仮面の下の笑顔〜8〜

     第8章   〜 女心は上の空 〜











 「明日、絶対に聞かせてもらいますからね!」

 まるで逃げていく敵軍の兵士が吐く捨て台詞のように勢いよくまくし立てて、自室へと戻って来た
 床に座り、暫く泣き腫らした瞳を閉じる。
 心のまま、あれだけ泣いて…叫んで。
 自分に、こんなにも激しい一面があったとは思わなかった。
 これまで…そう、この軍に仕官するまでは、自分自身の中にある蟠りのために涙も…心から笑う事も忘れていた。
 本当は叫びたかったのに、それを無理矢理封じ込めて生きて来たような気がする。
 それを…

 本当の気持ちを…呼び起こしてくれたのは、貴方だ。

 刹那、先程ホウ統の前で叫んだ心のままの言葉を思い出す。

 ――こんなにも、貴方の事を愛しているのに…

 「うわ、何て事言っちゃったんだ、私は!」
 この室には、当然の事ながらの他には誰一人居ない。
 しかし、彼女は自分の仕出かしてしまった事に思い切り恥ずかしさを抱え込んだ。
 熱く火照る顔を両手で覆い、ぶんぶんとかぶりを振る。
 幾ら興奮していたとはいえ…次に会う時、どんな顔をすればいいのか。
 事の真相を聞き出す前に、自分が先に逃げ出してしまいそうだ…。







 ――うわの空――
 この言葉は今のにはぴったりの表現だった。
 何時もは然程時間をかけずに平らげる夕餉も、運んで来られたまま殆ど手を付けられずに冷め切ってしまっている。
 箸を持ったまま天井を見上げ、更なる思案に耽る
 流石に先程の恥ずかしさは 「言ってしまったものは仕方がない、こればかりは腹を括ろう」 といった自己承諾で強引に纏めたらしいが、それでもたくさんの想いが心の中を渦巻いていた。



 「明日、話すよ」
 彼がそう言ったのは…あの場を取り繕うのが目的ではない筈だ。
 ましてやあの方の事だ、殆ど嘘の噂をわざわざ更に嘘で塗り固める事もしないだろう。
 あれは…そう、私が落ち着くのを待つって事だ。
 心が乱れた状態では、相手の意図を全て捉える事は難しく、その殆どが自分の頭の中でいいように変換されてしまう。
 ――そんなのは嫌だ。
 彼に心の全てを曝け出してしまった今だから、尚更…彼の言葉を、心の言葉を聞き逃したくはない。
 彼の全てを受け止めて理解し、それを支える術となりたい――。
 刹那、先程ホウ統に擦られていた背中がやんわりと暖かくなっていくような気がした。
 天井に向けられていた視線を、瞳を閉じる事で遮る。

 これだけの温もりを持っている人が…哀しい思いを胸に抱えている。
 …一人で。

 には耐えられなかった。
 同じ思いをしている人…自分の気持ちを理解してくれる人が一人でも居れば、少しは軽い。
 ――かつての私に、父が居てくれたように。
 しかし…今の彼には誰も居ないのだ。
 目尻に再び透明な雫が滲むが、直ぐにかぶりを振りながら雫を袖でぐしぐしと拭う。

 …ならば、僅かでも彼の気持ちを理解出来る私が、支えてみせる…。

 再び瞳を開いた彼女には、最早何の躊躇いも迷いもなかった。
 箸をしっかりと持ち替え、冷め切った食べ物を口に運び始める。
 その瞳に、涙ではなく確かな決意を湛えて――。


















 明日、と言っても…一体、何時頃なんだろう…?

 床からもそっと起き出し、己の目を擦りながらは一人零した。
 夕餉の後、既に一つの思いに収束していた彼女は…早めに床に入り、眠りについた。
 そして、その 『明日』 が来たのだ。
 窓を開けると、外では昨日の大雨が嘘のような早朝の眩しい日差しの下、彼女より早起きの鳥達が空を自由に羽ばたいている。
 そして、中庭からなのか…良く知った面々の話し声が小さく聞こえた。
 大方、女官達が揃って作業をしながら世間話でもしているのだろう。
 その楽しげな様子に誘われるように扉へと歩み寄るが、の足はここでぴたりと止まった。

 私が彼女達と話をしている間に、彼が来るかもしれない。

 朝っぱらから重大な話をするような酔狂な人だとは思えないけれど…可能性は無きにしも非ず。
 それなら、大人しく待っていた方がいい…と思い至った彼女は身支度を整えるべく踵を返した。





 今日は一日休暇を貰っている。
 前の晩、寝る前に父の自室へと出向き、許可を得ていたのだ。
 身体の具合が悪い時以外は休まずに執務を全うしているが、突然申し出た休暇。
 珍しい事もあるものだ、という父の一言に
 「まぁ、そういう事だから」
 と短く返す娘の様子に何かを感じ取ったのか、深怜はそれ以上追及する事はなかった。
 本当は理由を聞きたかっただろう。
 しかし、娘とは言え…今では立派な一個体だ。
 娘の事情を察してくれた父の態度に、は心から感謝をした。
 この人の娘で本当によかった、と――。





 身支度を整えたは卓に頬杖をついていた。
 今朝は早く起き過ぎたらしく、朝餉には未だ間がある。
 待つ身は辛い、とはよく言うけれど…こんなにしんどいものだとは思わなかった。
 これなら、さっき聞こえてきた女官の集いに参加すればよかったかな、と後悔のような言葉と共に大きな溜息を一つ零す。

 いっそ、これから彼の元へ自ら出向いてしまおうか――。
 …ううん、それは駄目。
 こちらも慎重に当たらなきゃ。
 でも………。

 視線を扉と卓へ交互に泳がせながら表情をころころと変えている今のは、まさに 『心ここにあらず』 であった。
 一応は卓の前にどっしりと腰を据えているのだが…その様子は些か落ち着きがなく、自身の欲求に身を任せそうになる衝動を必死に抑えている。
 何が彼女を衝動に駆り立てるのか…それは、ホウ統への想いに他ならないのだが。
 そして、何度目かの衝動にいよいよ腰を上げたところで――



 「まさに恋する乙女、って感じね。 



 一瞬冬眠前の熊に見えたけど、と半分からかうような言葉がかかった。
 はっと息を呑み、が声の方向を見やると…窓枠に頬杖をついて微笑みを湛える親友の姿。
 「、おはよう」
 「おはよう、莱流。 …って、冬眠前の熊だなんてちょっと酷くない?」
 「あはっ、悪い悪い」
 親友の小さな文句に軽い調子で詫びを入れると、莱流は様々な食器に飾られた盆を窓越しに差し出した。
 腹を空かした熊にお待ちかねの朝餉だよ、と再びからかうように言いながら。
 それを受け取った刹那、の腹がぐぅと反応した。
 「あはは…本当にお待ちかねだったみたいよ、私のお腹は」
 朝餉の盆を受け取りながら少々照れくさそうに笑うだったが、次の瞬間思い出したように親友の顔を見る。
 彼女がここに来た目的が朝餉を持って来るためだけではないというのが直ぐに解った。
 何時もは医療班付きの女官が朝餉を持って来る。
 確かに、今日一日休暇を取っている彼女に違う女官が食事を持って来るのは然程おかしい事ではない。
 しかし、持って来たのが親友だという事にの頭の中にピンと来るものがあったのだ。

 莱流は、昨日の結果が聞きたいんだ――。

 受け取った朝餉を卓の上に乗せると、
 「聞きたいんでしょ、莱流。 長くならないように手短に話すわ」
 貴女も仕事を抜け出してきたんだろうから、と依然窓の向こうに居る親友に手招きをした。





 の言葉通り、話は短く…しかし簡潔に莱流の耳に入った。
 時折うんうんと相槌を打ちながら聞いていた莱流は全てを察すると、やっとの事で朝餉に手を付け始めたの肩をぽん、と叩きながらはち切れんばかりの笑顔を向ける。
 「やるじゃん! 上出来よ、
 「…そう思う?」
 「勿論! だって、ホウ統様が話すって約束してくださったんでしょ? あの、自分の事は滅多に話さない方が、よ。 だったら…、貴女の言葉が確実にホウ統様の心を突いたって事じゃない」
 「そうなのかなぁ…」
 食事をしながらのの返事は些か短いものだったが、親友の存在に自分の心が軽くなっていくのを感じていた。
 実のところ、昨日自分がホウ統に対してした事が本当によかったのかが解らなかった。
 いきなり訪れたと思えば…自分の言いたい事を言い散らかして、泣いて、叫んで………。
 これは、間違いなく自分勝手な突っ走り…心の暴走だ。
 しかし、目の前の親友はそれを咎めるどころか、寧ろ絶賛するかのように『上出来だ』とのたまう。
 「ああいう晩熟な方は多少強引な方が効くってもんよ。 大丈夫だって! きっと上手く行く…私が保証する!」
 「莱流…貴女の保証は当てにならないけど…ありがとう。 おかげで大分楽になったわ」
 椀の中の汁を飲み干し、盆に置きながらは莱流の言葉に満面の笑顔で返した。





 卓に置かれていた朝餉は、残らずの腹の中に納まった。
 ごちそうさま、と言う笑顔に満足したように一つ大きく頷くと…莱流は盆を持ち、立ち上がる。
 「いい加減戻らないと、また女官長にどやされるわ」
 「話、聞いてくれてありがとう…莱流。 仕事、頑張ってね」
 「ありがとっ!」
 ぴょん、と飛び跳ねるように踵を返して廊下へと躍り出る莱流。
 …が、盆を廊下に置いた刹那、再びの傍に戻ると
 「…そうそう、さっき…その晩熟様が私に言伝を頼みに来たのよね」
 危うく忘れるところだったわ、と己の袖に隠していた一つの書簡をに手渡した。
 一輪の小さな花が添えられた、書簡。
 それを眺めながらあまりの唐突さに声が出ないに、最初見せたからかうような笑顔を向けて莱流が再び踵を返しながら続ける。
 「ホウ統様も粋な事するじゃない。 花付きの恋文なんて! …、結果報告は必須だからねっ!」





 殆ど捨て台詞のような言葉を残され、再び部屋の中に一人きりとなった。
 しかし、その手の中にはホウ統からの文がある。
 親友がこの場に来た本当の目的は…実はこれにあったのだ。
 親友の話をしっかり聞いてから書簡を渡す――。
 粋な事をしているのは貴女の方よ、とくすり笑いながらは独り言を零した。





 小さな花が添えられた書簡。
 その中には、どのような事が書いてあるのか――。

 躍る心とちょっぴり不安になる心を抱え、添えられた花の香りをほんのり感じながら、は書簡の紐に手をかけた。










                    







 2008.5.1 更新