切り札はここにある 〜7〜






 七 ―混迷―










 朝露が葉を煌かす清々しい朝。
 未だ夜が明けたばかりで、この鍛錬場も普段は人気がなく冷え切っている。
 しかし、今朝は一人の女――が一対の剣でひたすら冷たい空気を切り裂いていた。
 己の中に燻るあらゆる気持ちを振り払うように。

 それでも脳裏に思い浮かぶのは二つの笑顔。
 今迄心を許し続けていた優し過ぎる笑顔と、もう一つ――



 からぁ………ん。



 刹那、の手から剣が離れた。
 力を失ったそれは膝をつくの目の前へと小さな音を立てて落ちる。
 と、同時に己の心からも何かが音を立てて零れ落ちたような気がした。
 二つの笑顔に挟まれ、次第に様々な気持ちが渦を巻いて入り混じっていく。

 「どう………したら、いいんだ………」

 は何かに教えを請うが如く天を仰いだ。

 解らない。
 心が軋むようなこの気持ちを整理する方法も。
 これから先、どうすればいいのかも――



 すると――



 「おはようございます」



 の背中に、涼やかな声が響いた。
 よく知ったその声にはっと息を呑み、後ろを振り返るとそこには声と同じく涼しい顔をした男が立っている。

 「………陸遜、か」
 「お早いお目覚めですね、
 「あぁ――まぁな」

 陸遜の声に短く返しながら立ち上がり、得物を鞘に収める。
 そして柱に凭れかかったまま動かないでいる親友の恋人の横を通り過ぎようとした。
 だが――

 「が貴女の部屋で眠っていた理由、もうお解りですね?」

 孫呉きっての知将相手に、ただでは済みそうになかった。
 やはり気付いたか、と独り言のような言葉を吐き出す
 彼の事だ、の様子を見て既にある程度思案を固めているのだろう。
 どうしますか?と問い詰めるが如く微笑みかける陸遜に、は大きく溜息を零した。

 「すまないが、場所を変えて話をしたい――三人で」










 そして今、は自分の部屋へと戻って来た。
 卓を挟んだ向こうには依然涼しげな表情を崩さない陸遜と、未だ半分寝ぼけ眼のが並んで座っている。
 しかし自ら話をしたいとは言ったものの、彼らを目の前に何処から話をしたものかと思い悩む
 未だ整理どころか、混迷し続けているこの気持ちをどう言葉にすればいいのかすら解らないのに。
 すると――

 「私の事を気遣っているのなら、それは大きな間違いよ

 親友が先に、話を切り出してきた。
 は大きな欠伸を一つすると、ずいっと顔を近付けてを睨む。

 「事実がどうあれ、私は貴女が一人で思い悩む姿を見てるだけってのが嫌なの。 却って心労になるわ」
 「………すまない」
 「あら嫌だ、何時からそんなにしおらしくなったのかしら?」

 茶化してくるの顔に少々意地悪そうな笑みが浮かぶ。
 この態度に、これまで何度も救われてきた。
 鍛錬に行き詰まり、思うように強くなれずに苛立ちを覚えた時も。
 自分が提案した策が通らず、悔しい思いをした時も――
 しかし、今は親友の優しさが心に痛く突き刺さった。
 心配をかけたくないからこそ混迷する己の心に。



 暫くの沈黙の後、漸くは意を決した。
 上手く綴れなくとも、今ある自分のありのままを話そう。
 そして、これから先どうすればいいのかを考えよう。

 かけがえない親友と、共に――










 の話が一通り終わると、向かい側の二人は揃って表情に苦いものを含みながら口を噤んだ。
 改まって話し合ったわけではなさそうだが、どうやら心にあったものは同じだったらしい。
 目の前に突き出された現実。
 それを如何に受け止めるかを、それぞれに深く思案しているようだ。



 はこれまでの事や自分の想いを包み隠さず話した。
 己の心が奪われた相手――敵将が、かつて愛した男に似ている事も。
 その男と、心を通わせてしまった事も。
 そして、いけないと解っていても逢わずにはいられない自分の弱さも。
 しかし――



 「………、貴女の行為は間者と取られても否定は出来ません………お解かりですね」
 「ちょっと伯言! そんな言い方って――」
 「は黙っていてください。 これは我が軍にとって重要な事なのですから」
 「我が軍って………の気持ちは全く無視!? 酷いわっ!!!」



 そう、自分は孫呉の将――何があっても戦場以外で敵将と通じてはならない身なのだ。
 たとえ、己の気持ちを犠牲にしても――

 「そうだな陸遜。 私は処罰されてもおかしくはない………」

 今更ながら、後悔する。
 目の前で苦悩の表情を見せる陸遜と、涙目で恋人に食って掛かる
 その二人の様子を見て、改めて事の重大さを思い知った。

 私は、己の想いと軍――友を天秤にかけてしまったのだ、と。







 この場に再び、重い沈黙が訪れる。
 後悔の念に囚われ、頭を抱える
 を信頼してはいるが、軍の事を思うと如何ともし難い現実に苦悩する陸遜。
 そして――

 「今が乱世じゃなかったら、の恋も素直に祝福出来るのにね………」

 自分の事のように哀しい想いを心に抱える
 は自分にとって親友――今までたくさんの苦楽を共にした戦友でもある。
 だからこそ、彼女にはこれ以上辛い思いをして欲しくない。
 とびっきり幸せになってもらいたい、と。

 刹那――



 ………ん? ちょっと待って。

 にとって、何が一番幸せなの???



 突如、の頭の中に疑問が浮かび上がった。
 確かに、は常日頃――彼の人を失ってからは特に――『君たちが居てくれれば私は幸せだ』と言っている。
 しかし今は少々状況が変わっているのだ。
 彼女にとって大事な人が自分たちの他にも居て、それが天秤にかけざるを得ない立場にある。
 だとしたら――



 「伯言、ちょっとお願いがあるんだけど………席、外してくれないかしら?」

 ――の、本当の気持ちを確かめなきゃ。



 はここまで思い至り、陸遜へと向き直った。
 彼は今、友としてではなく軍師としての立場で話をしている。
 この状況では些かやり辛いし、もちゃんと話が出来ないだろう。
 そう思い、目の前の軍師へとお願いをした。

 しかし、次の瞬間――



 「………あ、私もいい考えが浮かびましたよ」



 の言葉を聞いてか聞かずか、陸遜が不意に顔を上げてふっと笑った。
 しかしその笑みは優しい雰囲気が微塵もなく、心の中に何かを含んだようなもの。
 それを見て、の頭に嫌な予感が過ぎる。
 眉間に少々皺を寄せながら、いい考えって何?と聞くと――



 「すみません、この部屋を出る前に、――貴女に一つ提案があるのですが」



 呉軍きっての大軍師が瞳を鋭く光らせつつ、話をし始めた――。










          












 黒りっくんモード、発動です(ぇ
 さぁ、彼はどんな提案をしてくるのでしょうか?
 大体は察しがつきますかねwww


 2012.08.03   更新