仮面の下の笑顔〜4〜

     第4章   〜 心を取り戻す時 〜











 あれから数日後…この日は快晴だった。
 空には抜けるような青空。初冬らしく冷たい風が澄んだ空気を運んでくる。
 今日軍医として軍に上がる父娘にとってはこれ以上のない日和だった。
 馬を走らせる事一昼夜…君主となる劉備の城に着き、早速謁見となった二人は…身支度もそこそこに謁見場へと続く長い長い廊下を案内役の兵に従い、歩いていた。
 「父上。 …せめて服くらいは着替えた方がよかったんじゃ…」
 「折角、殿が直接お話をしてくださるのだから…早く参じた方がよかろう」
 娘の言葉を気にも留めず、父が前を向いたまま答える。
 「でも…流石にこの格好は…」
 は小さく零しながら自身の身なりを見下ろした。
 出かける直前まで集落の病人を世話していたため、服は作業着のままで…にしては珍しく、施した化粧もこの長旅ですっかり崩れていた。
 しょうがない、本当は紅も差し直したいんだけど…と少々はにかんだ笑顔を手鏡に映し、化粧を直し始める。
 その姿を横目でちらり、と見た深怜は微妙に眉を顰めてやれやれ、とかぶりを振った。
 「そんなに気にしなくてもいいだろう…。 全く…」
 女とは面倒なものだな、と独り言のように零す。
 化粧を施さなければならない程醜悪な風貌じゃなかろうに…。
 亡き妻もかつてはこのような仕草をよく見せていた。
 それを今、隣で手鏡を片手に悪戦苦闘している娘に重ね合わせる。
 何かを思い出しているのだろうか、目を細めて自分の事を見つめてくる父をは少々むっとしながら見返した。
 そして、再び手鏡に視線を移すと、ぶつぶつと言葉を紡ぎ始める。

 「そういう問題じゃないの。
 大事な時に身支度も整えられないって…女としては恥ずかしい事なのよ。
 殿に『非常識だ』って言われたらどうするのよ…全く。
 もう、男ってこれだから…」

 父に向かって聞こえよがしに文句を垂れながらも手鏡から目を離そうとしない。
 これは後から歩く別の兵士の目から見ても些か危なげだ。
 しかし、心配そうな視線とは裏腹に…父娘二人のやり取りを微笑ましく思っていた。
 今時、ここまで仲のいい親子にはなかなかお目にかかれない、と。







 程なく謁見場に続く大きな扉が以外の一同の視界に入ってきた。
 その扉の前に一人の大男が仁王立ちで待ち構えている。
 この男こそ、『美髭公』として世間に名を馳せる、関羽。
 深父娘を引き連れた一群は彼と少々距離を開け、立ち止まると…まるで示し合わせたかのように一斉に拱手した。
 それに倣い、関羽も同じく拱手で応じる。
 しかし、無言の儀式が行われる最中、は依然手鏡を片手に化粧直しに余念がない。
 周りの人間が立ち止まった事にも気付かず、未だ歩を進め続ける。
 そして…の歩みが、他の一同が思いも寄らない形で止まった。



 ごんっっっ!



 「痛っ!」
 不意にの頭に鈍器で殴られたような激痛が走る。
 それもその筈…俯いていたと…拱手し、丁寧に頭を下げていた関羽の頭が見事にぶつかったのだから。
 突然の衝撃に殆ど反射的に顔を上げる。
 すると、目の前に飛び込む 『美髭公』の艶やかな髭。
 いきなり自分の視界に入ったのがこれでは、流石に驚きも増すというもので、
 「きゃっ!!!」
 は悲鳴に近い声を上げると、更に視線を上へと走らせた。
 刹那、関羽の髭面が間近に迫り…訝しげに顔を歪めてに声をかける。
 「如何なされた? 殿」
 驚愕の念に捕らわれているは目の前の人物があの『美髭公』だと気付かない。
 それどころか、彼女の目には関羽の自己主張の激しい髭しか映っていない。
 じりじり、と少しづつ関羽との距離を離すように後ずさりながら…彼に対してなんとも失礼な言葉をその喉から搾り出した。



 「ひっ………髭が、喋った………」



 暫し、その場が凍りつく。
 「髭が…」とがちがち歯を鳴らしながら後ずさりを続ける
 刹那、その足が彼女の心を表すように縺れ、身体が背中から後ろに傾いていく。
 倒れる、と一同が息を呑んだ瞬間、の身体を二本の逞しい腕ががっしりと支えた。
 そして、その腕の持ち主がを見下ろし、優しげに言葉を寄越す。
 「おう、危なかったな…。 後ろには目がねぇんだからよ、気をつけるこった」
 を抱きかかえたまま「兄者、遅れてすまねぇ」と関羽に声をかけているその男は、張飛。
 巷では『燕人張飛』と謳われている猛将。
 その顔を目の前に、はまたしても勇将を相手に失礼な事を言う。



 「………髭が、増えた………」



 にとってはあまりにも非現実的なものだったのだろう。
 この一時の事に彼女の精神力が限界に達した。
 刹那。
 「おいっ! 大丈夫かよ! しっかりしろっ!」
 という二人目の『髭』の呼びかけに応える事なく、その意識を手放してしまった。


















 「………?」
 が意識を失ってから一時。
 目が覚めたは辺りを見回してはっと息を呑んだ。



 ここは…もしや、謁見場では???



 慌てて身を起こし、居ずまいを正す。
 そして、身体を覆っていた掛け布を丁寧に畳みながらふと隣を見ると…父が正座をし、「申し訳ありません」と上座に居る関羽と張飛に向かって頭を下げている。
 何を謝っているの…?と疑問を言葉に変えようとした刹那、先程の自分の行動を思い出し、「あっ!!」と声を上げた。
 幾ら狼狽していたとは言え…この方達に失礼な事を…!
 は父に倣い…両手を膝の前に付き、額で床を擦らんがばかりに深々と頭を下げた。
 「すみませんっ! 先程は本当に失礼な事を致しました! 申し訳ありません!」
 桃園三兄弟を相手に必死の形相で謝り続ける父娘。
 劉備はそれを笑顔を湛えた表情で見守っていたが
 「謝るのはその位にしないか。 もうよい…顔を上げよ」
 穏やかに声をかけながら傍らに立つ義弟二人に目配せをする。
 お前達からも何か言ってやれ、と。
 それに一つ大きく頷き、父娘のもとへ歩み寄る関羽と張飛。
 そして、ほぼ同時に顔を上げた父娘に、三兄弟の柔らかな笑顔が飛び込んだ。
 「そんな事、最初から気にしてねぇよ。 …これから世話になるんだ。 よろしく頼まぁ!」
 身を屈め、深怜の肩を勢い任せにばんばんと叩きながら豪快な笑い声を響かせる張飛と
 「貴殿達の仕官、心より歓迎いたす。 この軍の事、頼みましたぞ」
 二人の前に膝を付き、軽く頭を下げる関羽。
 次々にかけられる暖かい言葉に、父娘は再び頭を下げた。
 今度は謝るためではなく、この兄弟の気持ちに応えるかのように。
 「勿体無きお言葉…。 ありがとうございます」
 厳かな雰囲気で言葉を放つ父の姿に、の心も徐々に落ち着いていく。
 軍の医療班を担う…責任のある立場に置かれる。



 …私達は、この方達に…頼られている。



 言いようのない気持ちがが心の中に満ちてくるのをは確かに感じていた。
 それは、が医師になってから初めて感じる『手応え』であった。







 「雲長、翼徳。 …そろそろ私にも話をさせてくれないか」
 父娘との会話を更に進めようとした義弟達を制したのは、この軍の君主である劉備。
 仁君、と謳われるだけの事はある。
 上座にどっしりと腰を下ろしているその姿には威厳や貫禄と言う言葉よりも神々しい、という表現の方がよく似合う。
 先程、が起こした騒動の報告を受けた時も今の義弟達とのやり取りを見ている時も、終始穏やかな笑顔を一同に向けていた。
 しかし――
 あぁ、このお方は…今迄幾度もの試練を乗り越えてきたんだ、とは思った。
 仕事柄、人を見る観察力が備わっている。
 彼女は今迄、様々な人生を歩んできた人達と出会った。
 幼少の頃から何不自由なく育ってきた人や自分の欲望のままに生きてきた人。
 そして、目の前に居る君主のように…何度となく訪れる苦難を自身の力で跳ね除けてきただろう人。
 このお方は、見た目よりずっと、ずっと強い方だ…。
 医師になって未だ数年というが感じているのだから、隣に居る父はもっと強くそれを感じているだろう…。
 この仁君の中にある芯の強さを――。
 義弟が脇に避け、視界が開けた先に君主の姿が再び映る。
 刹那、何を思ったのか…君主はその場に立ち上がり、先程まで義弟達が居た場所まで歩み寄った。
 そして、突然の事で呆気にとられている父娘の前に片膝を付き、一礼する。
 「よくぞ我が軍に来てくれた。 先ずは礼を言わせてくれ」
 この劉備からかけられた言葉に頭を深々と下げ、「とんでもありません」と返す深怜。
 「礼を言いたいのはこちらの方です、殿。 此度の仕官…私、深怜心より嬉しく思います」
 刹那、の頭が深怜の手によって押さえつけられる。
 「こら! お前も殿に挨拶せんか」と。
 は両手を床に付けたまま硬直していたが、父に言われてはっと我に返り、同じように首を垂れる。
 あの、仁君が目の前で片膝を付いて、私達にお礼を言っている…。
 今迄雲の上の存在だと思っていた人物が、ただの医者である私達と席を同じくしている。
 彼女にはとても信じられない事だったが、頭を下げたまま自身の心の中にあった疑問を仁君にぶつける。



 「此度の事、我々にとっては非常に喜ばしい事です。
 しかし…お言葉ですが何故私達を軍医に、と思われたのですか?
 他に名医と呼ばれる方が幾らでもおりますでしょうに…」



 刹那、の言葉を途中で切るように目の前の君主がはは、と笑い出した。
 そして、「顔を上げよ…よく顔を見せてくれ」と言いながら父娘の肩に手を添え、言葉を放ち始める。



 「。 お前の言いたい事はよく解った。
 恐らく、ホウ統の口から聞いた言葉が信じられないのだろう。
 しかしな…私も人の子。
 軍に迎え入れる『軍医』はただの名医ではなく…心のある医師を、と思っていたのだ。
 その矢先、ホウ統の報告を受けた。
 『医師という仕事に誇りを持ち、自らの境遇に臆する事なく働いている』というお前達の献身。
 そこに私の思う『心』を感じたのだ」



 「これでは答えにならんか?」とに微笑みを向ける劉備。
 顔を上げて静かに君主の言葉を聞いていたの心が暖かく包まれていく。
 『心のある医師』…。
 自分はただ、傷や病で倒れた人を苦痛から救いたいと思っていただけで…それが『献身』だと考えもしなかった。
 このお方は…どれだけ広い視野を持っておられるのか…。
 は改めて頭を下げる。
 この瞬間、は目の前で笑みを振りまく君主に心からの忠誠を誓った。
 「私達の心をご理解くださってありがとうございます。 これからは…この身、この力を軍に捧げましょう…」
 しかし、この言葉を受けて劉備はまたしても高く笑い出した。
 突然の事で思わず「へっ?」と呆けた顔で見上げる
 場違いな言葉だったのかしら…と思い込みかける。
 その様子を見て、君主は直ぐに「いや、すまんすまん」と父娘の前に胡坐をかくと、改まった様子で話し始めた。
 それは、父娘にとって思いも寄らない『事実』だった。



 「深怜、そして
 実はな…。 此度の事は私の考えだけで決まったわけではないのだ。
 お前達の心を理解していたのは、私達だけではなかった…という事だな。
 ホウ統をお前達のところへ出向かせる前、集落の民が私のところへ来てな…」



 劉備の話は父娘…特にの心をこれでもか、という程貫いた。
 集落の住人が劉備の下を訪れた時に話をしたのは『うちの集落に名医がいるので、是非とも軍に引き上げてください』という事。
 支配下の民が劉備を慕っているのは周知の事で、軍に決まった医師が居ないという事に民は心配していた。
 そこで考えたのが『自分達が医師を推薦する』こと。
 民達は言っていた。
 「今や彼らは集落…いや、この地域全域になくてはならない程の優れた医師ですが、そのような方なら軍を任すだけの価値がありましょう」と。
 民の言葉に劉備は『これだけ慕われている医師ならば』と思ったらしい。
 その時に自身の気持ちが固まった、と君主の口から語られた事実に父娘は心底驚いた。
 慕われている、だなんて…。
 驚きのあまりに声が出せない二人に劉備が更に続ける。



 「民の間で『医師は死や病を穢れに携わっているから関わるな』という風潮があるらしいな。
 私や、この軍の者達はそのような事を思ってもいないが。
 しかしな、集落の民達は言っていたぞ。
 風潮には逆らえなかったが…この先、お前達とは上手く付き合って行きたい、とな。
 軍に上がっても、たまには集落にも顔を出してくれ、と伝言も預かっている」



 「お前も気にしていたのだろう? 」と笑顔を湛えた瞳がを見据える。
 しかし、にはその姿が最早霞んで見えなくなっていた。
 何時の間にか、双瞼から零れ始めた涙。
 の口から嗚咽を含んだ言葉が零れる。
 「あの人達がっ…私達をっ…思っていてくれた、なんて…っ」
 止め処なく流れるものが、こんなにも暖かいものだったなんて。
 私達のして来た事は、本当に…無駄ではなかったんだ。
 ホウ統様が言っていた事も…間違いではなかった…。
 「すみませんっ…急な事でっ、涙が、止まらなっ…」
 泣きながら戸惑いの様相を呈すると、の身体を優しく抱きしめる父。
 その姿を軍の面々が穏やかな表情で見守る。
 「今迄我慢していたのだな…。 今は思う存分泣くといい」
 仁君はそう言うと、に少しだけ近寄ってその背中を優しく撫でた。





 周りの人から齎される優しさに人目を憚らず泣きじゃくる



 謁見場での一時は――
 彼女自身見失いかけていた『心』を取り戻した時間だった。











                    







 2007.2.24 更新