仮面の下の笑顔〜9〜

     第9章   〜 仮面の下の真実 〜











 添えられていた花を大事そうに卓へ置くと、は紐解いた書簡をそっと開いた。
 ふうわりと漂う花の香りに目を細めながら整然と書かれている文面へと視線を落とすと――





 ――突然の便りですまないが、用件だけ伝えよう。

    昨晩は互いに冷静ではなかった。
    それは、お前も解っている事だろう。
    しかしあの時のお前の気持ちに変わりがなければ、改めてお前と話をしたいと思う。

    今宵、月が天頂に昇る頃――
    私の部屋へ来てくれ。

    私は、待っている――





 なんとも素っ気無い文体に、は思わず吹き出してしまった。
 如何にも彼らしい、不器用な表現である。
 しかし、同時に彼の気持ちが籠っていると感じる事も出来る。

 ホウ統様は、私と話をしたいと言って来た。
 そして、私の来訪を待っていると――

 の心の中には最早迷いも不安もなかった。
 彼の口からどのような事実が語られようとも、自分の気持ちには変わりはないと自信を持って言える。



 私は………今ある彼を、愛しているのだから――。







 夜が待ち遠しかった。
 しかし、ひとところでじっとしていられなかったは持て余している時間を友人でもある女官達と共に過ごした。
 女官達の仕事を手伝い、話をする。
 それは何時もの休日とは違い、気分転換としては充分な成果をもたらした。
 事情を知っている友人達も余計な事は言わず、普段と何ら変わらない態度を取ってくれていた。
 その事には心から感謝する。

 ………やっぱり持つべきものは友、ね。





 夕刻を過ぎ、自室に戻ってきたは肌寒いにも関わらず徐に窓を開け、空を見上げる。

 群青色に支配され始めた空には丸い、まぁるい月がこれ見よがしに光を放っていた――。













 今宵は、満月――

 宵闇に淡い光を注ぐ月の真下に今、は居た。
 その扉を見つめる瞳には、心にある想いと同じく強い力が宿っている。

 ………私は、貴方を守りたい。
 闇に光を与える、今夜の月のように――

 そうと決まれば即行動、というのも彼女の性格所以か――の手は何の躊躇いもなく扉へと向かう。
 そして、扉を叩こうとした刹那――





 にゃぁ。





 「にゃっ………にゃぁっ!?」

 足元から突如現れた猫に素っ頓狂な声を上げた。
 その心底驚いた様子を見ると、心を決めていたも流石に緊張していたのだろうと窺える。
 胸に手を当てて喉から飛び出そうだった心臓を落ち着かせるべく大きく息を吐くと、改めて足元にじゃれつく猫を見た。
 脛に頬を摺り寄せる姿は少々大きいながらも可愛らしく、時折夜風に揺れる毛足は充分な手入れが行き届いている。
 しかし、しゃがんで猫の背を撫でたはその感触にはっと息を呑んだ。

 ――毛先のところどころが縮れているのだ。

 生き物の毛は、ちょっとやそっとの火ではこのように縮れない。
 それ程にこの縮れ方は尋常ではなく…何度生え変わっても元通りになる事はないだろう。
 ………あの場も確か火事に見舞われていたと言ってたわよね。
 その時、昨日女官達から聞かされたホウ統の噂を思い出し、の心の中に一つの仮説が生まれた。

 もしや、この猫は――!?





 ――『ボクが死んだら、この仔を頼むね』
    これが、あの少年の最期の言葉だったよ――





 刹那、の耳に聞き慣れた声が緩やかに届いた。
 声のした方向を見上げると、自分が逢いに来た男(ひと)が扉を背にして立っている。

 「この猫の事、お前さんなら気付くと思ったよ」
 「ホウ統様――」
 「待ってたよ、。 …寒かっただろう、中へ入りな」

 短い言葉と共に暖かな腕に導かれる。
 そして、二人と一匹は部屋の中へと身を躍らせた。










 肌を撫でる暖かな空気と鼻腔を擽る香の香りは、僅かに波立っていたの心を鎮める力を充分に持っていた。
 ホウ統の作り出した空間に自然と笑みが零れる。
 「………相変わらずホウ統様のお部屋はほっとします」
 「そうかい? お前さんにそう言ってもらうとあっしも安心するよ」
 ホウ統はそう言うと、淹れたばかりの茶をに差し出した。
 それを礼の言葉と共に受け取ると、湯飲みからほわんとした茶の香りが漂う。

 ――人柄を窺わせるような優しい香り。

 このような人間があらぬ噂で忌み嫌われる――そう思うとの心の中に再び怒りが込み上げて来た。
 しかし今度はそれを口に出す事なく、黙ってこの優しい雰囲気に身を委ねていく。
 茶を一口こくりと飲み、改めて顔を上げると――

 「、お前さんが来てくれて嬉しいよ」

 覆面の下でふふ、と微笑う想い人の顔が視界に映る。
 それは、飾る事のない本心から来る言葉だとにも感じる事が出来た。
 今迄心の中に隠していた事の真相――それを、他でもない自分にしてくれる。
 その事実が、にも嬉しさを運んで来る。
 はホウ統の言葉に笑顔で返すと、彼の口が再び開くのを待った。

 これから話される重たい事実とは裏腹に、この場にはゆるりとした空間が広がっていた――。





           





 業火の中、彼がその場に漸く辿り着いた時――少年は頻りに鳴き声を上げる仔猫を抱え、倒れていた。
 身体中に火傷を負い、満身創痍にも関わらずもがき苦しむ猫を庇い続ける姿は彼が戦場で幾度となく見てきた武人のそれに近かったらしい。

 ――命を賭して何かを護ろうとする、強い心――

 しかし、少年の小さな身体にはそれを完遂する力はなかった。
 抱え上げた時に感じた少年の限界と、最期に告げられた言葉。
 ホウ統は悔しさに自分自身怒りを覚えたと言う。
 もう少し早く発見できれば、と。

 そして一縷の望みを胸に外へと踵を返した刹那、彼の身にも炎に包まれた瓦礫が迫って――





           





 「――それが、この覆面の真実だよ」
 話の途中、ホウ統は何を思ったのか突然顔を覆っていた布を外した。

 今迄、ですら見る事の叶わなかった覆面の下の素顔――

 それが明らかになった刹那、は一瞬だけ表情を強張らせたが直後、元の神妙な笑顔に戻る。
 「やはり、そうでしたか………この噂を聞いた時からそのような予感がありました」
 「流石はだ。 これを見ても驚かないなんてねぇ――」
 「私は医師ですよ、ホウ統様。 …しかし、貴方こそ流石です…炎の中、そのような残る火傷を負いながらも子供と猫を庇ったんですから」

 ――心優しい彼の事だ。
 たとえ一縷の望みも消え、少年の身体が亡骸になったとしても…外へと救い出したいと思ったのだろう。
 その時の感情が痛い程伝わり、の瞳に涙が滲む。
 この人は、皆が思っているような人じゃない。
 ままならぬ気持ちに唇を噛み締めた刹那、ホウ統の口が再び開かれた。





           





 自分も満身創痍になりながらも、彼は必死だったらしく…外へ出て直ぐに少年の身体を地に横たえた。
 そして、僅かな息を吹き返すべく、彼が施した行動は――の予想通り。

 彼の頭の中には少年を救う事しかなかったのだろう。
 周りの声が彼に届く事もなく、集中し過ぎたがあまり――





           





 「――その時の雰囲気が余程怖ろしく感じたのでしょうね」
 ここまで聞いて、は小さく頷いた。

 治療を施している医師が纏う雰囲気には、時に鬼気迫るものがある――

 何時か、武将の一人がに零した言葉である。
 それを思い出し、禍々しいと称された噂の一場面に心から納得した。
 この人にも私達のように『ただ一つの命を救いたい』という強い想いがあったのだろう、と。
 しかし――

 「人の主観で貴方一人がこのような酷い仕打ちを受けるなんて…」
 は迫り来る悔しさに眉を顰めた。
 人はある意味残酷な生き物である。
 考える事が出来るが故に主観というものが生まれ、それがあらぬ噂に発展してしまう。
 もし、あの場に知識のある者が――私が、居たとしたら――。
 考えれば考える程、の心の中に棲む悔しさが増え………私は過ぎた事になど出来ません、と言葉が口をついて出て来た。
 刹那――

 「、あっしが全てを話さないのには他にも理由があるんだよ」

 噂の渦中に居る張本人が、の荒ぶる気持ちを落ち着かせるべく淡々と続きを語り始めた――。



 ――、いいかい。
    人は強い想いがあれば生きていける――それはお前さんも知っているところだろう。

    あの時、少年の母親は生きる気力を失いかけてたんだ。
    放っておけば、少年の後を追っていたかも知れないね。
    けど、母親はあっしを憎む事で生きる力を得たんだ――



 人を憎むのも、強い想い――

 この人はたった一人、しかも見ず知らずの他人のために悪者になったというのか。
 たとえこれが少年の命を救えなかった事への代償だとしても、余程の覚悟がなければ自らを悪者には出来ない。
 改めて感じるホウ統の器の大きさに、は完全に言葉を失うと同時に己の心臓がとくり、と高鳴るのを自覚した。
 心にあるホウ統への想いが、大きくなっていくかのように――

 「………やはり貴方は私の思った通りの、心の広い人でした」
 「いや…他の人間には思った事を話せない、あっしは小心者さ――」

 少々自嘲気味に幽かな笑みを零すホウ統。
 その笑顔に「それは小心者、ではなくて不器用って言うんですよホウ統様」とがくすり笑いながら切り返す。
 はこの場に再び緩やかな空間が還って来るのを感じ、瞳を閉じて心地よさに身を委ねた。

 だが次の瞬間、にとって驚くべき事が起こる。
 今迄卓に置いていた手が、突如暖かいものに包まれたのだ。
 はっと息を呑み、瞳を見開くと――暖かいものの正体は、ホウ統の大きな掌だった。



 「ほっ、ホウ統様――!?」
 「――けど、全てを知るのは…あっし自身と、お前さんだけで充分だ」



 ――たくさんの人が生きているこの世界の中で…あっしを選んでくれた事、そして………
    お前さんが居てくれた事に心から感謝するよ、――





 それは不器用な彼らしい、それでいてがこれまで幾度となく夢見ていた告白だった。
 当分鎮まりそうにない胸の鼓動に顔を火照らせながら同じような言葉をぽつり返す。
 私も貴方を選んでよかった、と。
 そして優しさに溢れる大きな手を強く、強く握り返しながらはその心に新たな想いを書き加えていった――。







 「ホウ統様の強き想い………この、しかと受け止めました。
 貴方が孤独な思いをする事は最早ありません。

 ――大丈夫ですよね。

 貴方も、私も………



 もう、一人ではないのだから――」










                    







 2009.02.11 更新