貴方の名を呼びたい。
この身を捨て、貴方の腕に身を委ねたい。
しかし…それは望んではいけない事。
望めば、全てが…貴方との関係が終わってしまいそうで 『怖い』。
だから、私は貴方をこう呼ぶ。
『主上』 と…。
震える指先、震える心 〜前編〜
「…か。 入ってくれ」
「失礼いたします…主上。 …何か御用でしょうか」
素早い動作で部屋に入るなり、扉の傍で跪く。
短く切り揃えられた髪と、軽い素材で作られた装束を身に纏った彼女の姿からは微塵の隙も感じられない。
それどころか…日頃鍛錬をしている武将でなければ、その気配すら感じる事ができないだろう。
そう、彼女は隠密である。
張遼の下で動き、日々彼を影で支えている。
その張遼に対する忠誠心は他の武将達にも定評がある。
どうしたら、ここまで恩義に尽くせるのか、と。
「此度、そなたを呼んだのは『仕事』の話ではない…力を抜け」
「は…」
主人に言われ、はふっと肩の力を抜いたがその瞳に湛える鋭さは消さない。
顔を上げると、しっかりとした視線で張遼を見据える。
「では…どういった御用で」
強い眼差しを緩める事なく問うと、張遼は軽く溜息を吐き、直後ふっと微かな笑みを零した。
「そう固くなるな、。 今宵はそなたと昔話でもしようと思ってな」
「昔話…ですか」
「そうだ。 ここのところ忙しかった故、少々疲れているだろう。 …女官に茶を用意させてある」
そこに座れ、と自身が座っている床の隣を指差す。
しかし、は扉の前で跪いたまま動こうとしない。
「ここで構いません…主上」と言い、首を垂れる。
そして、己の身の上を恨んでか…張遼に気付かれないように唇をきゅ、と噛み締めた。
貴方の隣に座るのは、貴方に相応しいお方だけ…。
…身分不相応、身の程知らずなこの想い。
それに気付いたのは何時の頃だったか…。
は一人思いを巡らし、かぶりを振った。
駄目だ。 ここで気持ちを折ってしまったら…傍に居られなくなる。
すると、の様子を見ていた張遼が床から立ち上がり、の傍に歩を進めた。
近付く気配にはっと息を呑み、が顔を上げた刹那、下に付いていた腕が張遼によってぐっと掴まれる。
その強さに「痛っ」と小さく唸る。
主上…貴方は今、怒っておられるのか?
私の態度に?それとも、貴方の隣へ行かない事に?
しかし、の気持ちを余所に…頭の上から張遼の言葉が更なる溜息と共に降りかかる。
「今宵は『仕事』ではない、と言っているだろう。
私はと話がしたい。
主従の身分など考えずに、だ。
。 …私の言っている意味が、未だ解らんか」
その言葉を耳にしながら体がふわり、と浮き上がった。
憮然とした雰囲気を抱えた張遼に導かれるまま、床へと向かう足。
それが地に付いてるか理解しないうちに主人の隣に座らされる。
彼女と張遼との間には微妙な距離があったが、は己の体躯が緊張で固くなっている事を自覚していた。
指先が、意識とは関係なく…細かく震える。
顔も…自身の思い通りに動かず、強張っていた。
彼の…主上の真意が掴めない。
掴めないからこそ、居た堪れなくなる心。
それとは対照的に張遼は、彼女が隣に座った事に満足げな様子で頷き、に茶が注がれた碗を渡すと
「さて。 …昔話を始めるか、」
自身の杯に酒を注ぎながらに柔らかな微笑みを与えた。
その日、張遼は視察の役を君主である曹操から承り城下の街に足を運んでいた。
何時もは護衛兵を引き連れて視察に赴くのだが、ここ城下は治安がいい。
今回は一人でも充分だろう、と得物のみを携えて城下を歩く。
街道にはたくさんの行商人と、足を止める民達で賑わっていた。
何時見ても気持ちのいい光景。
民達の嬉々溢れる表情を眺めていると、こちらも楽しくなってくる。
しかし、張遼は何時もの城下と何処か雰囲気が違う事に気付いた。
賑わっている…というより騒がしい、と。
辺りを改めて見渡す。
すると、賑わいの中に…ひそひそと小声で話し合う人垣が見えた。
その人垣の中には日頃贔屓ににしている武器屋の店主も、茶屋の女将も居る。
何が起こったのだ…?
この地にはあちこちに守衛も配置されていて、安全は確実に守られている筈だ。
張遼は訝しげな表情を浮かべながら人垣の低い声に聴覚を集中した。
「…これで厄介者が居なくなった、ってわけか」
「そうね、これでうちの店も安心して商売できるわ」
「今迄…あいつには散々やられていたからな」
「そうそう! すばしっこくて、直ぐ逃げられちゃってたものね」
「あそこで…守衛さんがあいつの顔を覚えてなかったら、また逃げられただろうよ」
「そうだねぇ…でも、やっとお縄にかかったんだ。 お祝いといこうじゃないか」
…?
『厄介者』? 『お縄にかかった』?
…そのような事、守衛からは一切報告を受けていないが。
張遼の頭に疑問が渦巻く。
守衛が動く程の大事なら、必ず軍に報告されているだろう。
それとも…。
考えを纏める間もなく、張遼はその人垣に向かって歩を進めていた。
何事かあったのなら…視察に訪れている自分も、知っておかねばならない。
人垣の傍で足を止め、武器屋の店主の肩を掴みながら低く声をかける。
「如何いたした…店主」
刹那、人垣の面々が一斉に張遼を振り返って頭を深々と下げる。
そして、その中心に居た店主が顔を紅潮させて嬉しそうに事の顛末を話し出した。
「いえね、張遼様。 …たった今の事なんですが。
最近この辺を荒らしまくってた盗っ人を、守衛さんがやっとの事で捕まえましてねぇ。
そいつがまた、とんでもなくすばしっこい奴でして…。
今迄散々逃げられていたんですわ」
いやぁ…あれには参りました、と言葉を続ける店主と周りで口々に守衛の武勇伝を語る面々。
要するに…この街の治安を掻い潜って盗みを続けていた大泥棒が、ようやく守衛の手によって捕らえられた、と。
これがたった今の事ならば、軍に報告がなくても合点が行く。
うむ…。
しかし、張遼は目の前で力説をする人垣に構わず、手を己の顎の下に添えながら何か思案していた。
―これは、面白い。
我が軍の精鋭である守衛達でさえも翻弄される程の俊敏さ。
そして、何事にも臆する事がないその度胸。
これが、我が軍に加わったら…。
俄然、その『盗人』に興味が湧く。
張遼は顎に手を添えたまま話の中心に居る店主に再び問いかけた。
「その『盗人』は、今何処に居る?」
「あぁ…あいつなら…」と店主が指先を街外れの方向に指し示す。
「…今頃は街外れの牢に入れられて、裁きを待ってるところですわ」
「そうか。 …では、行ってみる事にしよう」
張遼は独り言のように言葉を吐き出すと、街外れへと踵を返した。
市場の賑やかさは、ここ街外れには微塵もない。
空は見事なまでに青く、清々しく晴れ渡っているのに…明るさがここまで届かない、といった雰囲気だ。
治安が悪いわけではないが…何処か、空気が汚れている。
その一角に設えてある罪人用の牢獄。
それは軍の守衛兵が配属されてから、暫くもぬけの殻だった。
しかし、此度…盗人が捕らえられた。
たった一人のために開かれた牢の扉の前に、張遼と守衛が居た。
「…張遼様、貴方も物好きですね。 罪人に面会するなど」
「これは軍の使者である私の義務でもある。 …後で殿に報告せねばならんからな」
「…承知いたしました。 では…」
牢越しに話をしてください、と言いながら守衛が牢への錠を開ける。
ぎぃぃぃぃぃ…。
重苦しい音を響かせて扉が開いた。
瞬間、なんとも言えない澱んだ空気が外へと流れ出ていく。
牢の中の澱んだ空気を感じ取ったのか、守衛がその場で尻込みする。
「話は手短にお願いします…張遼様」
「あぁ。 解っている」
張遼は守衛の言葉に短く答えると、澱んだ空気に動じる事なく中へと足を踏み入れた。
冷たい。
石垣で作られた牢は、外の暖かさを完全に遮断していた。
その中心で膝を抱えて蹲る姿を視線の中心に捉える。
歳は…確か十七だと聞いていたが、膝の間から僅かに見える顔は何処か疲れていて、実際の歳よりは大人びて映る。
この痩せた体躯の何処に…あのような『力』が?
牢の扉を挟んで立つ張遼。
丸く、小さくなっている目の前の姿に向かって静かに声をかける。
「…顔を上げよ」
しかし、相手は聞いてか聞かぬか…視線を動かしもしない。
それでも構わず、張遼は言葉を続ける。
「…私は張文遠。
此度は君主である曹操の命を受け、この地に視察に参った。
…お前の顔が見たい。
顔を上げよ」
刹那、相手の肩がぴくっと動き、顔が張遼に向けられた。
二人の視線が一つに絡まる。
直後、張遼の心に氷の刃が突き刺さったような感覚が走った。
何なのだ…? この感覚は。
瞳に飛び込んでくる強く、研ぎ澄まされた鋭い視線。
決して逸らせず…刺し貫かれたように動けなくなる。
一時の後。
視線が釘付けになっている事に慌ててかぶりを振り、傍らに控えている守衛の方へ振り返ると、思いもしなかった言葉を放つ。
「この少年を、連れて軍に戻る」
「…いけません、張遼様!」
守衛の必死の制止を振り切り、牢の錠を外す張遼。
そして、背中で「これでは…後で軍の上官にどやされます」と愚痴を零す守衛に顔を向ける。
その表情に意地悪そうな笑顔を乗せて―。
「ならば、『張遼様に攫われた』とでも言っておくといい。
この少年…お前達が梃子摺る程の度胸と身のこなしだと聞いた。
磨けばよい人材になる」
連れ帰るぞ、と最後に言葉を残して張遼は自身の愛馬に『盗人』を念のために括り付け、歩いていく。
刹那、その背中に
「張遼様! その『盗人』は…っ!」
守衛の言葉が降りかかったが、張遼本人が聞き取る事は叶わなかった。
軍に戻った張遼は、愛馬に乗せた人物を皆に紹介する間もなく湯殿へ案内した。
それまで、二人に会話はなかった。
張遼が一方的に話をするだけで、『盗人』はそれに答える事もせず唇を引き締めたままだった。
あの視線は
「誰の助けも要らない」と言っているようでもあった。
勿論、脱衣所に着いてからもその憮然とした表情は変わらず、項垂れたまま顔を上げようともしない。
一人で生きていく事に必死だったのだろう、と張遼は思った。
あの人垣の中で聞こえた、ある夫人の「あの子は、孤児なのよ」との言葉。
同時に…幼い頃に両親を戦火で失った、と聞いた。
それが、心を頑なにしているのだろう。
張遼は小さく溜息を吐くと、『盗人』に軽い微笑みを見せた。
「そのような顔をするな、少年。 …まずはその汚い身体をなんとかせねばな」
お前も服を脱げ、と『盗人』に向けて言いながら張遼が自身の服を剥ぎ取っていく。
しかし、『盗人』はその姿を視線の端に追いやりながら顔を僅かに上気させた。
「どうしたのだ…? 別に恥ずかしがる事はないだろう」
男同士なのだからな、と一糸纏わぬ姿になった張遼が『盗人』の肩をがしっと掴む。
刹那。
目にも留まらぬ素早さで『盗人』の脚が動いた。
どすっという音と共に張遼の股間に命中する『盗人』の膝。
見事に股間を蹴られ、もんどり打って倒れる張遼の頭に高い女の声が響く。
「男と一緒に湯浴みなど出来るかっ! …お前の目は節穴としか思えん!!!」
その声を聞き、張遼の血相が更に変わった。
「まっ…まさか。 そなたは…」
「…女だ。 悪いか」
その場に倒れたまま動けないでいる張遼を余所に、外へと踵を返す『盗人』。
そして、扉から半身を出した瞬間、張遼の方に向き直って吐き捨てるように言葉を放った。
「私は『』だ。 …名だけは言っておく。
流石に『少年』と呼ばれ続けるのは嫌だからな」
の口からあの時の言葉が復唱され、二人は顔を見合わせて笑った。
「…あの時は本当にすまなかったな、」
「いえ…過ぎた事です。 しかし…あれは最悪な出会いでした」
「はは…違いない」
『昔話』と聞いて、はまさか『あの時』の事を語り合おうとは思いもしなかった。
しかし、語り合ううちには、自身の体躯から次第に力が抜けていくのを感じていた。
心臓も、穏やかに波打つ。
あの『出会い』がなければ…私は主上の存在すら知らぬまま、死んでいただろう。
そう思うと、心が妙にざわつく。
人を愛する事を知らぬままこの世を去るか。
それとも、こんな苦しみを味わいながら…愛する人を『主上』と呼び、生きていくか。
どちらがいいかなんて、今となっては解らない。
だが、は一つだけ理解した事がある。
それは、張遼に出会えてよかった、と思える今の気持ち。
目の前の『主上』に心から感謝する。
もう二度と、このように笑い合う時が訪れるとは思ってもいなかったから。
「ありがとうございます、主上。 貴方に拾われ、こうして真っ当な人生を歩めるようになったのは主上のおかげです」
言いながら、自然に笑顔が出たことに少々驚く。
刹那、驚きをひた隠すようにその顔を伏せ、『あの時』から疑問に思っていた事を問う。
「ですが…。
『あの時』、軍の戦力と思い、私を拾われたのですよね?
ならば…何故私を武将にしなかったのですか?
何故…貴方の隠密、とされたのですか?」
その問いに、微妙な笑顔で答える張遼。
久し振りにそなたの笑顔を見たな…、と軽い調子ではぐらかしながら。
そして、空になった杯に酒を注いでくれるの髪を軽く指で梳くと。
「…夜は未だ長い。 昔話にもう少し付き合ってくれ」
視線を部屋の天井へと泳がせるように移した。
後編へ続く。
アトガキ
本格的!管理人お題挑戦作品です。
かなり長くなったため前・後編に分けさせていただきました。
しかし、お題のテーマが本格的に出るのは後編と思われます(汗
今回は久し振り…本当に久し振りとなりました。
山田様がお相手です☆
最近、ゲームで山田様をお慕い申し上げているのにすっかり書いてませんでした… orz
んで、書こうと(安直!
そういえば。
主従関係、って初めて書くじゃん!
と今頃になって少々嬉しくなる不審人物がここに(汗
ツッコミどこ多し。
『隠密』なんてあったんかいな?とか。
少年だと思っていた人物に惚れかける山田様とか(ぇ!?
そして…ヒロインに股間を蹴られてもんどり打つ、と… orz
まぁ…後編もあるので。
今回のアトガキはこの辺で(汗
ここまで読んでいただき、ホントにありがとうございました!
2007.3.24 飛鳥 拝
使用お題『震える指先、震える心』。
(当サイト「愛抱く心に10のお題」より)
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