天を駆ける光〜Cross Road〜第7章


     7   〜 傷に触れる者  〜











 その日の深夜。

 夕餉後のまったりとした時間を過ごしたは満天の星空の下、廊下をスキップするように歩いていた。
 これからは彼女が一番楽しみにしている時間。

 「一日の疲れをどかーんと癒すのは、やっぱお風呂だよね!」

 独り言も傍の部屋に誰かが居れば簡単に聞こえてしまう程大きい。
 それでも構わず、彼女は湯殿への道を楽しげに歩いて行くのだった。





 しかし、程なく脱衣所に着いたは湯殿の中から聞こえてくる音にはっと息を呑む。

 カポーン――ザザーッ――

 それは紛れもなく先客が居るという事を彼女に知らせていた。
 こんな時分に誰だろう、と小首を傾げる。
 今迄何度も風呂に足を運んだ結果、この時間には利用する人が居ないという事は既に知っていた。
 それ故に今夜も一人でのんびり入ろうと意気揚々とここへ来たのだが――

 ――そんな物好きさんは、一体何処の誰かなぁ?

 刹那、自分自身も物好きなのだと全く自覚していないが徐に湯殿への扉をそっと開ける。
 その姿はまるで女湯を覗く下心丸出しのオヤジだ。
 片目を瞑り、ほんの少し開けた扉の隙間から中を窺う。
 すると――

 ………っ!!!

 突如瞳に飛び込んだものにはっと息を呑んだ。
 それでも声を出さないところを見ると、流石にこの覗き行為は後ろめたい事なのだと解っているようだ。





 が驚く程の代物、それは己の身体を清めている周泰の背中にある大きな傷跡だった。
 斜めに走る傷は大層深く見え、大して知識のない者でもそれが刃物によるものだと容易に理解出来る。
 現代社会に生きていたにしてみれば、それだけの傷を負ってよく生きていられたなと感心せざるを得ないものだ。
 確かあの傷は仕えている人――孫権さんを護って出来たものなのよね、とはふと史実を思い起こす。

 戦場で生命を張って戦っているだけでも尊敬に値するのに、この人は自分の命を投げ打ってでも主を護った。
 そんな人が今、私に戦を教えてくれている――

 不意にの心に何かがこみ上げてくる。
 それは、周泰に対する敬意か、はたまた別の想いか。
 初めての高揚感についついの口元から笑みが零れてきた。

 どうしてだろ、何だか凄く誇らしい………





 だが、そんな想いも一瞬の事だった。
 刹那、これまで見ていた背中から不意に声が掛かる。

 「………入るなら入れ………」
 「ふぎゃっ! うわ、周泰さん気付いてたの!?」

 が驚くのも無理はない。
 これまでこちらに背中を向けて身体を洗っている姿からは気付いた様子など微塵も感じられなかったのだから。
 しかし、周泰程の武将であれば無防備に近いの気配を察するなど狩りをするよりも容易なのだろう。
 女を相手に混浴を勧める彼の真意は解らないが、の心は困惑しながらも興味の方に支配されている。

 間近であの傷を見れば――もっと彼の事が解るかも知れない。

 思い立ったが吉日と言わんがばかりにその場で服を脱ぎだす
 それでもやはり男と混浴という気恥ずかしさがあるのか、身を包む最低限のもの――下着――は着けたままなのは言うまでもない。

 複雑な気持ちに動悸が激しくなるのを自覚しながらも、は徐に湯殿へと足を踏み入れた。







 「………来たか………」

 程なくが湯船に身を沈めると、先に入っていた男から声がかかった。
 気を使っているのか、周泰がこちらを見る事はない。
 それでも心の片隅にある恥ずかしさには変わりなく、は顎までどっぷり湯に浸かりながら器用に周泰へと進んでいく。
 すると、近付くにつれて解ってくる事実――



 湯船から出ている部分――胸から上――の見事な逞しさ。
 加えて大小様々な傷跡が数多く周泰の身体に刻まれていた。


 「凄い、傷だね…周泰さん」

 思わず口をついて出てくる感嘆の言葉。
 しかし、この世界――乱世ならばこれくらいの傷は当然の事だと周泰は言葉少なに語る。
 戦うって事は自分、そして相手を傷つけるという覚悟が必要だとは何度も教えられたけど…

 人に斬られるって、どんな感じなんだろう?
 傷跡は、どんな風に残るんだろう………?

 刹那、の心に湧き上がる興味を察したのかはたまた別の意図なのか――に背を向ける周泰。
 そして――

 「………触ってもいいぞ………」
 「うんうん、私もどんな感じなのかなーって気になってたのよね…ってえぇっ!?」

 本人から突如意外な事に許しを貰い、は思わずその場に立ち上がってしまった。
 それはまさしくノリツッコミだ。
 だが直後、自分が下着姿で風呂に入っている事実を思い出して恥ずかしそうに再び湯に浸かる。

 「…ホントに、触ってもいいの?」
 「………男に………二言はない………」

 恐る恐る尋ねると、きっぱりと応えてくる周泰。
 その言葉を受け、ここでは漸く更に近付いてゆっくり周泰へと手を伸ばす。



 ――ぴと。



 一際大きい背中の傷に触れた瞬間、は彼の確たる想いが伝わって来たような気がした。
 これは身を挺して主を護り、出来た傷――



 ――これだけの傷を受けても、この人は主がために戦っている。



 覚悟をするにも途轍もない精神力が必要だろうと思った刹那、は周泰が今迄以上に大きく感じた。
 こういう人が護ってくれるんだから、孫権さんも心強いだろうな。
 この人が今、私と手合わせしてくれてるのよね………。
 ふふ、なんだかくすぐったいな。
 そう思い、蓮の顔が自然と笑顔になる。
 だが再びこの大きな人に戦を教わるという高揚感を覚えると共に一つの疑問が頭をもたげた。
 改めてたくさんの傷に目をやりながら口を開く。

 「ねぇ、周泰さん」
 「………なんだ………」
 「どうして周泰さんは私に戦を教えようと思ったの?」

 これは率直な疑問だ。
 正直、あの時の一件がなければ絡む事はおろか、顔を突き合わす事すら叶わなかっただろう。
 そんな人が、何故………?
 すると、の心を見透かすような言葉が次々と返ってくる。

 「………お前には………見込みがある………」
 「え!? 何処が? だってあの時何も出来なかったんだよ!?」
 「………あの時………お前は『死んだ』と思った………」
 「うん、確かに思ったけど…」
 「………力だけではない………充分に見込みがある………」
 「そっそうなの!?」

 師匠?からそう言われて悪い気がしない筈がない。
 周泰が思った以上に自分を評価してくれていた事には嬉しさを抱え込む。
 そして、顔いっぱいに満面の笑みを浮かべると
 「ありがとう、周泰さん! 明日からも頑張るねっ!」
 新たな決意に心を躍らすのだった。










 暫し湯に浸かっていた二人だったが、いい加減時間も過ぎた。
 これ以上入っていては風呂から出た時に湯冷めをしてしまうだろう。
 そうが思った刹那――



 「………出るか………」



 周泰が徐にこちらを向いて立ち上がると、ざざっと水飛沫を上げながらの方へと歩を進めた。
 そして、の目前に周泰の男を誇示する部分が迫る――



 「ぎゃぁぁっ! 前くらい隠せぇぇぇっ!!!!!」



 どっごーーーーーんっ!!!!!



 気が付けば湯殿の壁にめり込む周泰の全裸があった。

 「………みご、と………」

 そして改めてその部分を見るの頭にみるみる血が上っていく。

 「しゅ、周泰さんのバカぁぁぁぁっ!!!」

 ここまで来たら自分が下着姿だという事も何処かに飛んでしまう。
 は両手で顔を覆うと、ドタバタと出口へと足を駆った。










 「くっそ、明日こそ周泰さんに一発お見舞いしてやんぞー!」

 夕方、が心に誓った事。



 それがたった今実現した事を、当の本人は全く自覚していなかった――。










続く。



                              












 2009.7.11   更新