仮面の下の笑顔〜7〜

     第7章   〜 仮面の下の噂 〜











 ………本人から、直接話を聞かなければ――。

 自室に戻るべく歩を進めながら、は同じ事を何度も頭の中で反芻していた。
 かぶりを振り、中庭をふと見やると…空から落ちてくる雫共は衰えを知らず荒々しく降り続ける。
 嵐と見紛うような豪雨に支配され、暗く澱んだ風景。
 …だけど、私の心の中は…
 不思議な程澄んでいる、そうは感じた。





 莱流の口から語られた思わぬ 『噂』 。
 確かに、彼女達は毎日忙しなく城内を動き回っている故…大きな情報網であるのは間違いないし、自身もその情報網に助けられた事が多々ある。
 しかし、今回ばかりはそれを容易く鵜呑みにする事が出来なかった。
 「何故、皆あの方の事を悪く言うの!?」
 彼の事を良く知らないくせに、と外見や噂に惑わされている友人達の遠慮ない言葉には何時の間にか声を荒げていた。
 滅多に怒らず、怒ったとしても極々静かな彼女が…初めて見せた激昂。
 その只ならぬ雰囲気に友人達は…彼女の想いが本物で、途轍もなく深いものだと理解し得た。
 互いの顔を見合わせ、一つ大きく頷くと
 「ごめん、。 …ちょっと言い過ぎた。 でも…」
 話の中心人物に対しての中傷を素直に詫びてから、噂話の詳細を静かに語り始めた。





          





 天災――
 人がどう足掻いても防ぎきることが出来ないもの。
 だけでなく、この世に生きる者全てが忌み嫌うものの一つである。

 話によると…遡る事数年前、城下の直ぐ傍にある村落が大火事に見舞われたのだという。

 立ち並ぶ人家。
 様々な人が行き交う、賑やかな町並み。
 そして、そこに住む人々の思い出や幸せ――。

 それら全てを瞬く間に焼き払い、灰と化した。



 未だ黒い煙を天に立ち上らせ、小さな炎が燻る…元は人家だった瓦礫の山。
 その前にて、噂の発信源となった人物は見たらしい。

 業火に黒く焦がされた地に膝を付き…
 大事に、大事に…既に事切れた小さな亡骸を胸に抱いて…
 痛く胸を貫かれる程の鋭い視線を、何も言わずに立ち尽くすホウ統に向けながら…


 「この子は………お前が殺したんだ!」

 憎しみをこめて泣き叫ぶ、女の姿を――。





          





 ここまで聞く限り、彼が非情な殺人者だとは到底思えなかった。
 の頭の中に渦巻き始める 『違和感』 。
 彼の者が見たのは全てが終わった後の事で、実際に手を下した場面を見ているわけではない。
 ましてや大惨事の後だ…その子供以外にも数多の命が落ちている事だろう。
 そこで「人殺し」と簡単に片付けるのはおかしい、とは思った。
 以前から 『彼に関わると、死ぬぞ』 という噂が付き纏っていたのは流石のも知っていた。
 それと、彼女らが言う噂は…恐らく発生源は同じだろう。
 しかし、この噂には根拠も確たる証拠もない。
 変な言いがかりだ、としか思えなかった。
 ところが………
 「ちょっ…ちょっと待って。 それって…あの方が殺したという証拠がないまま噂が広まっちゃった、って事?」
 「違う違う。 この話には続きがあるのよ…貴女には信じられないと思うけど」
 噂の状況に納得出来る筈もなく話を遮ろうとしたを余所に、彼女達の噂話は続いた。
 それは、を更に唖然とさせるには充分な力を持っていた――。





          





 その後、噂の発信源は遠巻きに見ていた人物から話を聞いたらしい。
 ―実に悪趣味で不謹慎だとは思ったが…。
 事の一部始終を目撃した人物が見たところ、その場には禍々しい空気が流れていたという。

 未だ焼き崩れていない建物の中に子供が取り残されている、と聞き…ホウ統は何の躊躇いもなく己の身に水を被り、中へと入っていった。
 そして、程なく彼の手により助け出された子供に僅かながら息があると解った瞬間、人々の間から歓声が上がったという。
 だが、彼が 『英雄』 として讃えられたのはここまでだった。
 辛うじて死を免れた子供に対して、彼は――

 まるで子供の生気を吸い取るように、空気を欲しがっている小さな口を己の物で塞いだ。
 そして、そのおぞましい行為は………子供の生が潰えるまで続いた。

 それ以来…彼の顔面はその罪を詫びるかのように覆面に隠され、他人に晒す事がないという――。





          







 「私もね、又聞きに聞いた話だから事の真偽は解らないのよ…ごめんね」
 あの時、話を終えた莱流は視線を宙に彷徨わせ、かぶりを振りながら呟いていた。
 には彼女達が自分の事を気遣っているのが解る。
 がかなりの衝撃を受けた、と思ったのだろう。
 だから彼女達は敢えて言った…これはあくまで『噂』なのだ。 噂ならば、話に輪を掛けて伝わっている可能性も充分に考えられる、と。
 しかし、の思うところは別にあった。

 この時は…知識というものはある意味怖ろしいものだ、と初めて思った。
 その場にもし、医師や文官など…医学の知識のある者が居合わせていれば、彼が 『殺人者』 として噂される事はなかっただろう。
 彼のした行為は………間違いなく人命救助だった。
 紅蓮の炎の中で呼吸をするのは至難の業で…ましてや死を目前とした意識のない体には自発的な呼吸が不可能だ。
 その補助をする術はただ一つ ―意識のない人物の口に、直接息を吹き込む事――。
 日頃医学に関する書物に通じている者なら、当然知り得る行為である。
 しかし、そうでない者が見たとしたら………。
 彼が試みた人命救助を、周りの者が 『生気を吸い取った』 と思い込んでも不思議はない、とは思った。
 今更噂を広めた人物を責める気は毛頭ない、しかし――

 ………何故、あの方は………

 話が進むにつれてが感じていた 『違和感』 が大きくなっていた。
 この噂は、幾らでも回避可能だっただろう。
 取り乱した人々を説き伏せるのは難しいが、誠意を持って解りやすく話をすれば彼らの誤解を打ち消す事が出来た筈だ。
 だけど、あの方は何もしなかった………。
 は足を止め、灰色に染まる天を見上げながら思案に更けた。



  ………この話、真実が他にある。



 「黙ってらんない。 …必ずあの方を問い質してみせるわ」
 震える拳を握り締めながら固い決意を露にしたに…彼女の口から噂の間違いを修正された女官達は笑顔で応えた。

 「…そう言うと思った」
 「うん。 …、私達は止めないよ。 …結果報告、宜しくね!」

 彼女達の言葉が…心が、正直ありがたかった。
 噂が偽りの形を持っていた事を告げると…友人達は直ぐに彼の真の姿を察してくれた。
 貴女がそこまで熱を上げるような方が悪い人とは到底考えられない、と。
 そして、がこれから起こそうとしている行動を後押ししてくれた。



 刹那、は視線を元へ戻すと自室に向かっていた足を違う方向へ返した。
 頭で考える事よりも身体の方が早く動き出す。



 こうなったら…善は急げ、だ――。














 「………全て、お前さんの聞いた通りだよ」
 ホウ統の自室に入り、落ち着く間もなく事の真偽を問うたに返って来たのは、溜息と共に吐かれた彼の一言だった。
 それはまるで、その話に触れられたくないと言っているようで…噂の的になっている彼の事を考えず、唐突に話を切り出した自分を恥ずかしく思った。
 しかし…一度溢れ出した言葉は止められない。
 「ならば…あの場では難しくとも、後で弁解をする余地は充分にあった筈。 何故貴方は――」
 噂を、誤解を…払拭しないのか。
 他人から忌み嫌われる事がどんなに哀しい事か…には彼の身に振りかかっている状況が痛い程理解し得た。
 かつて、 『死や病を穢れに扱っている』 自分もそうだったから――。
 だから…彼にもそんな哀しい思いを持ち続けて欲しくない。
 友人達が理解を示してくれたように、他の人々も…きっと解ってくれる筈だと。
 ところが………。

 「――今でも遅くないと思います。 皆に本当の事を――」
 「…もういいんだよ。 これは、当事者にとって辛い出来事を蒸し返しちまう。 …全ては終わった事なんだ」
 から告げられた前向きな言葉を制するように、ホウ統の言葉が重なった。
 彼の言っている事が瞬時に理解出来ない。
 終わった、事…?
 未だにあらぬ噂が蔓延しているのに…果たして、この話が終わっていると言えるのだろうか…?
 刹那――
 疑問に渦巻くを余所に、ホウ統の口からの心を無碍にするような言葉が綴られた。

 「…さぁ、これ以上あっしに関わるとお前さんも悪人になっちまうよ。
 悪い事は言わない…早く自分の部屋へ帰るんだね」

 「なっ…!」
 それは、の心を烈しく逆撫でるには充分過ぎた。
 身体中が怒りでわなわなと震え、胸の前でずっと握りしめられた拳に熱が籠り始める。
 ぎり、と唇を切れる位に噛み締め、何物も貫き通してしまいそうな鋭い視線をホウ統に向けると
 「…私をここまで関わらせといて! 今更 『関わるな』 と言いますか、貴方は!?」
 叫びに似た声を放った。



 ホウ統様、貴方は…。
 世間の風潮に負けそうになった私を、救ってくれた。
 弱かった私から、強い心を取り戻してくれた。
 人を愛する事を忘れかけた私に………再び、人を愛する心を思い起こしてくれた。

 貴方を、愛する事で――。

 なのに………

 「…何故貴方がそんな事言うんですか!
 何故、貴方だけが哀しい思いを抱えなければならないんですか!?
 貴方にとって私は何の力にもなれないというのですか!?
 ………こんなにも、貴方の事を愛しているのに………」



 ホウ統の胸に縋りながら怒りに任せて訴えているうちに、何時の間にかの瞳からは外で地を穿つが如く降り続ける雨のような大粒の涙が溢れていた。
 それを己の服の袖で拭いながら依然衰える事なく力一杯訴え続けるに、ホウ統は覆面の中で僅かに笑みを零した。
 …の一生懸命さには敵わないねぇ、と。
 しかし、今は 『話』 の全てを明らかにする時ではないと彼は思っていた。
 全ては…が落ち着き、しっかりと聞き入れられるようになってから――。





 時は過ぎ、灰色の空は何時しか群青色に支配されていた。
 叫ぶだけ叫び、泣くだけ泣いたの背中を擦りながら、ホウ統は宥めるように云う。
 「…今夜はもう遅い、部屋で休みな」
 「でもっ…私、未だ何も聞いてない!」
 「お前さんが聞きたいと言うんなら…明日話すよ」
 「…本当ですか? …絶対、絶っっっ対ですからね!」
 ホウ統の言葉に気を取り直したのか…は泣き腫らした瞳を彼に晒しながら、力の籠った言葉を放った。





 「明日、絶対に聞かせてもらいますからね!」
 扉の外に出るまで、何度も何度も繰り返し念を押す
 その背中を「はいはい…」と追い遣るように押しながら、ホウ統は――

 が頭を冷やしてもあっしの話を聞こうとした、として…
 …一体、何から話せばいいんだろうねぇ…。

 ――ある意味深い悩みに心をざわつかせるのだった。









                    







 2008.2.23 更新