ」
一言であっさり返されてしまった。
視点が変われば…自分達が 『当たり前』 と思って行っている事も違うように映るんだよね…。
…やはり彼女達は凄い。
は彼女達の視野の広さに改めて感服した。
私もまだまだ未熟者ね、と。
手にした湯飲みの熱が、伝わってくる。
それはまるで…彼女達の心を表しているようで、中身を一口飲んだの心にお茶の温かさと共にじんわりと染み渡った。
「…美味しい。 香りと味が、上手い具合に調和して…物凄く和む!」
ほわんとした感じだわ、と莱流に屈託のない笑みを向ける。
すると――
「そうよ、それそれ! そういう台詞が欲しいのよ、淹れた方としては!」
莱流がの方を指差し、力一杯に訴えた。
同時に大きく頷く女官の面々。
それは、互いに示し合わせたわけでもないのにぴったり合っていて、は堪えていた笑いを一気に吹き出してしまった。
…その直後、女官一同から
「笑い事じゃなぁ〜い!」
と一斉に攻められたのだが…その場は直ぐに和やかな雰囲気に戻り、の笑いはその中にすんなりと溶け込んでいった。
「でもさぁ…なんであんなに無骨な人ばかりなのかしらねぇ」
一頻り笑った後、先程またしても新しい点心を持ってきた翠鈴が卓に頬杖を突きながらぽつりと零した。
少々ふくよかな体型にやんわりとした口調が凄く合っていて、にとっては心を癒してくれる存在。
その温厚な彼女が言う位なのだから相当なものだ。
翠鈴の言葉に皆が反応し、話が盛り上がり始める。
隣で湯飲みを手に包み、静かに耳を傾けているのはの世話焼きとも言うべき藍珠。
口数はあまり多くないが、その一言一言に重みがある。
「…男ってそんなもんじゃん? お喋りな男の方が煩わしいし」
「確かにそうなんだけどさ…無骨にも程があるわよ! あれは本当に堅物よ、カ・タ・ブ・ツ!」
藍珠の言葉に納得しながらも直ぐさま反論するのはお洒落に何時も気を遣っている、現在趙雲に目下ご執心中である琥瑠。
女官という職にも関わらず、彼女はさりげない華やかさを持っていた。
琥瑠の鬱憤がここぞと言わんばかりに爆発する。
「趙雲様ったら、毎日私の顔見てるくせに…私が髪を切っても全然気が付かないのよ! 酷くない!?」
卓に乗り出し、拳を打ちつけながら力説した。
その力があまりに強かったのか、卓に乗せられていた点心が僅かに散らばる。
…そりゃ確かに彼が悪いわ…。
散らかった卓の上に散らばった点心を気にせず摘み、口に放り込みながらは思った。
幾ら戦の事で頭が一杯になっていたとしても、ねぇ…。
でも――
「趙雲に関しては無骨なだけが原因じゃないような…」
「え!? 、それってどういう事?」
直後、が思わず放ってしまった言葉に琥瑠が反応した。
がはっと息を呑み、己の口を手で押さえるが…時既に遅し。
琥瑠は乗り出した身体を更にへと傾け、詰め寄る。
仕方ない…。
は溜息を一つ吐き、言葉の意味を琥瑠に教えた。
出来るだけ、やんわりと…。
「趙雲の目には、阿斗様しか映っていないみたいよ? 琥瑠」
先日、の元を趙雲が訪れた。
医務室の扉が勢い良く開けられ、倒れ込むように入ってくる趙雲。
背に劉備の御子を負ぶさった彼の焦った様子は見るからにただ事ではなく…。
はじめ、は御子の身に大事があったのだと思った。
急病か、怪我か…。
ならば、直ぐに診なければ………!
「何事!? 早く御子をここに…!」
中央に置かれた寝台に御子を導く。
ところが――
「僕は大丈夫だよ、。 子龍が心配しすぎなんだ」
趙雲の背から元気良く滑り降りた張本人の一言には肩をがっくりと落とした。
念のために御子の身体を診るが…。
彼の頬に一つ、吹き出物がぽつんとあるだけだった。
「趙雲。 貴方が阿斗様を連れて来たのは、まさか…これ?」
御子の顔にある小さな吹き出物を指差しながら、趙雲へ訝しげな表情をいっぱいに向けてが訊くと――
「あぁ…そうだ。
何か、病に罹られていては大事だ…と思ったのだが」
はその悪びれた様子もなく言い放つ趙雲にもう一度肩を落とした。
聞こえよがしに大きな溜息を一つ吐く。
「…本当に貴方は心配性ね、阿斗様に対して『だけ』」
「どういう意味だ? 」
たくさんの皮肉をこめて言ったつもりが、相手には伝わっていないようだ。
きょとんとした顔でを見つめる趙雲に「やれやれ…」と両手を軽く挙げる。
…まさにお手上げ、ね。
意識のない行動が一番厄介だ。
彼は、無意識に己が視界に御子を捉えている。
それも…常に、だ。
「そこまで大切なんかい!?」と返したくなる言葉をぐっと喉の奥に閉じ込め、は精一杯に微笑みを返す。
………精一杯でも苦笑にしかならなかったが。
「大きな意味はないわ。 ただ、そこまで心配してくれる人がいるのは幸せ者よ、って阿斗様に言いたかったの」
膝を屈め、自身の視線を御子に合わせて頭を撫でた。
すると、話の中心にいた阿斗がに屈託のない笑顔を返す。
「うん! 僕、子龍がいてくれて幸せだよ。 子龍が大好きだから」
刹那。
「私も、阿斗様が大好きですよ」
と趙雲が駆け寄り、御子の身体を抱きしめた。
しかも、頭を撫でていたを押し退けて。
…これが年頃の男女の会話なら絵になる光景なのに…。
この年頃の男女を彷彿とさせる会話と絵面…何か怪しいのよね…。
すっかり『蚊帳の外』へと追い遣られた形となったは――
そう思いながら苦笑を更に強め、ただその微笑ましいと言うべき姿を見ているだけだった――。
「…成程、趙雲様はあくまで『阿斗様命』なのね」
藍珠が放った結論じみた一言にが指を立て、大きく頷く。
「そういう事」
「んじゃぁ…琥瑠が幾ら頑張っても目に入んないわけだ」
「え〜!? じゃ、私の努力は無駄だったの!?」
「そうなるわねぇ…琥瑠。 …お疲れ様ね」
「ひっど〜い! 莱流どころか、翠鈴までっ!」
悪戯っ子のような笑顔を湛えながらからかう他の面々に琥瑠が一人で騒ぐ。
しかし、その琥瑠の顔にも笑顔が溢れていた。
ここが、女同士の会話の凄いところである。
女としては深刻な愚痴だが…彼女達にしたらそれも『笑い話』と化してしまうのだから。
女同士の『笑い話』は続く。
話題の中心は何時しか別の人物へと移る。
「そうそう…お喋り、と言えば」
「あっ…馬超様でしょう? 私、今朝も遠乗りに誘われちゃったんだけど…どうしよう?」
話を振ろうと口を開いた藍珠に早速翠鈴が喰い付く。
恥ずかしそうに俯きながらも、本人は満更でもなさそうだ。
そんな彼女の様子に、藍珠が呆れたように溜息を吐くと
「…その誘い、受けようと思ってたら…やめた方がいいわよ。 あの方、節操なしだから」
自身の手を顔の前でひらひらと振った。
その仕草から、その一言は心から出ているものだと覗える。
そして、その仕草は他の面々にも伝染していった。
莱流も琥瑠も眉を僅かに顰めてかぶりを振る。
「…私も毎朝誘われるわよ。 …あの方と遠乗りに行ったら、何処に連れて行かれるんだか」
「私も馬超様に誘われたわ。 誰彼構わず誘うんだから…送り狼どころか、行った先で押し倒されそうよね」
「送り狼ならぬ、送り馬?」
「で、やっぱり馬並なんだ」
苦笑を浮かべながら次々に吐かれる失礼極まりない発言。
しかし、彼女達にとったらそれすら『笑い話』、普通の会話なのである。
「…やっぱりそうだったんだぁ…。 よかった…即刻返事しなくて」
翠鈴が胸を撫で下ろして安堵した。
やっぱり…皆に話を振ってよかった、と。
ところが、一人だけいまいち納得のいかない表情をしている人物がいた。
先程まで話の中心にいた筈の、。
訝しげな顔をして女官達の会話を聞いていたが、とうとう堪り兼ねて皆に問う。
「…ねぇ、そんなに節操がないの? 馬超って」
その一言に他の面々が一斉にを見る。
「…。 貴女…まさか馬超様に誘われた事、ないの?」
「あの…年寄りの女官長にすら欲情する馬超様に?!」
皆の視線を一気に浴びるが「うん…」と小さく頷く。
彼女達は意外な事実に、驚愕に溢れた表情を向けるしかなかった。
に魅力がないとは考え難い。
…彼女の優しさの中にある活発さに憧れに近い感情を抱く兵士も居るというのに。
どうして馬超はを誘わないのか………?
女官一同の疑問に、は
「ひとつだけ…心当たりがあるんだけど…」
歯切れの悪い口調でぼそぼそと語り始めた。
この軍に仕官し始めたばかりの頃の、あの出来事を――。
「…というわけなのよ。 多分、あれからよ…馬超に敵対視され始めたの」
刹那、語り終えたの身に降りかかる爆笑の嵐。
「…やるじゃん、! その武勇、私にも分けてほしいわっ!」
と、の肩をばんばん叩きながら賞賛する莱流にがぶすくれた表情を向ける。
「だって…女だからって甘く見られたくないじゃない?」
「…あっは、貴女らしいわ。 そこが貴女のいい所でもあるし、悪い所でもあるんだけど」
の反論に笑いながら言い返す藍珠。
その一言には「う〜ん」と考え込んでしまう。
…だからなのかな。
最近、ホウ統様との間に微妙な距離を感じるのは…。
私の性格に問題があるの………?
考え込みながら…の喉から思わず独り言が出てくる。
その独り言から漏れた名を、耳の肥えた女達が聞き逃す筈がなかった。
その場が一瞬にして凍りつく。
先程よりも更に驚愕の表情を強め、に詰め寄る。
「今、『ホウ統様』って言わなかった…? 」
「うん…私も聞いた。 、まさかあんた…」
女官達の嫌な予感は――
の一言で現実に引き寄せられた。
「…うん。 私…ホウ統様が好き、だと思う」
その現実に彼女達が一斉に騒ぎ出す。
「…ダメっ! にあの方は相応しくない!」
「ちょっ…貴女…。 貴女が…よりによってなんであんな人…」
「! 悪い事は言わない!あの方だけは…」
次々に告げられる完全否定の言葉には疑問しか涌かない。
あれだけいい方を…
どうして、皆拒むの………?
確かに、彼の風貌はいいとは言えない。
常に顔を布で覆ったその謎めいた雰囲気は流石のでも損をしている、と思う。
しかし、人はそれだけではない。
は彼の人となりを知っている。
困った人を放っておけない、お人好しな部分や風貌に似合わず心温かいところ。
そんな処に、時を追う毎に惹かれていった。
それの、何処が悪いの………?
には解らなかった。
「どうして…?」
が投げかけた疑問符に莱流が重い口を開いた。
まるで、の心に太い、大きな杭を打ちつけるように………。
「これはあくまで噂、なんだけど…。
実はホウ統様、戦以外で人を殺した事があるんだって…」
2007.9.7 更新