仮面の下の笑顔〜11〜
第11章 〜 暗雲、嵐をもたらす 〜
――二人の幸せは、末長く続くものと思われた。
「あっ、士元様。 そこにある薬草を取ってください」
「あいよ。 ………しかし、お前さんも人使いが荒いねぇ」
「立ってる者は親でも使え、ですよ。 丁度良い所に居る士元様が悪いんです」
「あっはっは、それもそうだ」
医療班の面々が集うこの場所に、ホウ統が訪れたのはつい半刻前。
近頃めっきり二人の時間が少なくなってしまったためにちょっとした空き時間を作ってはの顔を見に来るのだが、多忙なのは医療班も変わらず、その度に言うまでもなく手伝いを強いられるのだった。
幸いホウ統は知識の幅も広く、医学的な知識も持っているからをはじめ医療班の面々も安心してホウ統に手伝いをお願いしている。
「士元様、そちらの方は大丈夫なのですか?」
「あぁ。 大体の策は諸葛亮が練っているからねぇ…あっしはその策に乗っかるだけだ」
「でも――」
「細かい事は頭の中ででも考えられるさ。 今は、お前さんと顔を合わせる時間の方が大事だよ」
流石は新婚?夫婦である。
ホウ統の口から出てきた意外な言葉に周りより冷やかしの声が上がった。
「やっ、やだ、みんなして………もう、貴方達手が止まってるわよ! さっさと作業を進めなさい!」
顔を紅潮させつつぷりぷり怒鳴るだが、勿論悪い気はしない。
ここには、ホウ統を巡る噂など微塵も感じられない――いや寧ろ、この人達はホウ統の知識の多さや懐の大きさに感服すらしてくれている。
その事に、は更なる幸せを感じていたのだ。
目の前でふふと笑う夫も、それは同じように感じているだろう。
――それは、少し前までは夢にも思わなかった、忙しくも幸せな毎日だった。
刻一刻と近付く戦も、難なく勝利を掴み取れると思わせる程に――
遡る事数月前――
益州攻略を考慮していた我が軍の下へ、彼の地を統べる主から『劉備殿を迎え入れたい』と使いが寄越された。
未だ完全たる拠点のなかった我々としては降って湧いたような幸運。
しかしこれが罠だと疑う諸葛亮の指示もあり、それなりの兵糧を出せば殿自ら出向きましょうと返事をした。
その結果――こちらに贈られてきたものは実践では役に立たなさそうな老兵ばかり。
使いの話では『軍の中に反対する者が多く、これだけが精一杯だった』という事なのだが――
「………これは虚仮にされたとしか思えませんね、凄くムカつきます!」
「だろう? あっしだって腹が立ったんだ、これに黙っているような武将はこの軍には居ないさ」
「ではやはり、戦は避けられない、と」
「あぁ。 予てから計画していた益州攻略が早速動き出すだろうねぇ」
軍が、大きく動き始める。
ははじめ、ホウ統の言葉を他人事のように感じていた。
平穏に…そして楽しく過ごしていた毎日。
その水面下できな臭い話が出ているとは思ってもみなかったのだ。
しかし、今は乱世――殿もしっかりとした地盤が欲しいだろう。
「戦にならなければいいとは思っていましたが………これは仕方のない事ですね、士元様」
項垂れ、独り言のように零す。
その心の中には未だ複雑な思いが溢れていた。
戦で傷ついた人、命を落とす人を見る度に感じる胸を締め付けられるような想いを、またしなければならない。
だが、今や自分も軍の人間――軍医だ。
私情のために己のやるべき事を疎かにしてはいけない。
「………、どうしたんだい?」
「いいえ士元様、ちょっとこれからの事を………そうなると私達も忙しくなりそうですね。 頑張らなくっちゃ!」
心配そうに顔を覗き込んでくるホウ統に笑顔で返すと、は心の奥底を悟られないよう大袈裟に力瘤を作った。
慌しい日々は、驚く程あっという間に過ぎ去っていく。
勿論、医療班も例外ではなく――準備万端整った頃には出立の日がいよいよ明日に迫っていた。
その夜――。
今群青色の空を覆う灰色の雲は、来る戦のようにこの地に影を落としていた。
「――やっぱり、お前さんも出なきゃならないのかねぇ」
「えぇ。 でも寧ろその方がありがたいです………だって貴方と途中まででも一緒ですもの」
それに拠点ででしたら直ぐに互いの情報も解るでしょうし、といまいち腑に落ちない様子のホウ統に向けて笑顔を見せる。
彼の気持ちは痛い程解る――きっと私には戦に出て欲しくないんだ。
敵本陣からかなり離れた補給拠点とは言え、戦場に出ていれば多かれ少なかれ危険が伴う。
そんなところに、妻になって一年も経たない女を置いてはおけないと思っているのだろう。
ホウ統の表情を見れば一目瞭然だ。
しかし此度の戦は小競り合いではなく、大々的なものとなる。
そのような戦では医療班も人手不足が明白だと彼自身も理解しているが、やはり心配なのだ。
「だけでもいい…医療班の配置、今からでも何とかならないかねぇ…」
「あははっ! 士元様って、意外に心配性なんですね」
腕を組んで思案に更けるホウ統を見ながら声を上げて笑う。
これでは他の家庭と間逆だ、とは思った。
兵士達からは、妻に心配されたとか子供に泣かれたとか――実に微笑ましい話を聞かされていた。
勿論、自分もホウ統に対して心配していないと言ったら嘘になる。
彼自身も前線ではないが戦況を見極めるという重要な任を負っているし、護衛や兵も率いる武将だ。
出来る事なら戦にも出ず、医療班の一員として傍に居て欲しいとさえ思う。
しかし――
「………あっしはどうしたらいいんだろうねぇ」
「もう、大丈夫ですって! 過保護なんだから………」
何事も早いもの勝ちなのだろうか?
少々滑稽にも見えるホウ統の様子を見つめながら、は改めてこの人に愛されているのだと盛大に実感するのだった。
そして――
来るべき戦への旅立ちの日は、空に残る暗雲と共に訪れた――
――旅立ちの日に浮かんでいた暗雲は、未だ空の青を覆い隠していた――
言うまでもなくこの決戦は、乱戦必至だった。
前線部隊は勿論、中衛の軍ですら苦戦の連続で医療班の元へ傷ついた兵が次々に運ばれていく。
勿論、中衛の指揮を任されているホウ統の軍も挙って兵を持って行かれていた。
――は今頃、大変な思いをしているだろうねぇ。
曇天を見上げながらホウ統は形振り構わず治療を施すの姿を思い浮かべ、覆面の下で微笑った。
それでも、戦は誰も待っていてはくれない。
ホウ統は時を置かずして流れてくる情報をまとめ、刻一刻と変わる戦況を見極めなければならないのだ。
「ホウ統様! たった今前線より敵防衛拠点を抑えたとの情報が入りました!」
「そうかい………じゃ、その隊には暫くその地に留まるように伝えてもらおうかねぇ」
「はっ!」
乱戦が収まるまで迂闊に動けない。
そう思ったホウ統は、伝令に待機の指示をするとさぁ次はどうするかねぇ、と首を捻った。
刹那――
「ホウ統様! 敵軍本陣より白旗が揚がったとの事です!」
「………何だって?」
先の伝令と擦れ違うようにして現れた別の伝令の口から意外な言葉が吐かれた。
流石のホウ統もこれには開いた口が塞がらなくなる。
たった今迄乱戦を繰り広げていたにも関わらず、防御拠点一つ落とされただけで降伏するとはとても考え辛い。
しかし伝令の顔を見ても昔からよく知った兵で、間者とは言えない。
加えて、続く伝令の話ではこの後直ぐにでも主自らこちらに出向くとの事。
――これは真実か、それとも何らかの策か――
ホウ統は脳が蒸発しそうな勢いで思案する。
向こうの主が出てくれば、こちらも主である劉備を出さざるを得ないだろう。
しかし、これがもし罠だとしたら………
ふと、ホウ統の心に嫌な予感が過った。
「お疲れさん。 お前さん達はここに残ってくんな………その事はあっしが直接劉備殿に伝えてくるよ」
ホウ統は護衛を始めとした兵達へ待機するように命ずると、後方に位置する本陣へと馬を駆った。
「解った。 向こうが誠意を示すと言うのなら、こちらも私が出なくてはいけないな」
案の定、劉備はホウ統の言葉を何の疑いもなく聞き入れた。
敵軍が直ぐに白旗を揚げたという事実も、彼にとったら安堵する要素だろう。
何よりも、人の命と仁を重んじる主だから。
しかし、ホウ統の心を襲っている暗雲は君主の顔を見ても晴れる事はなかった。
劉備の言葉の続きを聞かずに、ホウ統は己の心のまま口を開く。
「待ってくんな、劉備殿。 ………あっしは嫌な予感がするんだ」
「ホウ統、お前は白旗が罠だとでも言うのか?」
「いや………あっしだってそう思いたくないさ。 けど、それが罠だとも言い切れないよ」
「では、私はどうすれば――」
目の前に叩きつけられた現状に困惑する君主。
劉備の様子を見て、ホウ統の心は決まった。
――上を見る劉備殿を迷わせるわけにはいかないね。
「劉備殿は後からゆっくり来てくれればいいさ。 ただ………劉備殿の馬を貸してくれないかねぇ」
「馬、か? 私は別に構わんが………それで一体どうするつもりだ、ホウ統?」
馬から降りつつ問いを投げかける劉備。
その心の中には、周りの者達と同じ推測が過っているだろう。
君主の問い掛けに微かな笑いで返すと、ホウ統は徐に劉備の馬にひらりと飛び乗った。
「ちょいと借りて行くよ、劉備殿。 なぁに、直ぐに返しに来るさ」
未だ静かな中衛拠点に戻って来たホウ統は、待機していた兵にもう暫くその場に居るよう命じた。
そして、敵軍の大将が待つ前線へと駆けて行く。
刹那――
ひゅんっ――
幾つもの弓から放たれた光が、ホウ統の身体に向けて降り注いだ――
――嫌な空だわ。
は治療を終えた兵を見送ると、曇天を仰いで一つ溜息を吐いた。
太陽を覆い隠す、灰色の空。
それが、どうしてもこの乱世を哀れんでいるように見えてしまう。
どうして、人は争わなきゃならないのかしら?
それは、この軍に仕官するずっと前から考えていた事。
争いがなければ、この世には無駄に傷つく人が居なくなるのに。
戦のない世の中を造るために戦っている、と武将さん達は言っているけど………
矛盾してるわ、とはかぶりを振りながら思った。
刹那――
「皆さん、聞いてください! 先程、敵軍が白旗を揚げたそうです!」
「えっ? 本当?」
突然の吉報に拠点内から歓声が沸き起こった。
これには流石のも驚いたが、確かに先程から運ばれて来る負傷した兵の数が減っている。
それを考えると、我が軍の勝利は間違いないと思われた。
「はいはい! 喜ぶのは未だ先よ! お仕事お仕事!」
本当は自分も飛び上がる程嬉しい。 今直ぐにでも皆と――ホウ統と喜びを分かち合いたい。
しかし、少なくなったとは言っても負傷兵は未だ後を絶たない。
早く治療を施すべくは周りの面々に指示をし、自分も一人の兵の前に座り込んだ。
しかし――
拠点が喜びに沸いたのはほんのつかの間だった。
穏やかな雰囲気に変わりつつあった拠点内に、転がり込むように入って来る二組の人馬。
だがそれは、吉報を伝えるものではなかった。
一方の馬から、ぴくりとも動かない一つの身体が静かに、降ろされる。
そして先に入って来た伝令がの前に立つと、涙を堪えるように拳を強く、強く握り締めながらゆっくりと口を開いた。
「殿――お伝えします。
先程、敵軍から揚げられた白旗は………罠、でした。
その際、囮として単身、敵陣へと入った、ホウ統様は………
………敵陣の、弓による攻撃、で………」
――え?
何を言ってるの?
戦は、もう終わったんでしょ?
――ほら、士元様もこうやって、還って来たんだ、から――
ふらふらと力なく横たわる身体へと歩み寄る。
その心には、最後に交わされた言葉が渦巻いている。
『本当に気をつけてくださいね…士元様は関羽殿や張飛殿みたいな将ではないんですから、危なくなったら直ぐに逃げて――』
『あっはっは。 ………お前さんは本当に心配性だねぇ』
『お互い様じゃないですか、もう。 ちゃんと元気に帰って来てくださいね』
『あぁ、勿論さ。 帰ったら、何時ものように――』
寝かされていたホウ統の身体をそっと抱き上げる。
瞬間、の身体がびくんと跳ね上がり、ホウ統の身体を抱きしめたままその場にへたり込んだ。
………指先に感じる、無機質な程の冷たさに――
『何時ものように、笑顔で迎えてくんな』
………出来ないよ、士元様。
元気に、って、約束した、のに………
「士元、様……………
……………いっ………いやぁぁぁぁぁぁぁあああああっっっ!!!!!!!!!!」
2009.09.16 更新