仮面の下の笑顔〜10〜

     第10章   〜 幸福は暗雲と共に 〜











 ――幸せが怖い、ってこういう事を言うんだろうな。

 は自ら淹れたお茶を飲みつつ、一人零した。
 穏やかに晴れた日の午後。
 鍛錬の時間には未だ早く、武器を持つ者は今頃食後の長閑な時間を過ごしている頃だろう。
 この時間に忙しなく働いているのは女官達くらいだ。
 先程まで共に茶を囲んでいた友人達も女官長の怒鳴り声でそれぞれの持ち場へと戻って行った。
 そして、再び一人になり――彼女は何をするでもなく、この安穏とした空気を感じている。

 ――士元様に、逢いたいな。

 刹那、図らずとも口から吐いて出てしまう彼の人の名前。
 想い慕う人に逢いたいと思う気持ちは、人として常だ。
 自身が呟いた言葉に照れた笑みを零すだったが、直後ここには誰も居ないという事にほっと胸を撫で下ろす。
 しかし――



 「またホウ統様の事考えてるわね、
 「どうやら心ここにあらず、といった様子ですね」



 突然かけられた声にははっと息を呑み、顔を火照らせた。
 実に解り易い。
 この様子を見れば誰でも今言った言葉が図星だと理解出来てしまう。
 「うわ…驚かさないでよ、尚香…それに月英まで――」
 「あはっ、そんなところでボーっとしているが悪いのよ」
 「ふふっ…ホウ統殿は今配下の者達と談話中ですよ、
 顔を上気させたまま少々ぶすくれるを余所に、二人の女が屈託のない笑顔を見せる。

 ――我が軍の君主、劉備に嫁いで来た尚香と丞相の妻である月英。
 にとってはかけがえのない仲間――今では友とも言うべき人である。







 「あれから二人の関係がどうなったのかちょっと探って来いって玄徳さまに言われたのよ」

 が持って来たお茶を受け取りながら尚香はいきなりごめんね、と素直に詫びを入れた。
 しかし、それが半分口実だというのは他でもないが一番よく理解している。

 この二人とは、軍に女人が少ない事もあって直ぐに気心知れた仲になった。
 そしてあの日――望月の夜の出来事は、数日後ではあったが尚香や月英にも自身から報告している。
 これはの事をよく知っている彼女達にしてみれば遅過ぎる春のように感じたのだろう。
 以前よりも頻繁に彼女達の姿を見るようになって自分達の事を気にしてくれているのが物凄く解った。

 解りやすいのは私だけじゃないみたいね、と英連は喜びに表情を綻ばせる。
 会う度に自身の話をするのは流石に照れくさいが、何よりも親しい者と楽しく話が出来る事に嬉しさを感じるのだ。
 自身の身の上に劣等感を感じていた頃には到底気付かなかった事。
 それが今では手を伸ばせば届く距離にある。
 同じ志を持つ者も友も――そして恋人も。

 「そんなに気になる?」
 「あ、えぇ…私はいいのですけど、孔明様が――」
 「そんな事言っちゃって………月英もここに来る前凄く乗り気だったじゃない」
 「あはは! もういいわよお二人さん、別に何も隠す事なんかないし」

 遠慮ない会話にも笑いが溢れている。
 それは傍から見ても楽しいものにしか映らないだろう。
 しかしそんな中、の心の中にはこれから更に照れくさい事を話さなければならないというくすぐったさがあった。
 それはつい昨晩、彼――ホウ統から言われたある一言に端を発する。



 ――お前さんが良ければ………あっしと、一緒にならないかい?



 今思い出してもぼっと顔が熱くなる位の気恥ずかしさ。
 こんな思いは、生まれてこの方――以前恋をしていた時ですら感じた事がない。
 あの時は勢いで直ぐに二つ返事してしまったけれど………がっついているように思われなかったかしら?
 昨晩の事を思い起こして少々勘違いな不安にますます動悸が激しくなるが、それよりも心の底から湧き上がるような想いも実感し始めていた。

 好きな人と、一緒になれる幸せ――

 この乱世、何時何が起こるか解らないけれど…この人とならきっと乗り越えられる。
 そうが思う程、心にある気持ちは確固たるものとなっていた。



 「でも丁度よかったわ…お二人さん。 実はね、貴女達に言わなきゃいけない事があるのよ」

 はむずむずとする心のまま二人に笑顔を向けると、昨晩の事を語るべく口を開いた。







 案の定――
 が事の次第を語った刹那、訪問者の喉から嬌声に近い感動の声が上がる。

 「やったじゃない! おめでとう!」
 「あ、あのね尚香、未だ話の段階なんだけど――」
 「いえ、…これは決まったも同然です! ついにホウ統殿も動きましたね」
 「やだもう…月英まで………」

 二人の反応に照れくさくなったのか、はかぶりを振りながら俯いた。
 近しい者が自分の事のように喜んでくれるのは嬉しいが、流石にここまで過剰な反応を見せられると困ってしまう。
 方や月英は卓に身を乗り出しつつ力説し、尚香に至っては徐にの手を取り、激しい握手と言わんがばかりにぶんぶん振ってくる。

 「あは、ありがとうお二人さん」

 当事者よりも盛大に喜ぶ二人に困惑しながら礼を述べるだが勿論、悪い気はしない。
 今、自分には幸せを共有出来る者がたくさん居るのだから。

 ――これも幸せの一つだと思っても………いいよね。

 は顔を上げ、依然姦しく喜びを表現している二人に満面の笑みを返した。
 しかし次の瞬間、この場で繰り広げられる展開に開いた口が塞がらなくなる。



 「――あっ!」



 ほんの一瞬の沈黙の後――
 何かに気付いたのか、卓に乗り出したままの月英が声を上げ、殆ど間を置かずに扉へと踵を返す。

 「こうしては居られません、善は急げです! 早速孔明様――いえ、その前に殿へですね――直ちに報告せねば!」

 楽しげに飛び跳ねそうな勢いで扉へと向かうその姿はさながら新しい悪戯を思いついた子供のようだ。
 そして――

 「ちょ、待って月英! 貴女人が変わってるわよ………てか、玄徳さまに報告するのは私だからっ!!!」

 月英に先を越されるわけにはいかないわ!と追って走り出す尚香。
 その二人の姿が瞬く間に扉の向こうへ消えると、この場には再び静寂が訪れた。
 開けっ放しの扉をゆっくりと閉めながらはその顔に何とも言い難い笑みを浮かべる。



 私と士元様の婚姻が、そんなに一大事なのかしら?



 何事も 『騒いだ者勝ち』 なのだろう。
 嵐の去った後のような静寂に、の心は落ち着きを取り戻しつつあった。













 それから、当事者であるやホウ統を余所に周りが慌しく動き始めた。
 尚香から報告を受けた君主が直ちに下した命、それは――



 ――ホウ統との婚礼の儀を一月後に執り行う――



 これは君主自身も善は急げと思ったのだろうが、それよりも尚香や丞相夫妻の力が大いに加わったのは言うまでもない。
 我が軍に久しくなかっためでたい話。
 それが他でもないホウ統との婚礼となれば、周りが騒がしくならない筈がない。
 勿論その中には違う意味での騒がしさも含まれていたのだが――それでもめでたい事には変わりなく、軍の中では次第に祭りのような雰囲気がそこここに溢れて来た。
 そして、様々な所から
 「おめでとうございます、殿」
 といった祝いの言葉をかけられるのも日常茶飯事となり、ここに来て漸くの心にも婚姻に対する実感が湧いて来たのだった。







 そんなある日の昼下がり、は妻として大先輩である女二人に呼び出される。
 指定された場所に行ってみれば、そこにはの婚礼衣装が飾られてあった。
 驚きに目を白黒させるを余所に、尚香と月英は至極楽しげに満面の笑みを浮かべながらに衣装の話をし続ける。
 「お金、かかったんじゃない?」
 というの変な心配も何処吹く風だ。

 「大丈夫! 玄徳さまも『このようなめでたい事に金を惜しむ必要などない』って言ってくれたから…と言うか、私が言わせたんだけどね」
 「そうですよ、折角ですからこの喜びを皆で分かち合いましょう!」

 自分よりもその日を待ち侘びている感のある二人を目の前に、には最早何も言い返せなかった。
 心から祝ってくれる友の気持ちを、無下にする事など出来るわけがない。
 地味にひっそりと儀式を終えたいと思っていただったが、観念せざるを得ない状況に漸く頷く。
 そして――



 ――今頃、士元様も大変な思いをしているんだろうな。



 婚礼衣装を目の前に慌てふためくホウ統の姿を想像し、人知れずぷっと吹き出したのだった――。













 ――その日は目が眩む程の晴天だった。



 婚礼衣装に身を包んだは、皆の待つ会場の扉を目の前に暫し思い出に浸っていた。
 婚礼の儀に選ばれた会場、そこは――が軍医として初めて足を踏み入れた、君主との謁見の場。



 ――にとって、始まりの場所。



 そう、彼女が医師として認められ、初めて幸せの涙を流した場所だ。
 そして今――ここから新たな一歩を踏み出す事となる。



 ――愛する者の、妻として――







 「劉備殿も粋な事をするねぇ」
 「えぇ――」

 同じく婚礼の衣装に身を包んだホウ統が、隣に居るに語りかける。
 彼の話では――
 煌びやかな婚礼衣装を目にした瞬間、眩暈に襲われたのだという。
 そして、これだけは遠慮したいと先程迄拒んでいたのだが、あれよあれよと言う間に押し切られたらしい。
 照れ隠しなのか、己の頭をかくホウ統の姿を見て、はやっぱり、と吹き出す。

 「笑うなんて酷いねぇ、。 でもまぁ、こんな事は滅多にないからねぇ」
 「あはっ………何度もあっても困りますよ、士元様」



 本日の主役は、自分達――
 それを自覚したは流石に今迄緊張していた。
 しかし懐かしいとも言うべき会場に着き、ホウ統と話をする事で次第に心の糸が解けていく。

 まるで、あの時のように――



 「――、本当にあっしでいいのかい?」
 「何を今更――私は貴方じゃなきゃ嫌です。 じゃ、逆に訊きます…貴方は、私でいいんですか?」

 「勿論さ。 あっしもお前さん以外には考えられないからねぇ」



 顔を見合わせて笑う二人。
 それぞれの顔には照れながらも未だかつてない程の笑みが零れている。
 この戦乱の世の中で、想い焦がれる人と結ばれるという喜び――



 二人にとって、この時が幸せの絶頂であった――。










 ――今は乱世。



 だけど私は――この人とならきっと乗り越えられる。



 ――乗り越えてみせる。





                たとえ、何が起ころうとも――










                    







 2009.06.24 更新