仮面の下の笑顔〜終章〜
――何時か、私に言ってくれた言葉。
貴方は、覚えていますか?
『お前さんが笑ってくれれば、あっしはそれで幸せだよ』
だから、私はもう、泣いたりしません――
終 章 〜 仮面の下の笑顔 〜
「先生! お忙しいところすみませんが………うちの子が転んでしまって………」
「あら、それは大変! さぁ、直ぐにこっちへ――まぁまぁ…随分派手にやっちゃったわねぇ」
「でもね、ボク、ころんでもなかなかったんだよ! すごいでしょ、せんせい!」
「うんうん、偉かったね………よく頑張った!」
本当は凄く痛かったろうに――
瞳にほんの少し涙を滲ませる子供の頭を撫でれば子供がへへ、と照れ笑いを浮かべる。
それを見て満足そうに微笑いつつ一つ頷くと、は徐に薬品の入った瓶を取り出した。
「よし、そしたら薬を塗ってあげるね………ちょっと沁みるけど、今度は我慢出来るかな?」
先の戦――益州攻略はホウ統の功績もあったが、多少の被害を蒙りながらも勝利を以って終わりを告げた。
結果、劉備は成都に移り、蜀漢の王として名乗りを上げる。
その際、にも都に上がる話が出ていたのだが………
「――全く、お前は人使いが荒いな。 少しは年寄りの身にもなってみろ」
「ふふっ、その歳で何を言いますか。 …でもごめんね父上、後は任せるわ」
軍の医療班全てを父に託し、元居た集落――かつて父と二人で切り盛りしていた施設へと帰って来たのだ。
軍医でなく、ただの医師として――
「はい、おっしまい! もう危ない遊びしちゃ駄目よ」
「はーい! ありがとうせんせい! こんどはともだちとあそびにくるね!」
「先生、本当にありがとうございました」
笑顔で深々と頭を下げる母親にお大事に、と一言だけ告げる。
遠くなっていく二つの背中を見送りながらは変わったな、と思った。
それは集落の人間だけではなく、自分自身にも言える事だ。
以前は互いが腫れ物に触るような………自らが壁を作っていたようにも思う。
しかしこの集落の人々は、の帰りを快く受け入れてくれた。
そして、彼女自身も――
「先生、出立の準備が整いました」
「うん、ありがとう。 そうだ…貴女はもう家に戻りなさい、旦那様とお子さんが待っているんでしょう?」
「はい! あ、えぇと、その………」
「ふふっ…照れなくてもいいじゃない。 大丈夫、きっと今回は貴女の同行は必要ないと思うから」
「あ、ありがとうございます先生! お気をつけて!」
笑顔で手を振りながら、幸せそうに走り去る侍女。
その姿が通りの建物の影に消えると、は施設の中から出てきた男に向かって声をかけた。
「此度の荊州行き、貴方はどうなさいますか?――華佗先生」
「あぁ、勿論………あっしも雑ぜてもらうよ」
――あっしはに、帰るって約束したんだ――
地へと倒れ伏していく己の身体。
矢を食らった背中が、焼けるように熱い。
この感覚は矢傷によるものだけではない、とホウ統は瞬時に判断した。
これは――毒だ。
身体への回りは遅いものの、時間が経てば間違いなく死に至る。
しかし、彼はここで諦めたくはなかった。
未だ残る力を振り絞り、思案に頭を巡らした刹那、視線の端に一つの茸を捉える。
それはを妻に娶ってから間もなく彼女から借りた書簡に描かれてあったものと酷似していた。
――これを食せば、直ちに死に至る。
しかし、少量であれば一時的に身体機能が低下し、冬眠したような状態で納まる事がある――
………これは、賭けだね。
痛みや熱さに耐えながら精一杯手を伸ばし、茸を引っ掴む。
身体機能が一時的にでも低下すれば、毒の回りを遅くする事が出来る。
そして、毒が完全に回る前に、治療を受ければ――
「………後は、運を天に、任せるしか、ないねぇ………」
細かい量までは、解らない。
一歩間違えれば、直ぐにでもこの命は潰えてしまうだろう。
しかし――
何もしないで死ぬよりかは、遥かにましだ。
ホウ統は意を決したように茸をかじると、薄れ行く意識を感じながら残りを懐に収めた――。
「――父上!」
「来たな。 ………相変わらず元気そうだな」
「父上もね。 で、肝心のお方は何処に?」
「あぁ、今は天幕の中でお前達を待っている」
「了解。 じゃ、華佗先生、早速」
「あいよ」
は馬から降りると、父との会話もそこそこに治療の道具を馬から降ろした。
同行している華佗という男もの隣でてきぱきと準備を進めている。
天幕に消える二人の姿を見遣ると、父は回顧の想いに心を馳せつつその顔に笑みを浮かべた。
古巣にて穏やかな暮らしをしているの元に、蜀漢の使者が訪れたのはつい数日前の事だった。
荊州を孫呉と取り合っているという話は父からの便りで知っていたのだが…度重なる戦の際、関羽が敵の毒矢を受けたらしいのだ。
幸い命を落とすまでには至ってないが、蜀漢きっての猛将が戦線を離脱したとなってはかなりの痛手となる。
そこで、更なる高度な治療を施すべく達が呼ばれたのだった。
「関羽殿、お加減は如何ですか――って、何をしてるんですかっ!?」
「見て解らぬか、殿。 ただ待つのも退屈なのでな………馬良と囲碁を打っておった」
「そういう問題じゃありませんっ! 安静にしてなくては駄目だ、って父上も申してませんで、したっ、け!?」
「まぁまぁ、それだけ関羽殿が無事だって事じゃないか………それくらいにしときな」
周りの和やかな雰囲気とは裏腹に、むきー!と手負いの者に牙を剥く勢いで騒ぎ立てる。
これではまともに作業が出来ない。
何の騒ぎだと慌てて天幕に入って来たの父や護衛兵に彼女を託すと、華佗と言われる男が漸く関羽の前に出た。
「久し振りだねぇ、関羽殿」
「おぉ、我が軍に鳳雛が戻って来おったか」
「はは………そう謳われた時はもう終わったよ。 ホウ統という男はもう死んだんだ」
「しかし、我らは貴殿の功績を忘れてはおらぬぞ。 我が軍での貴殿はホウ統殿のままだ」
会う度に聞かされる賛辞に、ホウ統はくすぐったいねぇと覆面の下で笑う。
だがの父から聞いた関羽の傷の具合は正直言って思わしくない。
直ぐにでも適切な処置を施さなければ、関羽の腕は使い物にならなくなるだろう。
ホウ統は昔を懐かしむ気持ちをぐっと堪えると、手馴れた様子で治療器具を並べ始めた。
「さぁ、昔話は終わりだよ関羽殿。 ちょいと傷を見せてくんな」
益州攻略の後、ホウ統は一線を退くとと共に医師として生きる事を決めた。
しかしそれはが望んだ事ではなく、己の意思で決めた事。
それは彼が、軍に仕官するずっと前から思い描いていた形――
――戦とは違った形で人々の力となる事――
そういった意味でも、の存在はホウ統にとって大きかった。
社会的な地位が低いにも関わらず、己の想いを貫く。
それは軍に入ってからも、軍を退いてからも変わらずにの、そして彼の心を強くしていた。
――、お前さんは何時もあっしに救われたって言ってるけど………
あっしも、同じようにお前さんに救われたんだよ――
「本当に、麻酔は要らないのかい関羽殿? 痛いけど、我慢出来るかねぇ」
ホウ統は覆面の下で笑みを浮かべながら、関羽に向けて治療用の刃物を意地悪そうに光らせる。
そして、漸く落ち着きを取り戻したが隣に位置すると、彼女と笑顔を合わせつつ口を開いた。
「さぁ、手術開始だよ」
「はいっ! さくっといきましょう先生!」
――士元様、貴方のためにも――
私は、もう泣いたりしません。
二人が、何時も笑っていられるように――
――貴方が笑ってくれれば、私もそれで幸せだから――
―― 劇終 ――
2009.09.17 完結 アトガキはこちらからどうぞ。